Episode20/新規異能力者が多発する日(中)
(42.)
以前に来たときと微塵も変わらない検査室の中で、まえとは違い目の前には瑠璃ではなく美夜さんが座っていた。
「美夜さんが診るのーー診るんですか?」
『何では呼びづらいだろう? 美夜でかまわない。……ガミョなどと呼んだら呪詛を吐くぞ』と美夜さんに言われたとおり、私は美夜さんと呼ぶことにした。
瑠璃はといえば、前回看護師らしき女性がいた立ち位置にいる。紙とペンを携えて、渋々ながらといった表情で私と美夜さんの様子を窺っている。
「ボクはべつに、どちらが検査をするかなど興味はない。とはいえ、瑠璃は第2級特殊捜査官でボクは1級だ。それに彼女は18歳未満。特殊捜査官を任命されているとはいえ、まだまだ準職員に変わりない」
「はー、なるほど」
よくわからないですね。
などといつまでも無知でいるのは流石にばつが悪い。
たしかに僕は異能力について知りたいだけであって、べつに異能力特殊捜査官や異能力者保護団体のことについて知りたいと思っていない。
だけど、多少は覚えていたほうが将来なにか役に立つ気がした。
「あの、すみません。少し訊いてもいいですか?」
「ボクに訊きたいことなんか何もないだろう? きみにはあるというのか?」
そう言っているじゃないか……。
耳鼻科や脳外科に行くのは美夜さんのほうじゃないか?
「1級や2級とか特殊とか捜査官とか、いろいろごっちゃでわからなくて……違いって何なんですか?」
「なんだ、そんなことも知らないのか」
「そりゃそうよ。捜査員じゃないし、異能力者になってまだ二週間経たないのよ? 知ってるわけないで……すよ」
瑠璃、いま普通にため口だったよね?
後半ハッとして、申し訳程度に『です』ってちょい乗せあと足ししただけにしか聞こえなかった。
「まずはそうだね。捜査員と捜査官、特殊捜査官の違いについて教えてあげるとしよう。感謝したまえーー葉月、間違いなくステージ3に突入している。侵食率30%以上35%未満、ステージ3と記入したまえ」
美夜さんは瑠璃にてきぱきと指示すると、説明をつづけた。
「異能力者の捜査員は2~4級まであり、第1級異能力捜査員は異能力捜査“官”と呼ばれている。そして異能力“特殊”捜査官は努力ではどうにもならない壁がある。たとえばボクのように異能力侵食率を視るだけでわかるのは1級になるためには最低限の必須条件。葉月みたく幽体と異霊体の姿だけでも視られないと2級にはなれない。2級の必須条件だ」
専門用語が多すぎて覚えきれなくなりそうな僕に対して、美夜さんはまだ説明しつづける。
「才能に起因する異能力特殊捜査官は、異能力者を識別するという技術だけは突出しているものの、基本的には2級以上の異能力捜査員の指示で動く。ボクや葉月みたく兼任している者もいるがな。そして異能力者なら、犯罪に加担しないという前提条件をクリアしていれば、無条件で第4級異能力特殊捜査官になれる資格はある」
そこまで詳しく教えてほしいわけじゃなかったんだけど……やたらと饒舌に長々と説明してくれた。
美夜さんは捜査官の説明をしつつも、いきなり瑠璃に侵食率を明言したかと思えば、再び説明を再開していた。
面倒臭そうにしていたわりには、滅茶苦茶詳細に教授してくれた。
美夜さんは、まだ特になにもしてはいない。
ただ僕を見つめているだけだ。
前回、瑠璃から受けたときはまだ検査と言えなくもなかった。
だけど、これで検査などと言えるのか、疑問を抱いてしまうレベル。
診たのではなく見ただけとしかいえない。
「ーー30%以上!? ちょっとちょっと、豊花はまだ異能力なんて使ったこと一度しかないのよ? 最初の女体化時に発動しただけ! なにかの間違いじゃないんですか!?」
瑠璃はやたらと驚いていた。
30%……。
たしか瑠璃は、10%でステージ1、20%でステージ2、40%ステージ3、60%ステージ4、80%ステージFと言っていた筈。
ーーあれ?
待って、なんかちょっとおかしくないか?
だって、侵食率9%未満の呼び名がない。
ステージ0とでも言うのだろうか?
