Episode172/正しい静脈内注射
(278.)
学校での授業も滞りなく受け、久しぶりに普通を謳歌した気になった。
……真横から幽体化したユタカが、真横で『教室かー』と辺りをじろじろ見ていたことを除くとだが……。
放課後、碧が私に歩み寄ってきて、『正しい注射の仕方を教えてほしいって新規客に言われたんだけど、私素人だからわからなくて……教えてくれない?』と言われてしまい、まあ、困った困った。
仕方なく詳しい人間ーー舞香たちに訊くために、碧を連れて愛のある我が家に久しぶりに顔を出すことにした。
「碧は豊かな生活の一員ではあるけど、愛のある我が家直属は私だけだから、一応向こうは上位団体。あまり無作法はなしにしてよ?」
「わかってるって」
まだまだ寒い空気を肌と鼻で実感しながら、放課後は愛のある我が家へと向かった。寒さ特有のどこか懐かしさを感じる香りが鼻孔を擽る。
再三問うけど、なぜ女子はスカートなんだ。タイツを履いてきたけどそれでもこの寒さには堪える。今にも雪が降りだしそうなほどに空気が乾燥している。
いつものコンビニにたどり着き、空箱を指定。『え? え?』と困惑している碧を連れて、コンビニのカウンターに侵入。スタッフルームの奥にある扉を開けると二階につづく階段が現れた。
……たしかに、この内部への侵入方法をはじめて見たひとはびっくりするかもしれない。
階段の上へと碧を引き連れて上っていく。再び扉を開けると、そこに広がるのはコンビニ外部からは到底入れない作りになっているマンションが待ち構えているのである。
未だに混乱している碧の手を引き、いつも皆が集まる部屋の前に行き手持ちの鍵で解錠した。
「なんだかワクワクする反面怖いんだけど?」
「一応、豊かな生活の直属の上部団体だから、念のため失礼のないようにしてね? でも普通にしていればなにも怖がることないよ」
「だからわかってるって……大丈夫よ、大丈夫……」
以前にも説明したのだが、豊かな生活はまだ特殊指定異能力犯罪組織に認定されていないどころか、名前が通っていないからなのか、指定異能力犯罪組織ですらないのだ。
そもそも異能力者以外の碧や柊、三島なんかも参入しているせいで、異能力者犯罪集団としては見られないのかもしれない。
ただし、その上部団体である愛のある我が家は、半グレどころかヤクザですら一目置く存在。それほど有名な団体が私たちの上部団体なのだ。
それを訊いたからか碧は柄にもなく緊張してしまっているのだろう。
玄関を開けて室内に入る。
そこには、沙鳥と瑠奈と舞香がソファーに座っていた。
「あら、豊花さん。豊かな生活の面々はこちらに連れてこないでほしいと仰ったはずですが……」
沙鳥が訝しそうに私を見てくる。
瑠奈は碧と会えたことが嬉しかったのか、すぐさま碧に接近し肩とかを掴んでいる。
……だが、本日興味のある相手は舞香以外にいない。
正しい静脈内注射の仕方を教えてくれと顧客に頼まれたことから、唯一愛のある我が家内で過去に静脈内注射をしていて舞香に問いたいことがあるだけなのだから。
「なるほど……そういう事情でしたか。なら舞香さんが適任ですね。……本来なら私たちの仕事は売り捌くのみ。アフターケアにはちからを入れていないのですが……」
「え? どういうことなの、沙鳥?」
読心術でこちらの心中を読み、沙鳥は舞香に顔を向ける。
「とはいえ、顧客で狂うひとを減らすためにも、正しい覚醒剤の使い方を学ぶ必要がありますね。ユーザーの要望を聞くことによって、利益の幅も顧客満足度も上がるかもしれませんからね」ですが、と沙鳥は碧に顔を向けた。「碧さんは一度は覚醒剤を注射した身、あなたにもわからないんですか?」
「いやー、私の場合は静脈に注射できなくて筋肉注射しちゃったから……」
なるほど。だから素人である碧でも覚醒剤を一時期乱用できたのか。
「舞香さん。このお二人に覚醒剤の静脈注射の正しいやり方を教えて上げてくれませんか? 精製水のみを入れた注射器でやり方を伝授してあげてください。どうやら新規顧客に稀に訊かれてしまうそうですので」
「え? ああー……あまり思い出したくはないんだけど、中身が覚醒剤じゃなくて水ならいいかしらね」
舞香は渋々と言った口調で、世に覚醒剤乱用のために薬局などから横流しされているインスリン用インジェクター1ml29G使い捨てと書かれた、私たちや碧がよく顧客におまけで渡している注射器を一本ずつ手渡してきた。
