Episode28/グリーン・モンスター
(49.)
翌日の早朝、昨晩瑠璃からきたメールの内容を反芻していた。
『豊花の自宅に向かうから、家から出たら車まで誘導して。車内に入ったら強制捜査を開始して取っ捕まえるから』
つまり、月影さんを自宅から出るところまで誘導して、そのまま僕が異能力特殊捜査官だとネタばらしする。
月影さんが何の系統の異能力者なのか、その辺りの事情は訊ねたら不審に思われる可能性もある。
だから、僕は未だに月影さんの異能力の詳しい内容を把握していない。
それだけが気にかかる。
けど……まあ、怪しまれない為には致し方ない。
それより、瑠璃のメアドを知ることができたのは行幸だ。
知らないメアドからメールが届いたと思えばーーちなみにアドレスは“lapis_lazuli@……”という、まさしく瑠璃まんまの意味のアドレスだったーー中身を見たら瑠璃からだとわかり、思わずテンションが上がってしまった。
身支度すると、そういえば異能力者保護団体で働いているときに瑠璃は制服を着ていたな……と思い返し、それに倣い僕も高校制服に袖を通し、プリーツスカートを履いた。
この女子制服を着るのにも段々抵抗感がなくなってきた……恥ずかしいといった感覚が薄れてきているのだ。
「ゆったー? 日氷子っち準備できたよ」
裕希姉がノックもせずに部屋に入ってくる。
その後ろには、昨日のみすぼらしい姿から一変した、まともな成人女性らしい格好をした月影さんが佇んでいた。
「うん、僕もちょうど着替えたところ」スマホを見て現在時間を確認した。「外に月影さんの住み処を用意してくれる友人の車が停まってるから、そこまで送るよ」
「悪いわね。いろいろお世話になっちゃって」
「い、いや、べつに……」
月影さんは純粋そうな眼差しを向けてくる。
そんな目で見られると、罪悪感で押し潰されそうになってしまう。
というか、よく僕の嘘を信じてくれたなぁ。
普通、『月影さんをしばらく泊めてくれるって言う友人が見つかった。車で迎えに来てくれるから、マンションの外までは送るよ』なんて、急に言われたら少しは疑うだろうに……月影さんは疑うのを知らないのかも。
僕は月影さんを連れて部屋を出ると、マンションの外へ出た。
(50.)
「この車で合ってるの?」
マンションの前に停車している白いワゴン車を見るなり、月影さんは僕に訊いてきた。
「えっとーーう、うん。そうみたいだよ」
助手席からこちらの様子を窺っている瑠璃の姿を見つけた僕は、しどろもどろになりつつ頷いた。
後部座席のドアを開けると、中には既にひとり、ありすにどことなく顔立ちの似ている二十歳前後の年齢の女性が、瞼を閉じて身体を背凭れに預けて座っていた。
どうやら寝ているらしく、小さな寝息が聞こえてくる。
「ん? やたら大人数なのね?」
「ま、まあ、いいから早く乗ろうよ」
ついつい月影さんを逃がさないようにするため、背後に回り込んでしまう。
背中を押すようにして月影さんを車に乗せた。
「ちょっとなによ? そんなに急かしちゃって」
「あ、つい」
「つい?」
訝しむ顔をしながらも月影さんは乗車した。
「つ、ついにこの日が……ええっと」
適当なことを言って誤魔化そうとした。
そのときーー嫌な予感がして、僕は咄嗟に月影さんから離れ背後に下がった。
「そこの可愛いお嬢さぁぁあああんッ!」
ーーえ!?
「きゃあ!?」
嫌な予感の正体が、視界の左斜め上から右へと横切ると、車の近くに降り立った。
きゃあだなんて、恥ずかしい悲鳴をあげてしまったーーなんて羞恥心も吹き飛ぶくらい、突拍子もない現象が起きた。
どう考えても、遥か上空から飛んできたとしか思えない登場に驚きを隠せない。
現れたのは、片方のモミアゲの一部だけ鮮やかな浅緑色に染めている黒髪をカチューシャで飾っている、僕より背の低いーー140cmくらいしかないんじゃないだろうかーー少女だった。
小中学生に見える手足がスラッとしている美しい女の子が、いきなり空から現れたのだ。
いや、上空から襲来してきた表現したほうが正しいだろう。
というより、僕、危うく怪我するところだったんじゃ……?