「きみはボクの瞳が間違いを犯すとでも言いたいのか? 仮にもボクは1級なんだぞ?」
「それは……すみません。私は私のやり方をしないと判断できないから」でも、と瑠璃はつづけた。「私が監視していたかぎり、たしかにステージ2の可能性はあると思っていたのはたしかだけど……」
そう述べたあと、「でも、30以上35未満って、ステージ3って、あまりにも早すぎるじゃない……」と瑠璃は呟いた。
そして、「もしかして……しが……と会わ……せいで……した……」と途切れ途切れにしか聴こえなかったけど、なにやら相当まずい数値なのか、なにかぶつぶつ呟いていた。
それにしても、やっぱり1級の意見は絶対のようだった。
普段は自分に自信があるだろうーーと僕が思っているーー瑠璃が、美夜さんに言われただけで、こうもあっさり自らの意見を引っ込めたのだから。
少なくとも、それくらいには第1級特殊捜査官は凄い存在らしい。
「あの、新たな疑問としていくつかいいですか? 瑠璃にも」
「なんだ?」
「ーーえ? あ」瑠璃は慌てて僕に視線を向ける。「ごめんごめん、私がどうしたの?」
そして、頓珍漢な返事をしてのけた。
「……いや、ステージ30%以上35%未満なら、ステージ3じゃないからステージ2じゃないですか? 9%以下の呼び方はないんですか? あと、瑠璃。さっきから言ってる監視ってなに?」
「侵食度20%以上40%未満だからステージ3に決まっているじゃないか」
あれ?
「瑠璃は以前、40%でステージ3って」
「は? 寝ぼけていたんじゃないか。世界異能力協議会でも1~10%をfirst stage, 11~20%をsecond stage, 21~40%をthird stage, 41~60%をforth stage, 61%以上をfinal stageだと定められている。日本でも10%未満でステージ1、10%以上でステージ2、20%以上でステージ3、40%以上ならステージ4、60%以上で末期だ。ほとんど変わらない。まさか、葉月が間違えたのか?」
美夜さんは瑠璃に振り向き問いかける。
「え? どうだったっけ?」
瑠璃は慌てて僕に顔を向けてきた。
うっ……自信が持てない。
単に僕が間違えていただけの可能性のほうが高いんじゃないだろうか?
たしかに40%でステージ3と言っていた記憶があるけど、あれは40%以上ではなく、40%未満はステージ3だと言いたかったのかもしれない。
「僕が勘違いしていただけかも。ま、まあ、それはもういいや。それより瑠璃? 監視ってなんなの?」
僕は次の質問に話題を移した。
「えっ、あーーまあ、豊花は特例だし、もうステージも後半だから伝えて大丈夫かな?」
「大丈夫かな……って?」
「人権問題とかあるし法律や明確な規則には書かれていないんだけど、異能力者が異能力を使わないか、使った痕跡ーーたとえば、性格や行動、発言に変化がないか、それを調べるために、異能力者保護団体に来た異能力者には基本的に監視役を付けるのよ。異能力者保護団体の準職員には教師や会社役員も属しているの。異能力者の身近にいるひとが勧誘される場合もあるわ。副業には当たらないとされているし」
ありすが似たようなことを言っていた。
思想や人格が変貌していくのは、異能力霊体の侵食に比例すると。
でも、違う。
僕が気になっているのは、そこじゃない。
つまり瑠璃は、僕の監視をするためだけに近寄ってきて、仲良くしてくれていただけなんじゃないのか?