舞香の手元にも注射器は握られている。
「これ見ると本物がやりたくてフラッシュバックしそうになるわね……」舞香は愚痴をはきながら、注射器の外装を剥がすと精製水をテーブルに置いた。
テーブル上には他にも駆血帯やらアルコール除菌のシート、ティッシュを並べている。
「本来の乱用者はそこまではしないんだけど、備えあれば憂いなしってね。私は昔どっちも使用していなかったけど、なるべく顧客がおかしくなるまでの期間を長くするためにはきちんとした道具を使わないと」
「な、なるほど……」
碧は自身に無造作に注射してしまった過去に地味に恐怖しているのか、私よりも真剣に話に聞き入っていた。
私も覚醒剤密売班ではないながらも、リーダーとしての面子を保つためにも、珍しくメモ帳を片手に握り説明を受けることにした。
「まずはまだ何も入れていない注射器の中の押し棒を抜いて、その上部の穴から砕いた覚醒剤を入れるのよ。ここまではオッケー?」
「まあ、乱用者を鏡子の異能力で見たこともあるし、だいたいは」
でも碧は知らないはずだ。注射器内部へ覚醒剤を入れることには成功したみたいけど、そのあと依りにもよって筋肉注射という痛みを伴う摂取の仕方をしていたのだ。肝心なのはここらと言える。
「で、覚醒剤を入れたら、押し棒を再び差し込み、粉末になった覚醒剤を軽く押し込んで潰すの。メモリに合わせて量を調整して、使う量の粉末にメモリが合えば前準備は完成」
「ここまでは知ってるよ。問題はそこからなんだよねー……注射作法を知らないから、新規顧客に訊かれても自分で調べてとしか言えないんだよね」
碧はすごいな。年上かつ愛のある我が家という豊かな生活の上部組織の前リーダーに、初対面にも限らず丁寧語や敬語といったもの使わないフレンドリーなしゃべり方をしている。
「この注射の内筒に覚醒剤が詰め込まれていると思ってね? あとは注射器のキャップを外して、予め用意していた精製水ーーまあ水道水でも問題はないんだけど。とにかく水に針を浸す。で、覚醒剤1水1~2の量押し棒を引き、内筒に水を分量まで入れるのよ」
「スプーンで覚醒剤と水を合わせて火で炙って溶かしたりはしないんだ?」
「覚醒剤は水に溶けるからね。で、注射器に空気を少し入れたらじゃぶじゃぶ振って覚醒剤を溶かす」
じゃぶじゃぶ振る……もしかしたらこの光景からシャブって隠語が使われ始めたのだろうか?
「諸説ありますが、その可能性もありますね」
沙鳥はまたもや読心して声にも出していないのに返答してくれた。
いや、返答してくれやがったと言ってもいい。だって、いちいち読心ばかりしてくるんだもん……。
それはともかく、いくら精製水だからといった、注射の実演なんて妙に緊張してしまう。あの中身がもしも覚醒剤だったらと思うと……末恐ろしい。
「碧……まさか自分でやりたいからって教わっていないよね? だとしたらもう破門……いや、ヤクザ風に言うなら絶縁レベルなんだけど」
瑠奈は怒りからなのか額に手を当て、このなかでひとりだけピリピリしてしまっている。
「いや、そんなわけないじゃないですか、瑠奈様の命のとおり、あれから自己使用は一度たりともやっていません! 顧客の為です。世界一の覚醒剤の売人になりたいんです!」
「それならいいんだけどさぁ……後半は聞かなかったことにしてあげるよ」
二人が言い争いしているなか、ついに舞香は袖を捲った。
「で、針を上に向けて押し棒を押し込み空気や気泡を内筒から出す。注射を打つ場合は安全な静脈からが厳守。ポプュラーなのは肘の内側付近にある静脈か、大抵のひとは触診と見た目でわかりやすい前腕正中皮静脈を狙うの。要するに太くて弾力性のある比較的安全な静脈血管を狙うことね。手足に打つひともいるけど、痛みは酷いし下手したら神経を刺しちゃうからね。なるべくなら橈側皮静脈血管や尺骨皮静脈は慣れないなら狙わない」
舞香はそう言うと、肘窩辺りを二本の指で触診したかと思えば、そこをアルコール除菌シートで軽く拭き取った。
橈側皮静脈血管やら肘窩やら言われても、私には場所以外いまいち理解が及ばない。なんか授業を聞いている気分にまでなってきた。
逆に碧はメモ帳にこれでもかってくらい言われた内容を模写している。
……本当に自分でやるわけじゃないんだよね?
