馬謖は嘲笑う
参考書籍
人間三国志 林田 慎之助 氏 著
孔明北伐考 練り消し 氏 著
爆笑三国志 光栄出版部
僕達の好きな三国志 宝島出版
馬謖は的確に配刀を振るっていた。街亭に布陣した蜀軍の戦意は高くはなかったが、馬謖の指揮のもと、麓から湧き上がってくる魏軍の猛攻をよく凌いだ。
馬謖。字は幼常。荊州南郡の名族、馬氏に連なる名門である。兄には白眉と称された俊才がいるが、士大夫としての教育を受けた兄とは違い、馬謖はあらゆる戦術、兵法に通じた天才軍略家であった。
その天才がいま、窮地に陥っている。こうなる事態をある程度想定していなかったわけではないが、ここまでの負け戦になるとは思っていなかった。
かつて謀略で追い落とした魏軍の将帥、司馬懿仲達の実力を低く見積もっていた。いや、低く見積もらせた司馬懿が見事だったという他はない。前線で指揮を執るその息子、司馬師、司馬昭の兄弟の前線指揮官としての力量も確かなものがあった。
が、前線指揮官としてなら馬謖は天下に比肩する者はない。圧倒的不利な状況にありながらも戦術ひとつで互角に渡り合った。とはいえ、多勢に無勢ではいつまでも持ち堪えられるものではない。戦術は戦略との両輪が揃って初めて効果を発揮する。圧倒的不利な状況を覆せる、関羽、張飛、趙雲のような武力を持っているわけでもない。そもそも馬謖自身は軍略家を自負している。人材に乏しいため、戦術家としての手腕を振るわざるを得ないのだ。
いよいよ本陣も敵軍に侵食され始めた。体力、気力に大きく劣る蜀軍にこれを防ぐ術はもうない。が、ここに来て軍略家としての馬謖の才覚が発揮された。
先だって配下に組み入れた魏軍の降将、王平に兵を授けて遊撃に当たらせていたのだが、これが到着。多少、退路の確保に手間取ったようだが、この王平軍の側面攻撃を食らった魏軍の戦意はしばし挫かれた。
大国、魏より大きく国力に劣る蜀に降ってきた王平を危険視する声は小さくなかった。が、その純朴な人柄と武将としての非凡な才覚を馬謖は見抜き、重要な任務に着けた。それを意気に感じた王平もまた馬謖に絶対の忠誠を誓い、見事にその期待に応えてくれた。この戦いさえ乗り切れば、人材乏しい蜀軍に王平という強力な手札が加わるであろうと馬謖は内心ほくそ笑んだ。が、それもこの窮地を脱してからのことだ。この逸材だけはなんとしてでも生還させねばならない。
「将軍! 王平軍より伝令! 退路の確保に完了とのこと。今すぐ本陣を引き払われたし」
そう伝えてきたのは側近、陳亭である。武力も知力も見るべきものはないが、周囲を和ませる不思議な魅力を持っているので気に入って取り立てた。陳亭自身、なぜそこまでの抜擢を受けたのか不思議に思っているほどである。こんな窮地においても地道に仕事をこなせる胆力がある。馬謖は人を見る目にも恵まれていた。
馬謖は即座に復命し、撤退戦に移行。が、山上に布陣しての撤退は困難を極める。しかも戦況は圧倒的に不利なのである。それでも馬謖は天才的な戦術を如何なく発揮。王平も奮戦し、大きな犠牲を払いながらもどうにか死地を脱したのである。かくて建興六年、街亭の敗北により支配下に置いていた三郡及び包囲していた祁山を手放し、数では圧倒的に有利だった蜀軍は撤退。第一次北伐は失敗に終わった。
一方、勝利を収めながらも大将、馬謖を取り逃がしたと知った司馬懿は大いに憤った。あれほど絶望的な状況にありながらも血路を開いた傑物に心底震えた。この敗戦を糧にあの天才はさらなる成長を果たすだろう。蜀の丞相、諸葛亮以上に危険な人物の成長に手を貸してしまったようなものだ。報告に来た司馬師、司馬昭の息子二人を激しく叱責した。
無事、本営との合流を果たし、漢中に帰還した馬謖であったが、軍法会議の結果、軍の基本方針に背き街亭の山に布陣した罪で投獄。死罪が決まった。今回の大敗の責をほぼ引き受けた形となった。その一方で馬謖の命に背きながらも私兵を率いて遊撃の任務に当たったとされた王平は功績を認められ、討寇将軍に格上げされた。
馬謖が投獄されてから数日、突然諸葛亮が非公式に面会に来たのはいよいよ刑の執行間近い頃だった。
しばらく無言の二人だったが、諸葛亮が搾り出すように言った。
「やはり、お前の刑の執行は、私の権限で……」
なおも言葉を接ごうとする諸葛亮を馬謖が制した。
「おやめください。閣下が私心でそのようなことをされては国家が滅びます。軍を引き締めるためにも、やはりこれが最善なのです」
