4. 本の虫
「わざわざお忙しい所この様な場所へ、ようこそいらっしゃいました、主上」
「うむ。つつがなくお暮らしか、皇后。困ったことはないか」
困ってはいないけど読書の時間を邪魔されて残念です、と心の中で思いながら、「特に問題ございません」とわたしはありったけの笑顔で返事した。
今日も今日とて主上のご尊顔は麗しい。年齢は二十八歳だが、帝だけが着ることを許される豪奢な着物を身に纏う彼はもっと年上に見える。着物には優美な伽羅の香が焚き染められているようだ。
「それは良かった。さて、そなたにひとつ頼みがある」
「なんでしょう?」
「四夫人との顔合わせがまだだっただろう。そこでまずは、四夫人と面識を持って欲しいのだ」
「ああ、そのことでしたらもう段取り済みですわ」
「……なに?」
「昨日、四夫人には挨拶も兼ねてお茶にお招きしたいと招待状を送りました。返事も届いていますので、来週から一人ずつ会う予定です」
主上は驚いた顔をしているが、わたしもただお茶を飲んで読書してだらだらしていたわけではない。もう罠はしかけてある。
「さすが周浩然の娘。仕事が早いな……」
「当り前ですわ。何もしなければわたしが皇后になった意味がないじゃないですか」
「そうか、よろしく頼む。では四夫人について、俺から説明しておこう」
主上が軽く咳払いをしたところで、わたしは主上に向かってすっと片手を挙げた。
「その必要はありませんわ」
「なに?」
「わたしはまず、偏見の無いまっさらな状態で四夫人に会いたいのです。第一印象、そして三十分も話をすれば相手の人間性はある程度わかるものですわ。まずはわたしに任せて下さいませ」
後宮の中で、皇后の次に立場の強い四夫人と呼ばれる妃たち。
四夫人の出身や家庭環境については、既に周家の調査部隊を使って調査済みだ。四夫人ともなれば帝の寵愛だけでなく家格も良いなので、家にいた時から陽花の耳にも様々な噂は入ってきていたが。
ただ、後宮には四夫人以外にも百人近くの妃と数百にのぼる侍女・女官が住んでいる。さすがにそこまで調査するには骨が折れるので、とりあえずわたしは四夫人に接触し、それ以外の妃たちについては主上の通いがある妃と有力貴族出身の妃を中心に調査部隊に調べてもらっている。
「……わかった。そなたの意見を尊重しよう」
「ありがとうございます、主上」
わたしはにこりと微笑んだ。
彼の話は落ち着いたようで、お互いにしばらく無言でお茶を啜り合う。あのー、用が済んだなら早く帰って欲しいんですけど、とわたしがこっそり心の中で毒づいたところで、主上がおもむろに口を開いた。
「その本、そなたが借りたのか?」
「え?ええ、そうですわ」
主上が指をさしたのは、先程翠玉が片付けていた本の山だった。積み上げられた本で高い塔が建っているものの、散らかっていなくて良かったと安堵する。
「見たところ政治の本から経済の本、哲学の本もあるな。全部読むのか」
「もうあれらは読みましたわ。明日にでもまた書庫に行こうと思っていたところです」
「なに?もう読んだ?」
「はい。自宅にいる時はもう少しゆっくり読むのですが、せっかく宮廷書庫を使える貴重な時間を無駄にする手はないと思い、せっせと読みふけっております。わたしもいつまでいるかわかりませんからね」
宮廷書庫は、読書が趣味のわたしには宝の山に見えた。周家にもかなりの本は揃っているが、さすがに国家規模は違う。
「しかしあの類の書物は、女人が好むものではないだろう」
「まあ主上、わたしは周家の娘ですよ? 政治、経済、哲学、詩歌、己の糧になるものはなんでも読みますわ。学んだことを実践にも活用したいと思い、兄に代わって小さい規模の商売は任せてもらっているくらいです。ちゃんと恋愛小説とかも読みますわよ。やっぱり恋は素晴らしいですものね」
恋は素晴らしい。わたしをこんなに変えてくれた。何にでも前向きに、積極的に取り組める姿勢になったのは恋をしたからだ。わたしの恋はもう終わってしまったけれど、恋に年齢は関係ないと言うではないか。
「最初に言っていた話は本当なのか?その、好きな人が忘れられないという」
「もちろんですわ。初恋なんです。彼の言葉を胸に、今を生きているんですもの」
自分の素直な恋心を、一応名目上は夫である帝に打ち明けるのも変な感じはしたが、お互いの背景を理解し利害が一致した上で成り立っている関係だ。
あれ?わたし、何か変なことを言ったかしら?
主上はなんともいえない、微妙な顔をしていた。