Episode208╱訪れてしまったスリップ
(312.)
風月荘に帰還したら、玄関のすぐそばに碧が微妙な表情を浮かべながら佇んで待っていた。
たしかに個々の部屋は鍵がかかっているけど、それにしても玄関に鍵がないのはありえないのではないか?
といまさらながらに危機感を覚えた。
「碧じゃん! どしたの? わたしを待っていたの? かわいいねぇ!」
碧の気まずそうな雰囲気をものともせず、瑠奈は普段通り碧に絡みに行く。
「瑠奈様……すみません。まずは杉井にだけ話しておきたいことがありまして……おねがいします。豊花と二人きりにしてもらえませんか?」
杉井呼びなのか豊花呼びなのか統一してほしい。
というか最初はさん付けで呼んでいたのに、いつから呼び捨てになったんだっけ?
「えー……まあいいけどさー」
「あとで……瑠奈様にも絶対話します。それが……私の贖罪だから……」
「わかったわかった。ま、豊花と話をつけてきなよ」
瑠奈はそれだけ言い残すと、月の間に消えていった。
私はやや緊張したそぶりを見せる碧を花の間ーー自室に引き入れた。
碧はやはり緊張した面持ちで女の子座りで床に腰を降ろすと、しばらく無言の時が過ぎた。
「あの……碧? なにがあったの?」
自ら喋ろうとしない碧に痺れを切らしてこちらから訊いてしまう。
話したいことがあると言ってきたのに、なにも喋らないのは少々おかしくはないだろうか?
「怒らないで聞いてくれる?」
「事情によっては怒るよ。逆に内容によっては無論、怒るけど」
「……」
碧は無言のまま左腕の袖を捲り上げた。
「!?」
そこには、肘の内側の血管がある場所に広がる内出血の痕と、なにかで刺された小さな赤い穴が広がっていた。
まさか……まさか!?
「碧! まさか、まさかとは思うけど……」
「そのまさかだよ。ははは……我慢できなくてさ……覚醒剤、まえに愛のある我が家で学んだ方法で、注射しちゃった……最悪だよね……」
碧は暗い表情を浮かべながら、小さな声を捻り出すように口にした。
「碧! まえに豊かな生活の規則を決めたじゃないか! 自分ではつかっちゃいけないって! 守れなかったの!?」
「私だって耐えたよ! 耐えに耐えて耐え抜いていたんだよ! でも、いろんなお客さんを見ていると、心底幸せそうでさ……興味から打っちゃったんだよ」
私は頭を抱える。
たしかに以前、瑠奈に叩かれて反省した言葉を述べたとき、本心ではやりたいと思っているのにちがいないと直観で感じた。
三島がガラスパイプで覚醒剤を吸引している姿を見る碧の目付きは、今にでもやりたいと思っているかのような危機感を抱いた。
でも……あれほど瑠奈に対して羨望を抱いているであろう碧が、瑠奈の言いつけを破ってまで、再びやるとは思えなかった。思えなかった……なのに……。
私が間違っていた。
いくら沙鳥に唆されたとは言え、覚醒剤を一度やった碧を仲間に加えるべきではなかったんだ……!
私の失態でもある。
こんな話、瑠奈が聞いたらどのような事態になるか想像したくない。
「筋肉注射とは違って、静脈注射の感じかたは別物だった。やったのを後悔してるよ。やめられないかもしれない。いや、もうすでにまたやりたい欲求が凄まじいんだよ。あの多幸感、面倒くさいといった気分を忘れる。暗い自分を忘れて常に高揚感で満たされる感覚ーーそれが一瞬で訪れて半日継続するんだよ? ……私、もうダメなのかな?」
「……」どう返すのが正しいのだろう?「とりあえず……最悪殺されるかもしれないけど、瑠奈には正直に話したほうがいいと思う」
「だよね? ……だよね……ううっ……ぐすっ……」
やってしまったことを悔いているかのように、碧は瞳から涙を流す。
心底後悔しているのが伝わってくる。
異能力の直観がなくてもわかる。本当に、手を出したことに対して悔いているのが伝わってくる。
同時に、覚醒剤に対しての切望、渇望感が嫌でもわかってしまう。
「碧? 豊花? そろそろわたしにもなにがあったのか教えてくれない? 気になるんだけど。まさか豊花に浮気してないよね? だとしたら許せないんだけど」
瑠奈は能天気そうに部屋を開けて中に入ってきた。
待つのが苦手なのか、とにかく早く事情を知りたいといった様子だ。
「瑠奈様……ごめんなさい。……ごめんなさい!」
碧は鼻水と涙を流しながら、ただただ瑠奈に懺悔する。
「だから、なにがあったのさ?」
「……」
碧は自ら言おうとして、やっぱりやめて、また口を開き、閉じるを繰り返す。