「私心ではない……この国にはお前の力は不可欠なのだ。此度の敗戦でよく分かった。軍規より、人材の損失の方が今の蜀には大きな痛手だ」
「私ごとき一人いなくなった程度では国は揺らぎません。今は王平という良将もおります。舜帝が禹を用いたように、今後は彼に。何卒、判断を誤らないでくだされ」
馬謖の決意は変わらなかった。孫子の例を引くまでもなく、軍の規律は最優先される。言葉など交わさずとも、二人の心の内は通じ合っていた。これほどまでに相手の心が分かるというのに、なぜ、街亭の戦の前ではあんな微妙なすれ違いがあったのか、二人は思わずにはいられない。心が通じ合うからこそ、道が違えることもあるのだろうかと、二人は奇しくも思い至った。
馬謖擁護の声も根強くあったが、馬謖自身が死を決断したのであれば、それを最大限活かすのが馬謖の遺志と思い、諸葛亮はそれを退けるしかなかった。これこそが馬謖の、乾坤一擲の策であった。やはり二人は深く通じ合っていたのである。
そして刑の執行が明日に迫った日、今度は王平が面会を求めてきた。
「立派な出で立ちだな。やはり君には将軍職が相応のようだ。これで君も存分に力を振るえよう。ぜひ、それを我が国のために役立てて欲しい」
「将軍……ここ数日、みどもは考えに考え抜きました。ない知恵を絞って考えました。やはりみどももお供いたします。このまま貴方様一人に責を負わせ、なんで将軍職を全うできましょう」
「王平、あまり私を失望させるな。君は小事にこだわり大局を見誤るつもりか? ここで死ぬより、生きて職責を全うする方が遥かに険しい道のりだ。君にはそれができると思ったから託すのだ。私にそこまでの忠誠を誓ってくれるのは嬉しいが、その忠義を丞相閣下、ひいては蜀に尽くしてくれるのが、私にはもっと嬉しいことなのだ」
王平は跪き、その震える手で馬謖に拱手するしかなかった。
王平が去った後、馬謖は街亭の戦いの少し前を顧みた。
北伐の軍を起こし、鮮やかに三郡を手中に収め要地、祁山を包囲したものの、魏は援軍に将帥司馬懿仲達、そして曹五将の一人に数えられた名将、張郃を派遣してきたのである。その迎撃の大抜擢を受けた時はそれなりに興奮もした。やっと自分の軍略を自由に振るえる。戦争などしないに越したことはないが、やはり軍略家として指揮を執るのは本懐ではある。今までその機会に恵まれなかったのは先帝、劉備の遺言に依るところが大きい。劉備が馬謖を重用しないよう諸葛亮に釘を刺したのは、馬謖なら容赦なく劉禅を廃嫡するであろうことを劉備は見抜いていたからだ。実際、馬謖は諸葛亮のためなら劉禅を除くのもやぶさかではなかったし、諸葛亮にそう進言したことさえあった。が、諸葛亮の忠誠は劉備にあり、劉禅に対してもそれは変わらなかった。そんなことは馬謖自身、よく分かってもいた。
それでも諸葛亮は後々を考え、馬謖に大軍の指揮権を与えた。諸葛亮の後継者と目されながらも実戦経験乏しい馬謖に対する風当たりは冷たい。その声を封殺するためにも、今般の一戦は二人にとって重要だった。ここで馬謖が実績を挙げれば、諸葛亮は自身が死んだ後も蜀は安泰であろうと。馬謖にもその意気込みはあった。
が、街亭の戦いの方針も正式に決定した後、諸葛亮が個人的に馬謖の元を訪い、方針の変更を求めてきた。守って敵を退けるという馬謖が立案した基本戦略を覆し、山上に布陣。魏の増援を殲滅しろというのだ。ご丁寧に布陣図まで作成して。
それを見た時、馬謖は危うい、と直感した。確かに、守って敵を退けるより効果は高いし目に見えた戦果が期待できる。それを戦場の土壇場で馬謖が独断で行ったとなれば、確かに内にある反馬謖の声も消えるであろう。が、それは勝って初めてできることなのである。
諸葛亮の布陣図はなるほど、大きな戦果が期待できる見事なものだが、肝心の兵站線に綻びが見え隠れしている。この兵站線への軽視が諸葛亮の軍略家としての限界であったことを馬謖は見抜いていた。それでも、敬愛する諸葛亮の意向を馬謖は飲んだ。
危険な箇所はあるものの、地の利、兵力差、戦況等々を考慮すれば、自身の戦術眼を持ってすれば充分挽回できると思った。しかし、それでもまだ足りないと思ったのか、諸葛亮は細かいところにまでいちいち指図した。この細かさも諸葛亮の欠点ではあったが、馬謖はあえてなにも言わなかった。諸葛亮の真意はとにかく馬謖に華を持たせたい親心であるのが痛いほど分かったからだ。馬謖は諸葛亮の期待に応えるためにも、諸葛亮に忠実に従ったうえで勝利を挙げねばならなくなった。