その美少女と云える女の子は、危険な現れかたをしておきながら、そんなこと微塵も気にしていないような明るい表情で、僕に近寄るなり声をかけてきた。
「やっほー! ねえねえ可愛いね? いくつ? 名前教えて? どの辺に住んでるの? そのマンションが自宅? あ、あと恋人いたりする?」
「え、あ、は……え?」
は?
この子は現れるなり何を言っているんだろうか。
不思議な魅力に包まれていて、自分で思うのもなんだけど、僕と同じくらい美しい少女が、空から襲来してきたと思えばーーまさかのナンパ?
「ああ、めんごめんご! 名前を訊くときは、まず自分から名乗るべきだよね? わたしは微風瑠奈。歳は二十代とだけ教えよう。詳細は秘密だよっ!」
は?
二十代?
いやいやいや、どこからどう見ても小学生、よくて背の低い中学生にしか見えない。
ただでさえ中二の身体にしては背丈が低いと云われる僕より、さらに身長が低いじゃないか。
顔立ちも整っていて、パッチリとした大きな瞳かつ小顔で、綺麗ながらも幼さを残している。
背丈じゃなくて顔立ちから考えても、誰が見ても最大でも低身長の中学生としか思えない。
よくて14歳の肉体とされている今の僕の背丈でさえ、小学生に勘違いされることもあるのに、150cmない僕よりも明らかに背丈が低い。
一見可愛らしい女の子に見えるがーー。
「豊花! 早く乗って! そいつは特殊指定異能力犯罪組織の構成員のひとり。危険よ! 急いで!」
「え……はあ!?」
あまりにも唐突過ぎる展開についていけないなか、更なる驚愕の情報まで知らされて、困惑しながら一瞬固まってしまう。
「ん? そうだよ。で? なにが問題なの?」
飄々とした様子で、微風は首を傾げる。
それを無視して助手席の開いた窓から僕に顔を向け、必死に言葉を投げ掛けてくる。
「こいつらの仲間が直ぐ傍にいたら、私たちだけじゃ万が一にも対処できない! 早く車に乗って! 一旦待避してから何とかするから!」
瑠璃の額から冷や汗が流れる。
慌てて僕に乗車を促しつづける。
「なにそれ? わたしひとりなら対処できるって言いたいの?」
……あれ?
なんか聞き覚えあるような?
ーーまえに葉月大輝を苦しめていたヤツらのひとりで相違ないだろう。葉月瑠璃のスマホから聴こえた輩のひとりに声質が瓜二つだ。ーー
ユタカに告げられ、あの日に大輝さんを苦しめていた奴らの仲間のひとりだと思い出した。
その特殊指定異能力犯罪組織の一員だとしたら、考えるまでもなく凶悪な犯罪者に間違いないじゃないか!
僕は急いで車内に乗り込む。
大輝さんの指をあんなにバキバキ折った組織の一人だ。
下手したら殺されかねない。いや、特殊指定されているほどの異能力犯罪組織ーー下手しなくても殺される可能性だってある!
「あれ? もしかして無視してる? 酷いよ。そんなことされたら傷ついちゃうじゃん」
僕は慌てて後部座席のドアを閉めた。
車内には、今しがた無理やり乗車させた月影さんと僕を含め、五人が乗車していた。
運転席には二十代ほどのチャラそうな風貌をした男。
助手席には瑠璃が座っており、後部座席には、表情や顔立ちがありすに酷似している二十歳前ほどの女性が座っている。
その隣に月影さんが乗っており、月影さんを真ん中に挟むように、その隣に僕が座った。
「総谷さん早く出して!」
僕がドアを閉めると、運転席にいるーー総谷というツーブロックの髪型の日焼けなのか、少し肌が褐色になっている風貌をした男に瑠璃は命令した。
「へいへいへーい!」
総谷さんは妙にハイテンションで返事する。
「へ~? わたしと追いかけっこするつもりなんだ?」
総谷さんは微風の言葉を遮るように一気にアクセルを踏む。
間近にいた微風という名の少女から離れていく。
思わず安堵のため息が溢れた。
あれ、でも……追いかけっこって?