そのような不安に苛まれる。
「たとえば、私がいま任されているのは瑠衣と豊花の二人の監視ね。ちなみに中三の瑠衣の監視役は……ほら、梅沢先生っているでしょ?」
「え、ああ、うん。でも、あのひとずっとまえから風守の教師じゃなかったっけ?」
そういえば、異能力についての内容をきちんと学んだのは、梅沢先生の授業で受けたあの日がはじめてだったなと思い返す。
「梅沢先生の弟さんが、瑠衣の監視役だったのよ」
「あれ、でもたしか、担任の先生に重傷を負わせたんじゃなかった?」
「うん。未だに半身が麻痺しているし、PTSDーー心的外傷後ストレス障害。いわゆるトラウマも強く残っているし、治ってもいないの」
「え……?」
瑠衣がやらかした事の重さが、今になって現実味を帯びていく。
そういえば、瑠衣は当然のように、躊躇いなく、異能力を使っていた。
けど、それってもしかしたら異能力霊体に侵食されていったせいなんじゃ……。
ーーはあ……きみは本当に間抜けだな。いいか、これは別に自己弁護などではなく、純粋な親切心からの提言だぞ? 葉月瑠衣は最初から異能力を躊躇いもなく使っていただろう。ーー
言われてみれば、たしかにそう言っていた気がする。
「……葉月」美夜さんは急にローブの内側の衣服に手を忍ばせると、小型の注射器と何かのアンプルを取り出し瑠璃に渡した。「そいつに刺せ」
「え?」
瑠璃は唐突な命令に戸惑っているのか、あたふたしたあと、困惑した表情をしながら僕の傍に歩み寄ってきた。
「ちょ、ちょっと待ってちょっと待って! なに!? 急になんなの!?」
「美夜さん、本当にいいんですか?」
「いいからさっさと注射したまえ。静脈ではなく筋注で構わない。三角筋中央部へ穿刺しろ。準職員とはいえ特2級だろう? 注射の仕方は習っている筈だ」
「ごめん豊花、ちょっと痛むかもしれない。だけど、ごめん。私も第2級異能力特殊捜査官だから、緊急時の注射剤与薬は許されているの」
ーー逃げたほうがいい。それは薬物だ。きみも昨晩嫌っていた異能力の成長を阻害する薬だ。ーー
「ふん、異能力の成長じゃない。異能力霊体の侵食を阻害する作用もある単なるマイナートランキライザーだ。豊花には害はない」
え?
ーーなんだと?ーー
瑠璃が僕の袖を捲り上げ、肩付近に注射器の針を近づけてくる。
それを、“私”は瑠璃の手首を握って止めた。
「いやだいやだわたし注射こわいもん!」
「え……ちょっ、ちょっと豊花?」
へ?
なんだいまの?
「あまりボクをバカにするなよ? おい、葉月。そいつ、特例どころか、もしかしたら世界初の異能力発現例になるかもしれないぞ」
「それって、いったい……どういうことですか?」
瑠璃は美夜さんの言葉に疑問を呈す。
「まだ侵食率ステージ3だというのに、いま肉体の口を支配し操り騒いだのは、異能力霊体だ。おまけに杉井、おそらく異霊体と会話をしていた。ボクには異霊体の声しか聴こえないけどな」
ど、どうして私、こんなことしたんだろ?
別に注射が怖いわけじゃなくて、ただ単純に、異能力の成長を阻害する効果のある薬を摂取したくないだけであって……。
それに、さすがに同級生ーー高校生から注射をされるのは、少し怖いと思っただけなのに……。
「あは、あっは! そうか、やっぱり聴こえていたのか? まさかとは思っていたけど、杉井豊花のほかにも会話が通じる相手がいるだなんて思ってもいなかったよ」
「ちょっと豊花!? 美夜さん! いきなり、どうしてこんな」
「いいから、そいつが心配なら早く打て」
おかしい。
体の主導権は奪われていないはずなのに、私の発言や仕草が明らかに変わっている。
これじゃ、本当に14歳の女の子にしか見られない。
「大丈夫。すぐにいつもの豊花へ戻すから安心して。私はこの子が気に入っているから、無下には扱わないよ」
瑠璃は明らかに変化した私の口調と仕草、そして発言内容からなにが起きているのか把握したらしい。
「信用できるわけないじゃない! 豊花、悪いけど無理やり打たせてもらうわよ?」
瑠璃は強めに私の衣服を掴むと、再び袖を捲り上げた。
悲鳴は上げないものの、驚いてちからが抜けた。
視線だけは瑠璃へと向けている。
