起源の章 玉藻の思い
「何故泣くのですか?」
玉藻は幸吉の涙の意味がわからず、小さな身体をギュッと抱きしめた。
薄暗い中、少し離れた板の間で休んでいた志乃と母親が心配そうな顔をして二人の様子を見ている。
やがて瓦灯の明かりを残して家の中が暗くなり、玉藻の胸の中で幸吉がすやすやと眠りに落ちていった。
幸吉の寝顔を見つめながら、優しく頭を撫でている玉藻の肩に白蓮がそっと手を置いた。
「この子は産まれた時より口が利けぬというだけで何も悪い事などしておらぬ。それどころか自分の気持ちを上手く伝えられずに、たくさんの辛い思いをしてきたに違いない。人柱に立たされるなど理不尽にも程がある、何としてでも救ってやらねばならぬ」
玉藻は白蓮の言葉に深く頷くと、健気な寝顔に愛おしさが込み上げ、幸吉を再び強く抱きしめた。
幸吉を思いやって優しく接する玉藻たちの姿を静かに見守りながら、志乃と母親は目に涙を浮かべ、手を合わせた。
(あの方達を心から信じて幸吉のことをお任せしよう)
志乃達の思いが伝わったのか、白蓮が二人の方を見た。
「其方達のこの子を大切に思う気持ちが必ず大きな力となって役にたつ時が来よう。その時のために、二人とも体と心を休めておいて下され」
白蓮は笑顔で頷くと、そっと瓦灯の明かりを消した。
しばらくの後、皆が寝静まり静寂な夜がゆっくりと時を刻んで行った。
…朝の光が辺りを照らし始める…
ふと人の気配で目を覚ました玉藻の側で、幸吉の頭を優しく撫でている志乃と母の姿があった。
玉藻に気付いた二人は、寝ている白蓮に気を遣って小声で挨拶をした。
「おはようございます玉藻様、私たちは今からお百度を踏みにに行って参ります。幸吉のこと宜しくお願い致します」
二人は深々と頭を下げた。
「気をつけて行かれるが良い」
玉藻は笑顔で頷くと、外に出て志乃達を見送った。
二人の姿が見えなくなるのを見届け戻ってくると、玉藻の姿を見つけた幸吉が、寝惚け眼を擦りながらこちらの方に走って来ると、嬉しそうに手を握り、外の方へ誘おうとしていた。
玉藻は目を細めながら幼子の頭を優しく撫でた。
「よしよし、私の顔を見てそんなに喜んでくれるのかい、可愛い子じゃ」
玉藻は幸吉に手を引かれるがままに身を任せた。。
「どうしたんだい、私をどこかに連れて行ってくれるのかい?」
玉藻が尋ねると幸吉がこくりと頷いた。
外に出て、手を引かれるままに畦道を抜け、鬱蒼とした森の中を進んで行くと、急に開けた場所に辿り着いた。不意に幸吉が立ち止まり、前方を指さし少し怯えた様子で玉藻にしがみついてくる……あたかも時が止まった様な静寂の中、目の前には水嵩を減らした大きな沼が現れた。波一つ立っていない深緑をした水面からは、唯ならぬ妖気が漂っていた。
(此処が龍神の棲む大沼か…)
玉藻はしゃがんで幸吉と目線を合わせ、その頬に両手を当てた。
「この龍神の棲む大沼に私を案内したかったのですね。ありがとう幸吉、其方は賢くて勇敢な子。皆を心配させないように気丈に振る舞い、怖いのを我慢しながら、たった一人で自らの運命と闘っていたのですね。……だが其方は一人ではない、母様や姉様、私達がついているではありませんか。皆が其方のことを愛しく思っておるし、護りたいと思っていることを忘れないでおくれ」
幸吉は目に一杯の涙を浮かべながらも笑顔で頷いた。
玉藻も笑顔を返して幸吉の頭を優しく撫でた。
「よしよし、よくぞ勇気を出してこの場所に案内してくれました。今日は特別に其方の為に、私の力を見せて進ぜましょう」
玉藻は幸吉に背を向けると、美しい金色に輝く毛並みの九尾の狐の姿に変化した。
目の前で何が起こったのか理解出来ずに驚いた表情で立ちすくむ幸吉。
「さぁ、私の背にお乗り」
優しく声をかけ、幼い子の為に背に乗りやすい様に身体を伏せる玉藻。
ふと我に帰った幸吉が恐る恐る玉藻の背に乗った。
「私の着物の帯に掴まるが良い」
幸吉は慌てて帯に手をかけた。
「では行くぞ」
玉藻は幸吉が振り落とされない様に気を配りながら森の中を走り抜け、やがて空中を駆け巡り始めた。空の上から森や畑、村の家々などを見下ろし、草原に降り立ったり小川で魚やサワガニなどを捕まえたりと幸吉にとっては夢のような時間が過ぎて行った。
最初は強張った表情をしていた幸吉であったが、途中からは楽しそうな笑顔を浮かべ喜んでいた。
幸せな時間が過ぎ、元の場所に戻ってきたのは、お日様が丁度真上に来た頃であった。
玉藻は再び体を伏せ、幸吉を背から降ろすと元の美しい女性に戻った。
「どうだい、楽しかったかい」
笑顔で問いかけると、幸吉が一生懸命言葉を発しようとしていた。
「あ………り………が………と……う」
玉藻は目に涙を浮かべ幸吉をギュッと抱きしめた。
「今日のこと其方と私だけの秘密にしておいておくれ」
笑顔でコクリと頷く幸吉。
絆の深まった二人は仲良く手を繋いで帰途に着いた。