僕の一安心した感情を掻き消すかのように、唐突に瑠璃が叫んだ。
「ーー来る! 総谷さん、すぐに道を曲がって! 速度は保ったままなるべく右折や左折してアイツに追い付かれないよう頑張って!」
「ヒャッハー! 言われなくてもわかってるっつーの! 鬼さんこちら手の鳴るほうへカモンガール!」
瑠璃の大声で、安堵していた僕の心が身体と一緒にビクッと跳ねて反応する。
よくわからないテンションで瑠璃に返事する総谷さんに一瞬だけ意識が移る。
しかし、瑠璃の発言の意図がわからず、それを確かめる為に僕は後ろに振り向いて確認した。
「へ?」
普通ならマンションの前にひとり佇んでいなければおかしい微風の姿が、車の背面のガラスの先ーー僕の視界に映っていた。
車に向かって低空飛行で滑空するように、強風の速度で微風が迫って来ている様子が窺えたのだ。
微風は地面に当たらない高さで水平に飛行し、片腕を真っ直ぐこちらに伸ばしながら車に接近する。
あと少しで腕が窓ガラスに!
「ーーッ!?」
がくんと車内が揺れる。
間一髪だった。
微風の腕が危うく窓ガラスに激突する寸前、車は右折し細道に入り、何とか一時的に難を逃れた。
真っ直ぐ飛んで来る微風に対して道を曲がったことで、相手は直線に進んでいき、右折して入った細道に曲がらず真っ直ぐ通り過ぎたのだ。
安心したのも束の間。通りすぎたと思うや否や、微風はすぐに細道の前に跳ねるよう戻ってきて着地。
そのまま踊るように身体を捻ると、再びこっちに身体を向けて背を低くした。
「瑠璃! また来る!」
思わず叫んでしまう。
「ねえちょっと、これっていったいなんなの? この人達が私に寝食する場所を提供してくれるんでしょ? いったいなにやってんのよ?」
月影さんは僕を見ながら疑問を口にした。
未だに自分の置かれている状況に理解が及んでいないらしい。
「貴女は少し黙ってて!」瑠璃は月影さんを一喝すると、ありすに顔立ちが似ている女性へ折り畳みナイフを投げ当てる。「河川さん起きて! 緊急事態発生よ!」
寝ていた女性は、やっぱりありすのお姉さんらしい。
顔立ちが似ているだけじゃなく苗字まで一緒だ。
河川さんは目許を擦りながらまぶたを開くと、渡されたナイフを掴むなり真っ直ぐ伸ばし刃を剥き出しにした。
「へいへいへーい! 曲がれ曲がーれ曲がりまくーれイェーイ!」
総谷さん……チャラいといっても金沢みたいなチャラさじゃなかった。
こう言ったら失礼だけど、単なる謎にノリノリのテンションが高いだけのバカっぽい人だ。
一緒に居たら瑠璃が危ない!
……なんて、無用な心配だった。
総谷さんはハンドルをテクニカルに回しながら、右折した直後に左折、またまた角を曲がるーーと僕ですら把握していない近所の道を走る。
微風がこちらを見失うように、幾度となく細道や路地裏にハンドルを切って入り車を走らせつづける。
ーーそれでも、微風はこちらを見失ってはくれない。
あのモミアゲ緑も、こちらに負けじと小刻みに飛び跳ねて追跡してくる。
「河川さん、次の曲がり角で異能力をお願い! 未確認飛行色情狂を少しでも足止めして、その隙に距離を稼ぐから! 総谷さんはなるべく速度を落とさず走りつづけて!」
「了解リョーカイ! レディアンドガールたちの命は、俺が守ってみせるゼ! ヒャーハッハッ!」
ガタンガタンと車が振動し、ぐねぐね道を曲がるせいで、次第に車酔いが始まる。
というより、今にも吐きそう……。
「……次の角? わかった」
思わずぎょっとしてしまった。
河川さんは窓を降ろして全開にすると、徐に自らの左手首をナイフで切り裂いたのだ。
赤黒色の血が滲み出して手首から溢れ出るのを、河川さんは至極当然といった真顔で見ている。
窓を開けたことにより、外からの声が内部に届く。
「手加減してるとはいえ、わたしからこんなに逃げられた事は素直に褒めよう! でもいい加減観念しろマイハニー!」
うわ!