私はなんで、こんな言葉を発しているんだろう。
「少なくとも、貴女よりは確実にこの子を知っているし、愛しているわ。本当よ?」
「豊花! 瑠衣の友達になってくれたんでしょ!? わけのわからないヤツに支配されちゃダメ! 戻ってきなさい!」
「仕方ない。緊急事態だ。静脈内に注射しろ」
美夜さんはそう言うと、検査室内の机の引き出しを漁り、アルコール消毒綿と黒くて長い物ーー駆血帯を取り出した。
美夜さんは私の左腕を引っ張り伸ばすと手のひらを上に向けさせる。
「葉月、駆血帯を巻け」
「はい!」
瑠璃は美夜さんに言われるがまま、急いで私の左手の二の腕に駆血帯を巻きやや強めに圧迫するよう絞めた。
美夜さんは肘の内側を上から下へと、少し強めに手のひらで擦る。すぐに消毒綿らしき物で肘の内側を拭った。
「注射箇所は何処に?」
「ボクの行動を見ていてわからなかったのか? 肘窩にある前腕正中皮静脈だ。そこに穿刺しろ」
手をウェットティッシュで拭ったあと、瑠璃は肘の内側ーー肘窩とやらの位置辺りを二本の指で何度か軽く押し、なにかを確かめたあと、注射器を斜めに倒し低い角度で肘窩に向けると、そのままスッと針を皮膚に刺した。
「ッ?」
チクッと痛みが走る。
でも以降は痛みはない。
注射器の内容液に突然血が逆流し、それを確かめると、瑠璃は注射器の押す部分ーー棒みたいなのをゆっくりと押し、血液と混ざった内容液を、おそらく静脈血管の内部に注ぎ始めた。
そして、内容液すべてを注ぎ終えると、瑠璃は注射器の針をサッと腕から抜いた。
「葉月、注射の手順を飛ばしていたぞ? 上手く行ったから良いものの、失敗したら漏れていた。慌てず冷静に事を運べ」
美夜さんは私の駆血帯を外しながら、「針を抜く前に駆血帯を外したまえ」とか「逆血確認後は針を寝かせて少し進めろ。そして再び逆血確認したあと押し子を押すんだ」等とくどくど瑠璃を叱っている。
「あ……すみません」
瑠璃は美夜さんに頭を下げる。
「……最後に、言わせてもらえるかしら?」
「なによ、まだ治っていないの?」
「瑠衣の友達って……貴女ねぇ……。なら、瑠璃は私の友達じゃない、私は単なる妹の友達なの?」
「え?」
瑠璃は私のことを妹の友達としか思っていなくて、自身の友達とは思っていなかったの?
単なる妹の友人で、監視対象なだけで、私は瑠璃の友達でもなんでもなかったわけ?
「……」
瑠璃は穿刺した箇所に小さくて丸い、よく注射後に貼られるような絆創膏みたいな物をペタりと貼った。
なんだろう?
少し眠くなってきた。
悲しみ、不安、意欲、怒り等の感情が鎮静していく感覚に襲われる。
「指示も忘れるな。杉井豊花。注射した部位をしばらくやや強めに押さえておけ」
美夜さんに言われたとおり、絆創膏の上から少し強めに腕を押さえる。
「豊花、どう? 大丈夫?」
「べつに……少し眠くなってきたし、なんだかボーッとしてきたけど、たぶん、元の私に戻ってるよ」
いや、ほかにも悲しい感情や不安なども緩和、いや、抑止されている気もするけど、それを伝える気にはなれなかった。
「まだ戻ってないじゃない!」
「え?」
瑠璃は怒鳴りながら私の肩を両手で掴み揺らしてきた。
いや、もう異能力霊体の声も聴こえてこなくなっているんだけど?
「いや、そいつは杉井自身だ。疾うに戻っている。間違いない、ボクが保証する。“それ”は今しがた起きた変化だ。杉井、きみは自分の変化を自覚できているのか?」
「え? 今とさっきで私に変わったところがあるの?」
「それだ。自称は僕だった筈だろ? 今は現にきみの自称は私になっているし、動きが会ったときよりなよなよしていて、身体だけじゃない、仕草まで女みたいになっている」
私?
「なっ!?」
たしかに、たしかに自覚なしに自称が“私”になっている。
いつの間に?
僕に直さなければ、男に戻れたときに不都合だ。
僕の見た目じゃ『私』って言うキャラじゃない。男子高校生で自称『私』自体少ないのに。
僕、私、僕僕私、僕私僕私僕僕僕僕僕僕ーー僕。
……よし。
……はぁ……まさかボクっ娘に自称の変化を指摘されるとは……ああ、やっぱり意識がボーッとしている。
もしかして、この薬のせいで“私”になってしまったんじゃないか?