そんな様子に痺れを切らしたのか、瑠奈は私に視線を移した。
「瑠奈……あまり怒らないであげて」
「だからなにさ? 浮気だったらビンタするからね」
相変わらず瑠奈は浮気だとかそういう関係だと思っているようだ。
でも……それだけなら、どんなによかっただろうか。
私は仕方なく覚悟を決めて、碧の代わりに碧のしでかしたことを言うことにした。
「碧はさ……我慢できずに、覚醒剤を静脈注射しちゃったらしいんだ」
「……」
瑠奈の表情からおちゃらけ感が消失するのが見ていてわかった。
一瞬してから言葉の意味を理解したのか、真顔に変貌する。
すると瑠奈は碧に近寄り、肩を掴み立ち上がらせた。
「瑠奈……様……?」
「碧っ!!」
瑠奈は精霊操術を使わず、拳を強く握りしめると、立たせた碧の頬に向かって全力で殴り飛ばした。
勢いで室内の壁に碧は叩きつけられる。
ビンタどころの話ではない。全力の拳を叩きつけたのだ。
「うぐっ! ……ひっく……ううう……」
碧は殴られた頬に手をやりながらも、殴られた文句は一切口には出さなかった。
ただただ、碧は泣くばかり。
「沙鳥にも幻滅したばかりなのに、碧にはもっと幻滅したよ! わたしとの約束はなんだったのさ!? ただただうわべばかりの口約束でしかなかったの!? もういい。碧なんて知らない! 本当……最低だよ。もう碧はわたしの恋人でもなんでもない。薬中の恋人なんて要らない! もう……二度とわたしに声かけないで!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃ……」
「……くそっ!」
瑠奈は歯噛みしながら、碧の胸ぐらを掴んだ。
「瑠奈! やりすぎだよ!」
「もう二度としません! 睡眠薬も飲みません! 抗不安薬も要りません! もちろん他の薬物もやるつもりはありません! ぐすっ……だから、だからあと一度だけチャンスをください……」
「二度とやらないって前回約束したよね? それを守らなかったのは誰だよ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
あまりにも悲壮感を漂わせ、全力で謝る碧を見ていると、なぜだかもう一度チャンスを与えてもいいような気がしてきた。
私の勘は大概当たる。その勘が働いているのだ。碧はおそらく、二度と自己使用しないだろうと強く決意していることが直観からわかる。
それにーー。
「瑠奈……本当は黙っていたらわからないのに、碧は反省して自ら報告してきたんだよ? こうやって酷く非難されるのはわかりきっているのに、碧はそれでも自ら乱用したことを暴露したんだ。再三言うけど、乱用してても言わなきゃわからないのに……だよ?」
「……わかってるよ……そんなこと、わかってるよ! でも! 許せないことはやっぱり許せないよ!」
瑠奈は乱暴に碧を突き放す。
「瑠奈様……」
「……たしかに、豊花の言うとおり言わなきゃわからないのに、今回の碧は正直に白状した。だからーー最後のチャンスを与えてもいい。千歩譲ってだよ? だからさ、もうさ……わたしを幻滅させないでよ……」
瑠奈は寂しげな瞳をしながらも、碧をやさしく抱き締めた。
「わたしはさ、アリスに朱音に碧って、多数の女の子を愛してる。でも、三股と言われようが、私はどの子も本気で愛してるんだよ。わたしの愛する女の子には、道を外れてほしくない。本当に、本当にわたしを裏切るのは、これで最後にしてね……」
「はい……はい!」
碧は号泣しながら瑠奈を抱き返す。
覚醒剤をやめるのは辛いだろう。
舞香の過去を聞いている限り、その依存性は別格だ。並大抵の覚悟じゃやめられないのが話を聞く限り理解できる。ある意味、悪魔の薬だ。
それを粉骨砕身の覚悟で二度とやらないと誓っているのがひりひりと伝わってくるのだ。
私にはわかる。今までの直観の経験からわかるのだ。
今回ばかりは、本当に二度とやらないだろうと言うのがーー。
(313.)
「豊花……」
碧が帰宅したあと、瑠奈は私に声をかけた。
「なに?」
「やっぱり……沙鳥にも事情があると思う。だから、再度沙鳥がどうしてまつりとやらに復讐したいのか、自らを犯した男性に対してそこまで感情移入してるのか。詳しく事情を訊くことにする。そのあとでも、協力するか否か決めるのは遅くないと思うからさ」
「……実は私も気になっていたんだ。手を貸すかは別だけど、一度詳細を訊いてみたい」
瑠奈との話し合いの結果、再び愛のある我が家に向かうことになったのであった。