なんか言っている!
僕達を追いかけながらも、微風はずっと何かを言い続けていた。
意味のわからないセリフを吐きつづけている。
多分、窓を開けるまえからずっとペチャクチャ独り言のように喋っていたんだろう。
そんな状況のなか、河川さんは窓から外へ左腕を出した。
「ちょっ!?」
河川さんの突飛な行動に対して、僕だけが驚いて声を出してしまう。
「……父よ。私の霊を御手にゆだねます。……っ!」
迫り来る微風に対して、次の角を車が左折するのと同時に、河川さんは何かを呟きながら血液が滴る腕を振るい、自ら流した血を窓の外に散らすようにばら撒いた。
次の瞬間ーー。
「は? なーーはぁぁあああああッ!?」
微風の叫び声が開いた窓を通じて背後から聞こえてきた。
「え、え?」
河川さんはいったいなにしたんだろう?
微風はいきなり追跡をやめると、片目を抑えてその場で屈む。
その隙に、微風から車はどんどん距離を空けていく。
河川さんは、出血した箇所にガーゼを強く押し当てて止血していた。
「相変わらず河川さんの異能力マジパネェ! ギャハハッ!」
総谷さんは車の速度を落とさずに道を進む。
やがて、ついには大通りにまで辿り着いた。
今さっき河川さんが使った異能力は、いったいどんな能力なんだろう?
「私は未来さんに緊急事態が発生したって連絡するから、総谷さんは異能力者保護団体に急いで向かって!」
「了解! 瑠璃パイセンカッコいーね!」
「河川さんと豊花は背後に注意してて! アイツの姿を見つけたら大声で報せて、わかった?」
瑠璃はスマホを耳に当てながら、みんなに対して指示する。
「う、うん。わかった」
「眠いけど、わかった……。父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分でわからないのです」
河川さんは眠たげな顔で手首にガーゼを当てて抑えつつ、謎の独り言を呟きつつ背後へ振り向いた。
僕も慌てて後ろに目をやり、注意しようとする……が、ここにはひとり、状況を何一つ理解していない人がいるのを忘れていた。
「さっきからあんたたちはなにやってんのよ? 私の衣食住を賄う友達はいったいどいつなの?」
月影さんは僕以上に状況を理解できていない。
無理もない。嘘を吐いて連れてきたのだ。
なにが起こっているのか、誰が味方で誰が敵なのか、なにもわからないといった表情で、月影さんは左右をキョロキョロ見ながら皆に問いかける。
「つ、月影さん。その、説明はあとでするから、今はごめん。あの微風ってヤツは、月影さんを泊めてくれる予定のひとの命を狙う犯罪者なんだ」
自分で言っておきながら、すぐに恥ずかしくなり後悔してしまう。
なんか、半分は真実なのに、凄く嘘っぽく聞こえる。
「ヒャヒャなにそのジョーク! きみかわいいしイカしてるしー惚れしたわヒャヒャッ!」
頭の螺がぶっ飛んでいるクレイジードライバーには言われたくない。
「そうだったのね! なんなら私があいつを倒してあげるわよ?」
月影さんは昨夜目にしたナイフを取り出し構えてみせた。
いやいやいや、いやいやいやいや!
「今さっきの見てなかったの!? あの速さで飛んでくるんだよ?」それに特殊指定異能力犯罪組織の一員。「化け物だと思ったほうがいいよ。そんなナイフじゃ歯が立たないって!」
「フヒャヒャ! 歯が立たないのかい歯が立たないのかい! 大切な子たちなので二回言いましたサーセンキュー!」
総谷さん。
勝手に脳内で金沢みたいな人種だと思っていたのを謝りたい。
僕の心配するような人ではなかった。
たしかに軽い。
でも軽いは軽いでも脳ミソが軽い人だ。
「あっ、もしもし未来さん? 要警戒対象の緑髪の襲撃に遭いました。自称、微風瑠奈です。はい。応援と協力要請をーーはい? え、ちょっと待ってください! 特殊指定異能力犯罪組織“愛のある我が家”の一味ですよ!? どうしてですか!?」
なにやら諍いがあったみたいだ。
瑠璃はスマホに向かって叫んでいる。
……さっき河川さんが使った異能力って、いったい何だったんだ?
