Episode61╱-嵐山沙鳥-
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爛々と輝く月は雲で隠れてしまい姿を見せていない、そんな夜。ただでさえ明かりの少ない路地裏は、そのせいで闇一色に塗り潰されている。
凍えるほどに冷えた一筋の風が、細い道を吹き抜けた。それに呼応するように、空き缶が音を立てて転がり始める。やがて、その先にある何かにぶつかり動きを止めた。
そこに在るのは、汚濁にまみれているひとりの人間。汚臭を漂わせている14才の女の子が、誰も通らないような寂れたごみ捨て場の前で踞っていた。
少女は衣服をなにも着ておらず、上から下まで地肌をすべて晒している。
少女の髪の毛には、生臭い白濁液が絡まり付いてしまっていた。
それを手櫛で整えようと少女は試みるが、既に半分以上の汚液が乾燥して固まっていることがわかると早々にそれを諦めた。よくよく少女を見ると、全身にも同じような液体が染みついている。
少女は足を震わせながら立ち上がると、片足を上げて、前へ一歩、踏み出そうとする。しかしそれは叶わ
ず、崩れ落ちるように地べたに倒れてしまった。
「もう、いやです……。どなたか……助けてください」
少女は歯を食い縛りながら霞んだ視界に虚空を映す。するとその瞳は、次第に涙で潤できた。
もう涙なんて出ないくらい流し尽くした。そう思っていた少女の予想に反して、涙は頬を伝って落ちていき、冷たいアスファルトの上に流れ落ちていく。
少女は頭のなかで神に問いかける。
ーー親に売られて、見知らぬ人に買われて、下衆な男たちに凌辱され続けてきた……それを、『いつかぜったい神様は助けてくれるんだ』と信じて耐えてきた。
ーーなのに、それなのに、耐え抜いた先にあるのが、粗大ごみとして捨てられて、汚物にまみれて死にいく最後だなんて、あまりにも、あんまりにも酷過ぎませんか、神様……。
【自分が産まれてきた意味とはいったい何だったのか】
【自分のこれまでの人生とは、いったい何だったのか】
静寂と暗闇に包まれる裏道のなか、もはや起きる力すら残っていない少女は、自分の生についてを考えはじめる。
そんな矢先、どこからかーーおそらく道の先から、誰かの足音が聞こえてきた。
それは次第に少女へと近づいてくる。
少女は地に耳を当ててそれを聞きながら、自分の第一発見者となる人物が来るのをただひたすら待つ以外になにもできない。……選択肢はもう、ほかに残されていない。
ーー願わくば、もうこれ以上の絶望は来ませんように……。
少女はそう祈った。
そして、暗闇に慣れている少女の瞳に、足音の主がぼんやりと映った。
最初にわかったのは、夜中にはふさわしくない格好をしているということだった。
なぜなら、どこかの学校の制服を着て堂々と歩いているからだ。いくら郊外とはいえ、深夜零時過ぎにこんな人気のない場所をうろうろ歩く格好としては、到底相応しいとはいえないだろう。
その不自然さに疑問を抱きながらも、少女は『女の人でよかった』と安堵する。
見知らぬ男たちに犯されつづける日々を送ってきた少女にとって、もはや地球上の全人類半分は敵だった。
だれも彼も、一見まともそうに見える青年だって、頭の中を覗けばエロいことばかり考えている。少女はそれを知っている。
ーーこんな異能力が発現しても、もっと苦しくなるだけでした。
ーーあの人たちを倒して逃げ出せるような、そういう凄い異能力者になれていれば、あんな目に遭うのも短時間で済んだのに。こうも悲惨な末路には……ならないでしょうに……。
犯されている最中、少女はいきなり異能力を発現した。
少女は異能力についての知識すらなかったが、異能力者になった瞬間、“自分がどんな力を使えるようになったのか”、どうやって異能力を使うのか”、そして、“異能力者特有の知識”まで頭に流れ込んできた。
異能力とは、これまでの科学を根底から壊す原理不明の超常染みた能力だ。
人は生身で空を飛べない。それを可能にするのが異能力者だった。とはいえ、異能力は一人ひとつの能力しか使えない。ある人は『常人の数倍の高さまでジャンプする能力』を扱えて、また別の人は『手から火を放つ能力』を持っていたりする。
「……ん、あれ?」
やがて、倒れている少女に気がついたらしき女子高生は、小さく声を上げると共に、長い栗色の髪の毛を揺らしながら少女に駆け寄る。
倒れているのが幼い子供だということ、そして、衣服を何も身に付けていないことがわかった彼女は、驚嘆と困惑が混じった表情を浮かべた。
「だ、大丈夫、あなた!? いったいなにが……あっ! ……」
いったいなにがあったのか。そう聞こうとした彼女は、途中でそれをやめた。
生卵とイカを合わせたような生々しい臭いを放つ、白と黄色の混じる汚れを皮膚や髪にこびり付けているのを見たからだろう。
少女の股ーー恥部の中からも垂れてきている粘り気のまだある液も、彼女は見たらしい。なにがあったのかをだいたい把握したみたいだ、と少女は異能力で判断した。
ーー実際は、もっと酷い内容ですけどね。
少女は頭の中で、彼女の心中に返事した。
悪臭が鼻に入ったのか何なのか、彼女は一瞬だけ顔を歪ませる。しかし、すぐに携帯電話を鞄から取り出して耳に当てた。
「いま救急車呼ぶからね、ちょっと待ってて」
ーーうわ、視界がぼやけてピントが合いません。いやだ……いやです。このまま気を失ったら、もう二度と起きられないかもしれません。そう考えると、凄く怖い……。
少女は朦朧とする意識のなかで彼女を仰ぎ見る。革靴を履いた足からは、膝と太ももの間まで長い靴下が伸びている。スカートと靴下の中間にある地肌が、妙に色っぽく感じられる。
彼女が本心から心配しているのが、少女にはわかっていた。言わずとも伝わってくるからだ。
少女が発現した精神干渉系の異能力ーーそれは、善なのか偽善なのか、それ以前に全て見透す心の力である。
「怖かったよね、辛かったよね。もう大丈夫だから安心していいよ」
産まれてきてから初めて受けた、本心からのやさしい気持ち。それに触れた少女は、再び涙する。
しかしそれは、今まで流してきた数々の辛苦と共にあった悲しみ由来のものではなかった。
ーー凍え死にしそうだったのに、どうしてでしょうか。いまは、なんだか暖かいです。
この世に誕生してから、少女は一度も愛や情などに縁がなかった。けれど、彼女の優しい行動により、これが『やさしい』気持ちなのだと少女はようやく理解した。
「寒いでしょ? 待っててね」
彼女はそう言いながら上着を脱ぐと、少女のからだにそれを被せた。
ーーこの人、『寒い』って思っているのに、我慢してまで貸してくれるのですか……こんなにやさしいひとも、世界にはいるんですね……。
「まったく、こんな酷い事をするヤツがこの世界にいるだなんて、信じられないわ」
少女は彼女に頭を撫でられる。
そのやさしさに包まれながら、少女の意識は少しずつ薄れていく。
ーーやっぱり、怖いです。でも……どうせ、もう生き延びても、私にはなにもないんだから、いいか……な……。
「大丈夫だよ。寝て起きたら病院のベッドだから。安心して眠っていいんだよ」
ーーああ、このひとが言ってくれているのなら、きっとそうなんだろう。
遠くから、救急車のサイレン音が木霊する。
それが到着する頃には、少女の意識はもう、途切れていた。