「ボクが渡したアンプルは単なるジアゼパム5mgで間違いないはずだ。10mgじゃないんだぞ? どうしてこうまでボーッとしているんだ、こいつ」
「やっぱり静脈注射じゃなくて筋肉注射で十分だったんじゃないですか?」
「速く効かせるなら筋注ではダメだ。とりあえず、既にステージ2を飛ばしてステージ3に入っている。緊急時にのみ許されている与薬剤三種を除き、抗不安薬と抗精神病薬の一部は何でも処方可能だ。葉月ならどれを選びたい?」
「え?」
トランキライザーって、いま打たれたコレみたいな薬と同じ効果なのかな?
なんだか、いやだ。
感情の起伏に乏しくなり妙に落ち着いているし、何より眠気が強い。
「監視役はきみじゃないか。どうしたいのか意見を述べてみたまえ」
「私が選ぶんですか?」
「選ぶのは私だが参考にする。普通なら段階を踏む筈だろう?」
美夜さんは淡々と説明していく。
通常、まともに異能力霊体の侵食を抑制したい異能力者は、異能力を使わない。
そのため、異能力霊体の侵食スピードはかなり穏やかなため、監視役がいれば異変を察知する猶予がある。
監視役が付けられない立場にある異能力者には、任意で定期検診を予め提案する。
また、不定期に異能力特殊捜査官による任意の近況質問を受けてもらい調査するのだとか。
真面目な人間なら、ステージ1からいきなり3に飛ぶことなんてほとんどないらしい。
逆に、異能力を使うと決めた人間には処方薬を与える意味がない。
施設にそもそも来ないからだ。
来ても定期検診などには協力しないし、近況質問にも答えない。
緊急取締捜査を宣言しての検査でようやくわかったときには、ステージ3以上まで進行していることは珍しい事じゃないという。
そういう輩には処方しても薬を飲まずに意味がないため、適当に選んで薬を決めてしまえばいいーーと美夜さんは語る。
ステージ2には弱~中力価の抗不安薬を頓服で出して体質に合う薬を探る。
ステージ3になったら中程度の強さの継続して飲む常用としての抗不安薬と、強作用の抗不安薬または鎮静作用の強い抗精神病薬を頓服として処方するらしい。
ただし、賦活作用の出る抗精神病薬は認可が降りていないらしい。
たとえば、アリピプラゾール。
ドーパミンシステムスタビライザーと言う明日には忘れているだろう長々しい名の仕組みで、ドーパミンが減少しているときに使うと逆にドーパミンを増やすように作用するため一応禁忌とされているという。
精神病の治療には非常に優秀な薬だが、異能力者に対してドーパミンを増やす恐れのある薬はダメらしい。
賦活とかアリピプラゾールとかはよくわからなかったけど、つまりドーパミンを出すなと言いたいのだろうか?
え、それって、辛いんじゃ?
「ステージ2で様子を見て、抗不安薬に対する体質を調べながら頓服薬を決める。普通はそのあとステージ3に移るんだ。だいたい、侵食がほとんど進まなくなる奴のほうが多いんだぞ。素直に異能力を使わないからな。ステージ3は、普段なら頓服薬を変えるか判断しつつ、別の常用薬として超長時間作用型の抗不安薬を追加するものなんだがな。少なくとも私は普段そういう判断で決めている」
美夜さんは説明を続けた。
ステージ4になったら注射剤の所持が許可されるらしい。
自分に打つのは医療行為にも当たらない。
しかし僕の場合は急なステージ3ーーつまり頓服で体質に合う薬を探すタイミングを疾うに逃している。
「私なら強い薬を処方したいです」
「安易過ぎないか? そもそも、抗不安薬の大半は第三類向精神薬に指定されているんだ。つまり、濫用リスクがあると判断されているんだ。依存性だって勿論ある。身体依存、精神依存、どちらもだ。過剰に与えると無駄に陽気になって奇行に走る可能性もあるし健忘を起こしたり眠気で生活が遅れなくなったりする。逆に弱すぎると異霊体侵食阻害薬としての意味がない。きみは2級なのにわからないのか?」
「うっ……すみません」
まだ高校生で準構成員とかいう立場の瑠璃を、なにもそこまで責めなくてもいいじゃないか。
ん?