結局、巨大な軍権を与えられたものの、馬謖は何一つとして任されてはいなかったのである。唯一の救いは魏の降将、王平の自由を与えてくれたことだった。
ついに死刑執行の日となり、馬謖は刑場に引き立てられた。多少、本意ではなかったものの、これで良いと思っていた。指示したのは諸葛亮ではあったが、それに従ったのは自身の判断だった。なんとなれば指示に反し、前線で思うようにやれたのにそれもしなかった。それが自身の限界でもあったのだろう、と。
見届けの席には蜀の重臣に並んで諸葛亮の姿も見える。が、やはりと言おうか、顔色は良くない。そんな姿を見せないでくだされ、丞相閣下はどんな時でも、超然としておられねばならないのです、と、馬謖は心中で訴えずにはおれなかった。
やがて連座する配下が続いて引き立てられた時、馬謖は目を疑った。あの陳亭の姿があったからだ。声を掛けずにはいられなかった。
「お前、なぜここにいる? お前には大した夫役はないのだから、死罪は免れたはずだ」
驚く馬謖に陳亭は何本か欠けた歯を見せ、にこやかに言った。
「へえ、そうなんですがね、どうも将軍をお見送りできそうもなくて、お伴させていただくことにしました」
「なんということを……お前には家族があったはずだ」
「それなんですよ。私を将軍様が引き立ててくださったおかげで、家内、息子にそれなりのものを残せました。そのうえで私一人、見て見ぬふりをするのは少し違うんじゃないかと思いまして。ぜひ、あちらでもお側に仕えさせて下さいませ」
自分にしてはこれほど人にも恵まれていたかと思うと、悪くない人生と思えた。
そもそも馬謖と諸葛亮は対魏方針では決定的に立場を異にしていた。諸葛亮は魏への侵攻を焦っていたようだが、馬謖は内政に専心し、魏の自滅を待つというものだった。自身がトップに立てばその方針で行くつもりであったし、そのためには街亭で勝利する必要もあったのである。が、この大敗で皮肉にもその方針は踏襲されるであろうと思った馬謖であったが、さらに皮肉なことに馬謖の死後、蜀は対魏戦に突き進むことになる。その原因がまさか馬謖を失った諸葛亮の暴走にあるとは、いかに天才とて見抜けるものではなかったろう。
馬謖とその配下の刑は粛々と執行され、その首を前に諸葛亮は涙を憚らなかった。
馬謖幼常。天から溢れんばかりの才能を授かりながら、唯一の不幸は、自身の才能の重要性を見抜けなかったところにある。
司馬懿仲達は釈然としなかった。あれほど見事な撤退戦をやってのけた戦術家がなぜ、街亭では兵站線の軽視という初歩的なミスを犯したのか。布陣にしても足並みが揃っていなかったのか。勝利しながらも腑に落ちない点が多すぎる。そこに諜報局からの報告が入った。
馬謖斬首の情報を聞いた司馬懿は、これは孔明の罠ではないかと訝りつつも、心の底から安堵せずにはいられなかった。
〜了〜
馬謖は孔明の北伐の出鼻を挫いた戦犯として槍玉に挙げられることの多い人物です。そのため、三国志ではいまいち評価が高くありません。口舌の徒、生兵法家というのが定説であり、また事実でもあるのでしょう。が、あの街亭での大敗までは、確かに馬謖は蜀では第一級の人物と目されていたようです。その実力がいかほどのものだったのかは、今となってははっきりしません。勝敗は兵家の常でもあります。
そもそも歴史の資料が戦勝国、魏、晋に依るところが大きいため、正当な評価は難しいでしょう。街亭での兵力もそのあたりを差し引いて考える必要もありそうです。
この敗戦は不可解な部分が多く、後世の人も様々な仮説を立てています。諸葛亮に人を見る目がなかった、馬謖はスパイだった、何者かが馬謖をそそのかした、不幸な偶然が重なった、等々……とてもユニークで楽しいのですが、共通するのは諸葛亮の全能性を糊塗するところがあるようにも思えます。
しかし、諸葛亮は軍略家として兵站線の軽視というアキレス腱を抱えていたのは北伐の結果が証明しており、歴史を編纂した陳寿も指摘していることです。その陳寿も父親が街亭の戦いで馬謖に連座(コン刑といって、死罪ではありません。ま、小説ですから)させられているのでなお諸葛亮には厳しめの評価を下す、とも言われますが、馬謖本人への評価は意外にも低くないので、そんな私情を挟むような人物でもないでしょう。
そこで作者は馬謖の名誉を、諸葛亮の全能性から切り離して回復しようと試みました。
もちろん、これはただの小説なので、本気にしないでくださいネ。
2019 7 18