傍目からでは、河川さんがリストカットしたかと思えば路上に血をばら蒔いただけにしか思えない。
「へいへいへいへーい! なんか面白そうな展開じゃネーの!」
赤信号に停車すると、総谷さんは笑顔を輝かせる。
なんだろ、本当なんだろ、このひと?
「ちょっ!? そんなのおかしいじゃないですか! じゃあせめて警察に通報します! だから! どうして! 無理なの!?」
瑠璃は車外まで突き抜けるレベルで怒鳴っている。
なにかが無理だと断られたらしい。
「河川さん」
瑠璃が未来さんとスマホ越しに交わす会話を聞きながら、僕は河川さんに聞いてみることにした。
「さっきはいったい、あの微風って奴になにをしたんですか?」
「視覚を半分奪った……私の血漿の力……」
意味がわからない。
「あっ」河川さんは唐突に窓の外を指した。「あれってーー」
「え?」
河川さんが指差した方向を見上げる。
「は?」
なにかが斜め上空に飛翔し舞い上がるなにかが見えた。
ここら辺で一番高いビルの壁面に“着地”するそれは、さっきまで追いかけてきていた見覚えのある姿ーーちょっ!?
「瑠璃! あ、あそこに! 微風って奴が!」
ビルの壁に佇み周囲を見渡していた。
と、微風の動きがピタリと止まる。
こっちを向いて二秒ーービルの壁に着地しながら、透明な風を纏っている様に見えるなにかを僕達に向けて投擲してきた。
車の隣にある電柱から炸裂音が発生。
いきなり真横に切り込みが現れるなり、切断された電柱が転倒した。
「マジかよヤッベぇチョーピンチやん! ヒャッハーギャハハハハハ!」
「笑ってる暇じゃないでしょ! 総谷さん、どうにかして逃げて! 無理なら全員車外へ出るわよ!」
微風はビルの壁面を蹴ると、真っ直ぐこちらに向かい風を纏いながら飛来してくる。
目前には信号待ちの車、左には歩行者道路、右側にも信号待ちの車の列ーー逃げ場がない!
「任せろい! ヒャッハー!」
「ちょっ!?」
総谷さんはアクセルを踏みながらハンドルを切り、歩道にタイヤを乗り上げた。
「さっきなにしやがったァ!? こんっのクソアマがァァァァァッ!」
ひぃ!
怒ってらっしゃる!
路肩に乗り上げ歩行者用の道路にタイヤを乗り上げると、ギリギリな間隔をすいすい通過し、信号を無視して左折した。
直後、今まで車があった位置に微風は着地。地面に幾本もの地割れが巻き起こり、道路が一部陥没する。
「へいへいへーい! 鬼さんこちらー!」
そのままアクセル全快で道路を突っ走り、微風から距離を稼ぐ。
「ようやく、止血できたのに……はぁ」
河川さんはガーゼで強く押さえていた手首を曝すと、再びナイフの刃を皮膚に押し当てる。
「このままじゃ私たちが殺されてしまいます! 未来さん! 何でもいいから救援をお願い! 早く! 場所!? 川崎市ーー」
車は猛スピードで道路を駆けていく。
前に車が現れたら車道を変えて追い抜き、再び前に躍り出る。
こんなの一般人がやったら即お縄じゃないか!
なにが川崎市のほうは安全だ。嘘ついたのか、未来さん?
すると、背後からパトカーのサイレンが鳴り響いて来た。
『そこの車、今すぐ停車しなさい!』
「ヤッベぇマッポ来ちまったよ! どうする? 逃げるっきゃないっしょ! ヒャハハッ!」
なにが面白いんだ!
というか、警察も警察だ。
あんなのに追われているんだ。
少しぐらい状況を理解してくれてもいいだろうに!