陽気になって奇行に走る?
どういう意味だろうか?
そもそも鎮静させるための薬じゃなかったっけ?
「こいつは不安や恐怖に弱いのか?」
弱いと思う。
「いいえ、むしろ勇気はある……んじゃないでしょうか? 私の妹が危ないとき、身を張って助けようとしたり、幼馴染みをわざわざ助けに行ったり、私の父に抗議したりしてたし。ね、豊花」
「え……?」
あれ?
たしかに、臆病で勇気がなく自信も何もなかった筈なのに、瑠衣を助けるため奮闘していた自分がいる。
裕璃を助けに行ったのは、単なる考えなしからの行動だったけど、瑠衣に切られるのを恐れずに飛びついた。
こうなるまえの私は、いや、僕は、そんな無謀な真似なんかぜったいにしなかった。
だって、僕なんかに助けられたって、迷惑なだけじゃないか。
ーーそんな考えが、行動を阻害していたような気がした。
この変化は、やっぱり異能力霊体の侵食によるものなのかな?
だとしたら、誇れないや。
ーー……違う。力を使え、今は思考と唱えるんだ。きみは私ではなく異能力で変わっただけだ。ーー
え?
「……思考?」
だが、返事はない。
私ではなく、つまり、異能力霊体ではなく異能力で変わった?
異能力=女体化。
女体化により、美少女になり、行動を抑制していたマイナス面の考えが払拭された。
どうして?
ーーああ、そうか。
容姿が一変したことで、僕は私へと生まれ変わった。
そして、自信がついた。
冴えない男子高校生から、美しい姿になったことで自信がついたんだ。
そもそも、僕が女体化を願った理由は『裕璃と同性なら、こんな思いをしなくて済むし、ほかの女子にも話しかけられるようになるのに』と思っていたからじゃないか?
「おい、豊花に異能力を使わせるな」
「はい。え、いえ、豊花は戻ることができません。聞いていないんですか?」
「違う、身体干渉の異能力じゃない」
ああ、なんだ。
偶然じゃなかったんだ。
僕は、自ら異能力者になりたいと望んで、自ら望み女体化の異能力を手に入れたことにより、悲哀でぽっかりと空いてしまった空虚な心を埋めるために行動したんじゃないか。
異能力霊体は、その願いを叶えてくれただけだ。
……今までのこと、謝るよ。
僕が望んだから来てくれたんだね?
名前とか、ないの?
教えてくれないかな?
「ダメだ。いくら与薬したところで、こいつ自身が侵食を是とするなら、すべて無意味だ。葉月、ロフラゼプ酸エチル1mg毎日就寝前1錠。アルプラゾラム0.8mg頓服で10日分と紙に書いておけ。ふん」
「え、えっと?」
瑠璃は困惑しながら手元に持つクリップボードの紙に言われた薬名らしきものを慌てた様子で書きなぐった。
書き終えるや否や、瑠璃は美夜さんと僕の顔を交互に見ながら混乱している様子を見せる。
ーーきみは……あれだ。そう、バカという奴だ。私に名前を訊いてどうするつもりだ? 仲良くしてくれる気にでもなったのか? 侵食が早まるだけだというのに、えらく呑気ではないか。ーー
そう……かな?
少なくとも、さっき言ってくれた言葉は嬉しかったから、個人的には仲良くしてほしくなってしまった。
これが異能力霊体の侵食とやらなのかもしれないけど、ただ……。
ーーただ、こういう事例はどうやらいまだかつて無かったらしい。
だいたい、異能力霊体という存在ってなんなの?
我が強すぎて、もう、なんだか友達と話しているような気分になってくる。
ーー……ははっ、きみは本当にバカではないか。名前なんてあるわけないだろう? 私はきみと同一の存在となるんだ。つまり、将来の名前は杉井豊花だ。今は好きに呼んでくれてかまわない。よろしく頼むよ、やがて同じになる僕。ーー
よろしく、僕になる私。
なんか、恥ずかしいけど。
なら、これからきみの名前は“ユタカ”でいいかな?
そういえば、女だということはわかっていたけど、ユタカさんなの?
ユタカちゃんなの?
ーーきみが誰かに『ちゃん』付けするたびに思っていたことがある。ーー
うん?
