Episode29╱月に叢雲、花に風。風にはーー。
(51.)
およそ三割が闇に塗られた視界に、竜巻のような風に包まれた微風が映る。
破壊の化身から発せられた風が、僕の頬に触れながら後ろへ吹き抜ける。
相手との距離は、もう30メートルもない。
見た目だけなら、テレビゲームで頻繁に目にする風の精霊の様。
しかし、そこから発された言葉は、下品な欲望と我が儘な怒りしか含まれてはいない。
「いたたたた……なに? なんなのよ、私の寝床って、あんな化け物から恨み買ってるわけ?」
僕が押し倒したせいで負った擦り傷を擦りながら、月影さんは立ち上がるなり微風を睨み付ける。
「月影さん、早く逃げよう!」
ーー逃げよう、って?
自動車ですら追い付かれてこの有り様だ。
車でダメだったのに足なら逃げられると?
……無理だ。
相手は元々生身で空を翔ている。
相手が乗り物なら、まだ徒歩のみで入れる空間などから逃げられたかもしれない。
いや、辺りには地下鉄や地下街の類いも存在しない。
つまり、どう逃げようと、捕まるのは時間の問題だ。
だからといって、ただただ突っ立っていれば、一瞬のうちに僕の初めてと人生は散らされてしまう。
「陽山月光ぶち殺ソードの出番ね? 私が倒すわ!」
月影さんは先日と同じナイフを取り出すと、威風堂々とした出で立ちで両手で柄を握り構えて見せた。
「いやいやいや、いやいやいやいや!」
あのときはある意味、陽山のおかげで助かったんだよ!?
陽山が蹴り飛ばさなければ、下手したら静夜に切られていた。
多分、また同じ事を陽山にやっても、月影さんは無謀な突撃をした挙げ句、『やれやれ』なんて言われながら蹴り倒されるのが目に見えてわかる。
変な自信だけは有り余っているみたいだけど、本当に月影さん、そんなので大丈夫なの?
だいたい、そんなナイフを両手で構えたってソードにはならないんだよ?
もしもナイフ使いのありすがこの光景を見たら、泡吹いて卒倒するかもしれないレベルの酷いナイフの構え方。
「なんだよ舐めてるのかああ!? てめぇ、そんなかじゃ一番微妙な顔してやがるし、前菜にしちまってもいいんだぞ、ああ?」
「ふん! 悪は必ず滅びるシステムになってるのよ? 正義は必ず勝つ!」
無駄に会話してくれている間にどうにかしないと……。
みんなは、みんなはいったい、どうするつもりなんだ?
僕はチラリと周りの様子を窺い見る。
総谷さんは近場の街路樹に背中を預けるようにして座り込み、河川さんは手首から流れる血を止めながらも微風を見ているだけで動いていない。
「豊花、下がって。ほら、あなたも」
瑠璃は月影さんの腕を引き、入れ換わるように自らが前に踊り出る。
「ちょっと、大丈夫なの? 私の陽山月殺ソードがなくても平気?」
「応援が来るまで何とか私が時間を稼ぐ。豊花はそいつを連れて逃げるか隠れてなさい」
瑠璃は特殊警棒を振って伸ばし、挑むように微風の方へ向ける。
本当は逃げたいのだろう。
瑠璃の手は振るえていた。
「あ? なになに? わたしの言ったこと聞こえなかったの? てめぇはあとだ、そのメンヘラごっこで私の視界を半分に縮めたクソガキからーー」微風は一旦喋るのをやめた。「ーーあん? 急に異能力解除して、はいいごめんなさい、で済むなら警察要らねぇってなるだろうが! そもそも警察いないと愛のある我が家の商売もできなくなるなぁ! ああ?」
微風はよくわからない言葉を怒鳴るように発する。
「自分の思いどおりにならないと喚いて怒って暴力に訴えるーーガキなのはどっちよ!?」
瑠璃は負けじと言い返し、わざわざ近寄ろうと歩み出す。
このままだと瑠璃が危ないのに、僕はなんて、なんて無力なんだ……。
ーーおや? ほう、蛍光型はやはり速いな。もう異能力に捕らわれてしまったではないか。さて、どうなることか。ーー
「え、異能力ーーッ!?」
直後、脳裏に『失礼します』といった聞き覚えのある声が透き通る。
『前方へ出ないでください』
この声は、たしかーー。
「これってーー私のパパを襲った奴!? 愛のある我が家の二代目リーダー、嵐山沙鳥!?」
愛のある我が家のリーダーであり、大輝さんを襲った特殊指定異能力犯罪組織の一員ーーつまり、微風の味方の声だった。
「無理よ、守りきれるわけないじゃない? どうすればいいのよ、こんなの……!」
瑠璃は絶望的な状況に対して戦意を失ったのか、歩くのをやめ、その場で立ち尽くし声を震わせながら呟いた。
『念のため、もう少し下がってください。下手したら異能力に当たります』
「嘘よ。しっかりするのよ葉月瑠璃……このままじゃ、みんな死んじゃうのよ!」
全滅しかねない状況に相手の増援がきたら、たしかに致命的だ。
だけど、なにかが変だ。微風はピクリとすら反応していない様に見える。
すると、この声は微風に指示を出しているわけじゃない。
第一、この王手を指されたような状況で、わざわざ微風を手伝いに来る必要もない。
そもそも微風を擁護して利になる現状とは思えない。
なにせ、既にこちらは微風によってかなり痛手を負っている。このままなら微風によって味方は皆殺しにされる運命に相違ない。
つまりこれはーー僕たちに言っている?