なんか心配や不安が凄まじいんだけど……。
「で、打つ予定とは反対の手で注射器を握るのよ。持ち方はひとそれぞれね」舞香はアルコール除菌の水気が揮発したくらいのタイミングで、注射器の針を腕に近寄らせた。
そのまま注射器を傾けて二十度くらいの角度に倒した。
「静脈内注射は筋肉注射とは違って角度は低めにね。縦なんかに突き刺したら動脈まで届いて大惨事になる恐れがある。で、言わなくてもわかると思うけど、刺す向きは抹消神経から中枢神経の方向に向かってね」
手のひら側に注射器本体を傾けて、自身の方向に針を傾けた。
う……注射が苦手な私は見ているのが辛くなってきた……。
そんなことを思慮しているうちに、舞香は注射器の針を低い角度で肘窩近辺にあるやや太い様に見える静脈のある皮膚に針を穿刺した。
そのまま針が3mmほど見えるか見えないかの位置まで針を進ませた瞬間ーー注射器の内筒に血がきのこ雲のようにモヤッと逆噴射して水に血が混ざる。
「血なんて出るんだー。私の時は血は混ざらなかったし、注射したとき滅茶苦茶痛かったし、跡もしばらく残ったんだよね。やっぱり静脈注射だと違うの?」
「もちろん。静脈内注射の場合は血管外漏出痛みもないわ。逆血も静脈血管に刺されたから浸透圧の関係で注射器内に血が混ざり混むの」で、と舞香はつづけた。「逆血を確かめたら、注射器本体を皮膚に倒し、もう少し針を進めて、再度押し棒を引いてまだ逆血してくるかを確認」
「覚醒剤ってみんなこんなことをしているんだ……」
ハッキリ言って見ているのが痛々しくて目を背けたくなる。
碧は真逆に瞳をキラキラさせながら、その光景を目の当たりにしていた。
碧は薬自体に興味があるのか、違法薬物の情報に興味を示しているのか、はたまたアンダーグラウンドな世界に酔っているだけなのか、判断に困ってしまう。
「そしたら押し棒をゆっくり押して、静脈にネタの水溶液を流し込んでいくのよ。あ、そういえば駆血帯を用意しておいたのに巻くの忘れてたわ。まあ、あれは血管が見えにくいひとが使っているだけだから、使わないひともいるし問題はあまりなさそうね」
「そういうものなの?」
採血のときなんかは毎回のように駆血帯を巻いた記憶しかないけど、まあ、裏での乱用者のやり方だし……。
「で、注ぎ込み終わったら針をゆっくりと抜くの。そしたら、ちり紙かなにかで穿刺箇所ーー穿刺した血管のある位置周辺にティッシュを当てたら、強めでもなく弱くもないくらいに指で圧迫するのよ。内出血起こさないためにもね? で、終わったら本来は使い捨ての注射器だけど、乱用者はそれじゃ絶対足りなくなるから、洗って中の血を綺麗に落としたら、保管しておくの。乱用者は五回くらい使うから、注射器が劣化して刺すとき痛みが増すんだけどね」
「へー!」
碧はメモを取りながら、相も変わらず事細かにメモを執筆している。
碧の薬物に対する探求心はなんなのだろうか……。
薬物、しかも違法薬物の中でも悪名高い、ヘロインやクラックコカインを除いたら、一番悪名高いのではないだろうか?