ーーきみが『ちゃん』を付けるべきなのはーー
『この私こそ相応しい相手だとね?』
な!?
頭から外へと声が移ったかと思えば、僕のこの姿と同齢くらいの、ふわふわした長い金髪碧眼の美少女が、幽霊のように僕から抜け出て隣に現れたのだ。
その子はそのまま僕の膝の上に尻を乗せて座る。
感触があるとおかしいはずなのに、生々しいこの触り心地はいったい!?
『錯覚だよ。半分融解しかかっているきみ自身にのみ通じる感触の錯覚だ』
「き、きみが、ユタカ?」
金髪碧眼のゆるふわ少女ーーユタカは、やたらとファンシーな、不思議の国に居そうな青色のひらひらが沢山着いたロリータ服を着ていた。
「ユタカ……? って、ちょっと、なによそれ? どうして異霊体が体から離れているの? 成仏!?」
「……異例すぎて対処の仕方がわからないぞ。塩でも撒くか?」
美夜さんと瑠璃は二人とも困惑している様相だ。
無理もない。私も今、鏡を見たら顔に困惑を浮かべているだろうにちがいない。
『へ~? こうすると、さすがに葉月瑠璃にも私の声が聴こえるんだ~? あれ、どうかしたか、豊花? きみの相棒の私だ。ユタカだよ。あと、言っておくが、こいつらみたいな特殊な奴ら以外に私の声は勿論聴こえないし視えもしない。独り言を呟きたくなければ、返事は脳内で続けるべきだ』
「え、あ、はい……?」
ええーっ!?
こんなかわいい子が、あんな偉ぶったしゃべり方をしたり、勝手にからだを操ったり、思考の邪魔してきたりしていたのー!?
いや、いやいやいやいや。
あんな口調だもん、普通ならもっと歳上を考えるだろ?
ええ……一気に目が覚めてしまった。
薬の鎮静作用を破壊するようなビックリが起きてしまった。
「ちょっと、あんたたちって、自由に肉体から抜け出せるものなの?」
『できるけど、宿主の幽体とは繋がったままだよ。既に融合しているわけだし。でも、普通はやる意味も理由もないからね~。そもそも~普通なら会話が成立しないもん。貴女たちに認識されたって損するだけだもん』
ユタカは僕に顔を向けた。
『……なあ、豊花もそう思うだろう?』
どうして僕になにかを言うときと、瑠璃を相手にするときの口調がまったく違うの?
というか、いくら錯覚とはいえ感触があるのはおかし過ぎるでしょ!
さすがに、その、生々しい感触があるせいで、やたらと恥ずかしいし緊張してしまう。
『おいおい、私がきみになるように、きみも私になるんだ。緊張することなんてない。ああ、そういえば、あとで私が教えてやるとしよう』
「え、なにを?」
『もう興味が薄れたのか? ほら』ユタカはつづけた。『オナニ「わーっ! オんナになるとニーハイが履きたくなるなーっ!」』
危うく瑠璃に聴こえるところだった。
ユタカの下品な言葉に僕は誤魔化すよう言葉を被せた。
「……豊花? そんな性癖まで、わざわざ答えなくたっていいから。いきなりどうしたのよ?」
「こほんっ。おい、豊花。今ならそいつを拒めるんじゃないか? やってみる価値くらいあるぞ」
拒める……わけがない。
いや、だってさ?
やさしい言葉をかけてくれた相手だよ?
まさかのいたいけな少女だよ?
ずる賢そうで妖艶な笑みを顔に浮かべる幼い少女。
サラサラの金髪、水玉リボン、ロリータ服が異常な程に似合っている。
ピンクのオーバーニーソックスを左足に、水色のニーソックスを右足に履いたアンバランスさは、なにかのお洒落だろうか?
『ふふっ。ん、おや? 異能力発露の粒子が下に漂っているな? しかし異能力霊体はいない……まあいい。私には関係ないことだ。帰宅したら起こしてくれるかな? 私は寝ているとしよう。あと、きみは異能力の使い方を学んでくれないところだけが残念だ』
異能力の使い方?
『思考、直感、感覚、感情ーーそれらを一時的に強化したいときは、強く唱えるか念じてくれ』
強く?