「まったく! 未来さん、頼みますからね!?」
瑠璃はスマホに言い捨てると、どこからか拡声器を取り出した。
「ーーあーあー、てすてす!」
瑠璃は声を出して正常に機能するかチェックを始める。
そもそも警察みたいにパトランプみたいな物を付けたほうがいいんじゃないか?
いや、それ以前に異能力捜査専用の車両をつくるべきだ。
少なくとも僕からは一般車両に見えるぞ?
「こちらは異能力者保護団体神奈川支部調査課です! 現在特殊指定異能力犯罪組織の構成員から逃走中! ご助力願います!』
『なんだって!? だからといってそのような危険な運転、許されるわけないだろう! 法廷速度を遵守しろ。とにかく一度止まりなさい! 異能力者保護団体だからといって法律違反が許されているわけではない、今すぐ止まれ!』
走りながら言い争いに発展してしまう。
こんな状況に陥っているのに、あのパトカーの警官二人には微風の姿が映っていないのか!?
「止まれッつってんだろクソどもがァァァッ!」
「!?」
背後から微風が突風のように突っ込んでくる。
飛び込んできながら、微風は手を伸ばしたまま腕を左右に薙いだ。
すると、微風の目前に透明な、しかし目視はできる空気の塊ーー矢の様な物が複数出現。
一刻待たずに、全本同時に扇状に広がり射出された。
「わぁああ!? 当たる! 当たるッて!」
「あらよっと! ひゃっはーギリギリセーフ!」
車体に直撃しそうな空気の矢は、総谷がハンドルを切ったことでギリギリ当たらず隣に落下した。
直後、激しく鳴り響く刃の音。
ナイフとナイフがぶつかりあったような金属音が、四方八方から聞こえてくる。
地面に鎌鼬が通過したかのような亀裂が入り、見知らぬひとの車の上半分が吹き飛び、マンションの壁面が抉れ、電柱がバラバラに細切れになり、コンビニのガラスが大破し、中から商品が店外に吹き飛び散らばっていく。
ーー辺りは酷い惨状に変貌した。
「なんなのよこれ!? ちょっと!? 私の衣食住は!?」
「あとで説明するから!」
「つーかまーえたッ!」
騒ぐ月影さんを制していると。
ガタンッーーという音が車上から車内に響き、車内が揺れる。
たしかに矢のような物はギリギリ当たらなかった。
だが、しかし、だ。
微風に障害物はなかった。
ここは真っ直ぐ道がつづく大通り。
あの勢いのまま、ついに、追い付かれてしまったのだ。
車上には微風が乗っていることだろう。
「ーー河川さん!」
「血で奪う、残った視界……ッ!」
河川さんはナイフを腕に当てたまま刃を引いて、多量に出血してみせる。
「総谷さん! 河川さんが異能力発動したら急ブレーキで頭上の落として!」
「へいへいへーひょーっ!?」
窓ガラスが砕ける音が響いた。
運転席の窓ガラスを頭上の怪物が腕で殴り叩き割ったのだ。
というより、警察はどうした!?
この惨状を見れば事態は理解できるだろうに!
そう思い振り返ると、空気の矢が直撃したのだろうか?
パトカーは炎上して停車してしまっていた。
背筋がゾクッと凍える。
死の恐怖が身近に迫っている事を、強く実感してしまう。
「……エリ・エリ・レマ・サバクタニッ!」
河川さんは血を天井に撒き散らした。
血液が天井に染み込む。
微量の血が僕の右頬に跳ねてきた。
直後、僕の視界の斜め右上から中央下に線が引かれ、そこから右側の視界が黒く塗り潰され見えなくなってしまう。
「なにこれ!?」
視界の一部がなにも見えなくなったのを訴える僕の声を掻き消すように、ガラス片で血塗れになりながら総谷さんは思い切りブレーキを踏み込んだ。
車は急停止する。
重心が崩れ、三分の一ほど真っ黒になった視界から、掴める場所をどうにか探す。
やがて、目の前にある助手席と運転席の背凭れを両手で掴み身体を支え、完全に停車するまでどうにか持ちこたえようと踏ん張る。
「ッざけんなァァァクソがァアアアアッッ! マジで犯したあとでぶっ殺してやるからなァァァッ!」
頭上から後方へ離れゆく怪物の声ーー耳に鳴り響くのが止むのと同時に、ようやく車は完全に停まった。
「はぁはぁ……皆、急いで降りて! この場を早く立ち去るから!」
瑠璃は車内を見まわし皆の無事をたしかめると、ドアを開いて車外に飛び出す。
総谷さんは痛みからか、ぜぇぜぇと息を漏らしながら、ガラス片で血塗れになった腕を弱々しく動かし、ドアを開けると倒れるように降車した。
どうして車から降りたのかーーその疑問は、総谷さんの被害を視認して解消された。
あの怪我では、おそらく運転の続行は不可能だと瑠璃が判断したのだろう。
そして、実際にそうだった為、総谷さんは異議を唱えず停車したのだ。
総谷さんにつづき、河川さんも出血が酷い左腕を右手で抑えながら『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と唱えながら車外に出る。
「がァアアアアァァァァーーッ!」
微風の雄叫びに対してビクッと反応してしまい、僕は思わず背後に目を向けた。
「ひぃッ!」
そこにはーー少し離れた地点で、竜巻を纏う少女の皮を被った緑の怪物が立ち塞がっていた。
こちらを睨み、なにか喋っているんだろうか?