そんな薬物にぞっこんなんて知られたら、翠さんがどれだけ悲しむことやら……。
「初心者に訊かれたら、今した説明を同じように解説すれば大抵は理解してくれるはずよ」
「ですね。さすが舞香さん。一時期覚醒剤信者だったおかげ……いいえ覚醒剤信奉者だったせいで、注射の仕方など易々答えられるのですね……。私としては複雑な気分です。今度はぜったいにスリップしないでくださいね。さしもの私も幻滅しますから」
「あ、あははー。わかっているわよ……これ以上沙鳥に迷惑かけたくないしね」
舞香は一時期どれほどの覚醒剤を乱用していたのだろうか……。
気になるっちゃ気になるが、あまり思い出したくもないだろうし、聞くのはやめておこう。今は……。
今以上に愛のある我が家面々と親密になれたとき、そのとき訊いてみることにしよう。そう思った。
「ところで碧さん?」
「え? なに?」
沙鳥は珍しく碧個人に声をかける。
「あなたには自覚はないでしょうが、先ほどから無意識を読心していると、覚醒剤をやりたいなどと思われているようですよ?」
「な!? 私は瑠奈様と約束したし、もう二度とやらないつもりだよ?」
「瑠奈様……碧はかわいいし偉いなぁ」
瑠奈だけ注射の話題にはまったく触れず、碧に瑠奈様と呼ばれたことで満更でもないーーいや、むしろ厭らしい顔をしてしまっている。
考えてみれば、今までの瑠奈はアリーシャにせよ朱音にせよ、瑠奈側から勝手に惚れているだけで、向こうは瑠奈の態度にーーアリーシャはわからないけどーーウンザリしており、邪険にされたりしてしまっている。
それに比べ、今回の場合は瑠奈からアタックしたわけでなく、まさかの碧側からの告白だった。だから自尊心がやや誇大化しているのかもしれない。
女性のみで構成された愛のある我が家の面々では、レズビアンである瑠奈は朱音以外には興味を示していない。
実は自分から押すのがあまり得意ではないのかもしれない。
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「さて。注射器の説明は終わりましたし、次の依頼について話しましょう」
「え? もう!?」
「ご安心ください。今回は前回や前々回ほど危険ではありませんので」
それだけ言うと、沙鳥は今回のターゲットについて説明をはじめた。
「今回の依頼人の名前は辻井風紗さん。16歳の女性です。依頼内容は……彼女にはとある彼氏がいたのですが、ある日二人でデート中、チンピラ複数に囲まれて、彼氏は暴行のあまりなくなり、風紗さんは好きなだけ集団から強姦を何度も受けたーーここまではこちらも真偽を確かめるために調査しましたが、やはり相手は黒です」
「……なんて酷い……でもそれって警察の仕事じゃ?」
「これで終わりでもありません。警察に足を運んだ風紗さんですが、なぜか相手にしてもらえなかったと。どうやら警察のお偉いさんの息子たちとその仲間が犯した罪らしく、香織さんに情報収集してもらったら、事件は隠蔽されているみたいなんです。だから犯人はのうのうと未だに生きています」
なんなんだそりゃ?
なんだよそれ!?
警察の上層部までグルだって言いたいのか?
「こちらにターゲットの写真と名前は用意してあります」
「これを倒せばいいの?」
「いえ、彼女の憎悪はすさまじく、なおかつ実家が裕福であり金銭的余裕もありまして……彼女の依頼は豊花さんには辛いかもしれませんが、主犯格を殺害するだけではなく、できるだけ苦しみを長期間味わった上での殺害を希望されています。つまりは拷問ですね」
「ご、拷問!?」
そんなこと私にはぜったいに無理だ!
悪人の殺害に対しては慣れてきてしまったせいで、特になんの感慨も浮かばなくなってきている。
でも、拷問と言われても、そもそも拷問のやり方すら私にはほとんどわかっていないのだ。
「そこは大丈ー夫! 豊かな生活の臨時で入ってるわたしが担当する! なるべく死なないように拷問できるよ? 経験もあるし」
「瑠奈がやってくれるなら……まあ……」
でも、あまり乗り気にはならない。
人ひとり殺害するのだって、前々からあまり乗り気ではなかったのに、そのうえなるべく惨たらしく殺せ?
依頼人は怒りのあまりに冷静さを欠いているんじゃないか?
「相手の住所や年齢、鏡子さんの力で居場所などを調べて、追って詳細の情報を渡します。澄さん不在のいま、頼れるのはあなた方だけです。断ることも可能ですが、私的にはぜひ、被害者の無念を解消してほしいのです。やってくれませんか?」
「……わかりました」
この依頼は普通とは異なる。
なら、トラウマにもなるかもしれないから、柊や瑠衣は連れていかないほうがいいだろう。今回の依頼は瑠奈と私のみで動くことにしよう。
「それでは、注射の説明も次の依頼内容もお伝えしましたので、どうかよろしくお願いしますね?」
「はい……」
こうして、豊かな生活初となる、何のちからも持たない犯罪者の拷問&討伐を引き受けることになったのであった。