「てかさてかさ、ガキって言わなかった? 言ったよね? 言ったもんね? もういい。おまえがさきに二重の意味で逝きたいってんなら、しょーがない。瑠璃から逝かせてやるよ!」
微風は体を前方に傾ける。
一手で接近してくるつもりだ。
ーー葉月瑠璃を退かせろ。線形の燐光は前に落ちて膨張を始めている。急げ!ーー
なんだかよくわからないけど、このままじゃ瑠璃が危ない。
そう直感を抱き、僕は瑠璃の腕を掴み、そのまま後ろに強く引いて後退させた。
「ゆ、豊花……?」
「瑠璃! これは微風側に手助ける言葉じゃない。こっちにのみ向けて送られているテレパシーみたいだ!」
微風は前のめりになった状態で地を蹴り、こちらに向かって飛んだ。
その時ーー。
「なっ!?」
微風の進行を妨害するように、緑色の大きな何かが目の前に現れた。
高さ二メートル幅三メートルはあり、見た感じ奥行きも二メートルくらいはありそうな、巨大で緑の透明な塊。
宝石みたくきらきら輝いており、形はまんま大きな岩みたいに歪だ。
なんだろう、これ?
「ーーぶべッ!?」
微風はこっちに向かって飛行し始めた体を捻り、咄嗟に頭を抱えた姿勢になり、減速が間に合わず緑色の透明な石に勢いよく激突した。
それと同時に、微風と衝突した瞬間、その石から甲高いガリガリとした炸裂音が幾重にも鳴り響いた。
しかし、石はほとんど傷付かず無傷のまま微風の風刃を跳ね返している。
微風に纏う鎌鼬の様な風刃が、石に当たった音だろうか。
採掘音と金属音が混ざり合うようなギャリギャリとした騒音は、衝突して微風が地面に堕ちても、未だ演奏を止めようとはしない。
微風は飛ぶ勢いを落としたおかげか、死んではおらず悶えている。
微風は頭を手で擦りながら、「痛ッ! だれだよ、シルフストーンなんて密輸しやがったのはーーッて朱音しかいねぇだろ! 朱音のばかアホいかたこッ!』と小学生みたいな悪口で騒ぎながら、立ち上がると石を何度も蹴り始める。
なんか今、ロールプレイングゲームとかでよく耳にする名前が聞こえた気がするんだけど?
し、シルフストーン?
唐突に視界の三割を覆っていた暗い塗装がパッと消え、正常な視界に戻った。
河川さんが何かしたわけではないし、僕もなにもしてはいない。
さっきの微風の反応から察するに、どうも時間制限を有する視界を奪う異能力だと推測できた。
血漿の力……と河川さんは呟いていた。
つまり、血を出すことが異能力の発動に必須なのは間違いない。
視界を奪う能力。と説明されると、たしかに不安は煽られる。
しかし、個人的な感想だと、瑠衣のほうが遥かに危険な異能力に思えた。
「シルフストーンはともかく、これをここに転移させられる異能力者はーーあのアマっ! 出てこい舞香ァァァァッ!!」
微風は吼えるように誰かの名前を叫び散らす。
そのまま辺りをキョロキョロ見るように、その誰かを探し始めた。
「ゆ、豊花? どうして……どうして異能力の発現地点が前方だってわかったの?」
瑠璃は現状よりそっちのほうが気になるらしい。
僕は正直に答えた。
「え? いや、この声の主は微風に対してたぶんテレパシーみたいな言葉を送っていないし、このままだと負ける状況を踏まえたのと」僕はあと、とついでに伝える。「ユターーじゃなくて異能力霊体が、なんとかが前に落ちてきたとかなんとか言ってて」
「見えるの!? 異能力霊体には異能力発露の光が見えるって言うの? そいつ、その異能力霊体はなんか言ってなかった? 異能力発露の蛍光とか、もしくは燐光とか留光みたいに」
瑠璃は顔を近づけると、至近距離のまま僕に問い詰める。
なんだか恥ずかしい……いや、本音は嬉しいけど。
ーーさて、どうしたものか。異能力霊体と異能力者の繋がりを弄ぶような玩具の発明を目指す異能力者研究所の仲間に、わざわざ情報など与えたくはない。しかし、私の唯一無二の豊花が教えたいと言うのであれば、やぶさかではないか。ーー燐光だ。異能力発現地点で線形ではなくなる燐光。つまり、線形非線形燐光型が私には見える、と伝えればいい。ーー
あの、伝えていいの?