口がパクパク動いているが、それに関しては聞こえてこない。
瞬間、さっきまで緑色だったのはモミアゲの一部分だけだったのに、微風の髪の毛全体が一気に浅緑に染まった。
それだけじゃない。
肩までの長さに切り揃えてあった筈の髪が、スッと腰まで一気に伸びる様子が目に映る。
微風の周囲には狂風が吹き荒れ、ライトグリーンに輝く粒子を漂わせている。
その様は、異能力者や殺し屋といった存在が身近になった今ですら、異様な光景にしか思えなかった。
「ちょっとちょっと! さっきからなに私のこと無視してんのよ!?」
「いいから早く降りて! ーーいッ!?」
自分の目を疑った。
空気の巨大な弾丸が、旋風を巻き起こしながら僕たちに向かって直進してくるではないか。
ーー当たれば即死。
ーーよくて重傷。
それらが予想できてしまう!
「早く出なきゃ!」
「ちょっと何なのよ!?」
月影さんを押し倒すように車外へ出ようとする。
あの向きから考えるに、こっちのドアからじゃ月影さんを助けられない。
向こう側に脱出すれば、まだギリギリ当たらずに済む!
慌てながらも冷静に思考すると、月影さんを抱き締めるように車外へ跳び出す。
直ぐさま背後で風が暴れ狂う。
完全には避けきれず、強い風に背中を圧され飛び出す勢いが増した。
結果、まるでロケットのように路上へと投げ捨てられた。
寸刻ーー車は前へ前へと回転しながら吹き飛んでいく。
遠く前方の地面に落下し、スクラップに変わり果ててしまった。
そのまま車は爆発し、やがて炎が燃え上がる。
ごうごうと燃える非現実的なその光景に、堪らず嫌な汗が全身から噴き出した。
「いっつ……ぅぅ……つ、月影さん、大丈夫ですか?」
身体中に付いたかすり傷の痛みに耐えながら立ち上がり、月影さんから手を離した。
「はァァァッ! なあ? なあ、オイ! 聞こえてんのかクソアマ共! 私に操を奪われる予定の、ウザくてかわいい愉快で不愉快な仲間たちよォ?」
炎上した車やパトカー、破壊と切断に包まれた国道、強風に蝕まれた街並みーーそれらを一切意に介さず、ファンタジー世界の魔法少女、のような見た目をしている怪物は、ゆらりゆらりと体を揺らし、こちらに向かって歩を踏み出す。
その顔は、欲望と殺意が混ざった喜色一面で染まっていた。
「男は要らねぇ! バラバラミンチにしてやる。ミートボールだヤったなオイ! 女は全員犯し尽くして文字どおり昇天させてやるから覚悟しろ? まあ、まずはわたしに糞汚ねェ真似しやがったクソッタレのクソアマからだ! 初っぱなからフィストファックしてやる! 泣いて感謝しろよクソガキがァァァッ!!」
その怪物は、愛らしい容姿で、幼くいたいけな声色をフルに活用して、酷く下品なことを高らかに宣言するのであった。
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