『ああ。例えば先ほどきみが思考と唱えたときは、普段より思考が強化された。言葉にしなくても、きみは直感だけは無意識で使っていたが、直感以外はどうにも使うのが苦手らしい』さて、とユタカはつづけた。『嬉しすぎて柄にもなく飛び出してしまった。私が生きていれば、きみが女体化するより早く、慰めてあげられたのに』
「え、ちょっと待って。女体化するまえに慰めてくれたら、どうなっていたの?」
『そんなの決まっている。きみが異能力者にならずに済んだだけの話だ。まあ、私が言えた義理ではないがな。では、またあとで』
え?
ユタカの唇が豊花の頬に触れた気がした。
『愛しのきみ』
そのまま、僕の体に重なるように来たかと思えば、姿はそのまま消えて見えなくなってしまった。
ーーヒントをあげよう。私を認める奴などきみ以外にはいないだろうし、純粋にうれしかった。せめてものプレゼントだ。葉月瑠璃は愛することができないわけではない。ーー
な、あ、え?
ーー鈍いだけだ。このような愛の形、そのような愛情、愛憎、家族愛、歪な愛。それらもあるのだと、これから例を示し教えてやればいい。少々妬いてしまうが、肉体がない私には仕方のないことだからな。ははっ。ーー
なんだろう。
やたらとこの異霊体、上機嫌な気がしてならない。
無邪気に喜ぶ感情が僕にまで伝わってくる。
「ふん。拒む素振りも見せないどころか、随分親しく接するんだな? 恐怖を知らないのは本当みたいだ。侵食されたいのか?」
「豊花、騙されても良いことないのよ、わかる?」
「騙す……侵食……いや」
違う。
多分、騙すつもりなら、わざわざ姿を晒して瑠璃たちも居るこの場で現れたり、僕に対して提案してくれたりする必要なんて、一ミリもない。
たしかに、嘘らしき内容を伝えてきたり、行動を邪魔してきたりもしたのかもしれない。
でも、それらには何らかの事情があったのかもしれない。
侵食したら、異能力霊体に成り代わるーーいいや、そうじゃない。
異能力で思考と唱えなくても、さすがに理解できた。
どうやら豊花とユタカの同一化が、つまり融合が侵食の果てだということを。
ようするに、成り代わるのではなく、同じ存在になる。
それって、僕がいなくなるのだといえるのだろうか?
僕と私が重なり合い、私という豊花に生まれ変わるんじゃないか?
そうすれば、豊花もユタカも互いに生きていると言えるんじゃないかな。
(43.)
こんな事態が起こっていた下では、異能力者ではないのに異能力を持つ青髪の少女が、未来さんとやり取りを交わしていたらしい。
検査を終えた僕は、なぜか一階に呼ばれた瑠璃についていき、一緒にエレベーターで一階に戻った。
受付のカウンター前に辿り着くなり、その光景が真っ先に視界に映った。
「だから、早くどうにかしてよ!」
「おまえでは話にならない。まずは異能力者本人を連れてきてくれ」
「いやよ! また、また犯されるじゃない!」
そのような謎の会話を交わしていた。
「いったいなにが望みなんだよ?」
「だから言ってるじゃない! 私を生み出したかと思えば犯してきた大嫌いなアイツを殺してよ!」
は……?
「その不思議な力がつかえるなら、わざわざ私らに頼む必要なんてないだろ。叩き切ってしまえばいい。おまえはどうやら人間でも異能力者でもないみたいだからな」
よくよくみると、青髪少女の右手には少し細い剣が握られている。
少女はそれを地面に投げ捨てた。
「できるわけないじゃない! 私の、私の唯一無二の、世界で一番大切なひとなのよ!? 愛しているの! 私じゃ無理なの! できないに決まっているじゃない! バカじゃないの!?」
は?
はあ?
「な、葉月? こいつはヤバい。今すぐ製作者の異能力者を呼ぶから、それまで話を聞いてやってくれ」
「えっと……私が?」
なぜか、いきなり青髪で可憐な高校生くらいの女の子ーーまるでファンタジー世界から飛び出してきたかのような少女の相談に、瑠璃と僕は付き合うはめになったのであった。
(??.)
とある廃ビルと、とある異能力犯罪組織のアジトで、三十満たすか否かの異能力者が惨殺されている真っ最中だったとは、僕には知るすべもなかった。
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