いやなら伝えないようにするけど。
というより、僕はそもそもユタカや瑠璃が何を言っているのかさえわからないんだよね。
なに、凛子?
臨港?
ーーり・ん・こ・う。ここできみが『忘れちゃったテヘペロ』や『教えるのはやだやだ!』などと口走れば、葉月瑠璃から『大変! 健忘症いえ隔離病棟で治療するしかございませんわ』や『豊花なんてやだやだやーだ嫌いになったー!』と言われてしまう恐れがなきにしもあらず。そっちのほうがやだやだやーだいーやでーす、であろう。なあ、豊花?ーー
いや、誰の真似かすらわからないレベルだし、ユタカ、可愛い口調を維持できるなら普段からしてくれてもよくない?
そもそもこの状況下でテヘペロなんて言ったら誰でも嫌われる気がする。
どたらにしてもテヘペロなんて言うつもり微塵もなかったけどーー。
うん、可能なら教えたい。
伝えることにするよ。ありがとう。
ー照れてしまうではないか。礼はいいから、ひとりで脳内会話が捗っている姿に呆けている葉月瑠璃にさっさと伝えてはどうかな?ーー
え?
瑠璃は、なんだか呆然と愕然、困惑の混じり合った複雑な表情を浮かつつ、至近距離から離れず僕の返答を待っている。
「えっと、線形非線形燐光型? って言ってた」
「線形非線形燐光型? え、豊花、聞いて? 異能力発露の光を見るのは、私含め第二級異能力特殊捜査官でも無理なのよ、わかる?」
瑠璃は興奮気味に捲し立ててくる。
いま豊花が言葉にしたのは、異能力発露の光って言って、第一級異能力特殊捜査官になる為の必須条件なのよ? 美夜さんとほぼ同格の行為が豊花にはできる。その条件があるから一級になれない二級が大勢いるのに、それを豊花は、たまたま異能力霊体が見て、たまたま豊花に教えてくれた……?」
微風が喚き散らして辺りを探っているのを横目に、脳内に流れるユタカの思考に耳、いや脳を傾ける。
ーーおや? むしろ異能力霊体が異能力発現に必ず要する光を認識できないほうがおかしいとは思わないのか? 我々異能力霊体は異能力者が異能力を使うとき特殊な光を用いる。線形で命中地点に照準を定める。燐光や蛍光はあくまで残光する持続時間でしかない。我々にとって物質界に影響を及ぼす為、なくてはならない“普通とは異なる光”とさえ言える。我々が宿主の命令どおりに“光”を発しなければ不発で終わり、下手したら暴発する。そしたら異能力など使えたものではないぞ?ー
「異能力霊体に見られないわけがないって言ってる」
ユタカが早口気味に発した言葉を要約して瑠璃に伝えた。
「それは、たしかにそうかもしれないけど……まあ、うん、そうなのね。そもそも異霊体と会話が可能な異能力者なんて今までいなかった。世界初の事例、前代未聞の異能力者なのよ、わかっているの? 豊花には」
「え、あ、うん……多分?」
ーーきみは、理解できなくても、すべて『理解した』と言ってしまう悪い癖があるようだな?ーー
ぐっ……。
「あとで未来さんと教育部併設異能力者研究所にも連絡したほうがいいわね」と言っている場合ではなかった、と瑠璃はつづけた。「微風の意識が散漫になっているうちに、早くこの場から離れーー?」
ーー空から風が地面に向かい吹いてきた。
まさか!?
一瞬だけそう危惧するも、微風は未だに周りをキョロキョロ見まわし「目の前に現れろ! チキンか!? 舞香さんよォオオオオ!?」と吼えて昂るだけで、こっちは眼中になくなっている。
微風は寸でのタイミングで僕らの頭上に視線を向けた途端、目を大きく見開きながら、そこを凝視して固まった。
「わたしが迷惑かけてごめんね」
微風と瓜二つな声質が真上から聴こえてきた。
僕は空を仰ぎ見る。
僕らの上空には、二人の女性の姿が見受けられた。
ひとりは、左目が前髪で隠れそうなほど伸ばし、右目側はやや短く切った髪ーーアシンメトリーな髪型をしている大学生くらいの女の人。
そして、その女性をここまで連れてきたと思わしきーー今の微風が二、三歳成長したらこうなるだろうと言える容姿をしている少女。
煌めきを放つ緑髪を風に靡かせているそれは、やはり微風だと断言できて、同じく微風ではないのも明白だった。
ーーやがて、その幻想が地上に舞い降りた。
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