恋の味とお姫さま
ひくひくと子供のように泣き出したモグラ姫は、長いことサイラスの胸の中に居ました。彼のシャツが彼女の涙でくしゃくしゃになるくらいずっとです。
漸く気持ちが落ち着き頬を伝う雫を出し尽くした頃、モグラ姫は一体彼が何を考えているのか不思議になります。彼女が顔を上げればかちりとサイラスの新緑の目と自身の焦げ茶が交わります。彼はその端正な容姿を更に際立たせるように笑んで、モグラ姫の背から彼の掌を離しました。
「ありがとう」
モグラ姫の口から出た言葉は何の衒いも無い感謝の言葉でした。サイラスは少し目を見張ると、可笑しそうに言いました。
「モグラ姫の名は返上ですね。代わりにりんご姫とでも名付けましょうか。顔中真っ赤ですよ、アイリス様」
「どちらのあだ名も不本意だし、まさかあなたの前で醜態を晒すことになるなんて。恥ずかしさでいっぱいだわ。でも、そうね。何だかとてもすっきりした気分よ」
「それなら良かった。ところで、膝のお加減はいかがですか。見た所血は出ていないようですが随分青くなっている」
「少し痛むくらいで何でも無いわ。ありがとう。それよりも私もあなたに聞きたいことがあるの」
「何でしょう。僕が解るものであれば何でもお答えしますよ」
「何故、楽しみの少ないこの時期にここに居るの。嫌味でも何でも無いのだけれど、あなたって木や草、小さな花なんかに興味があるとは見えないし、女性の話題にはこの庭は不向きだと思ったから」
「おやおや、あなたから見た僕は余程軽薄に見えるらしい。まあそれも仕方がありませんね。あなたの言う通りご令嬢の皆様方に喜ばれるような話題なら昨今東方から流入してきた物珍しいお菓子や、薔薇園の方が余程良いでしょう。でもね、アイリス様。あなたがここを特別に思う理由があるように、僕に取ってもここはとても大事な場所なのです」
そう言うとサイラスは何かを思い出し愛おしそうに目を細めました。
モグラ姫はその表情を見て、胸がチクリと痛みました。彼女は決して勘が鈍い方でありません。
サイラスの反応から見て彼に思う人がいることをすぐに察しました。
「そう。もしかして今日はその誰かと会う約束をしていたのかしら。それなら私随分と邪魔をしていることになるわ」
「お気遣いは結構ですよ。会う約束なんてできる間柄ではありませんから。僕は彼女に嫌われているんです。随分意地悪な態度を取ってきましたからね。仕方がありません。けれども女々しいかもしれませんが、彼女がいつかまたここに顔を出してくれるのでは無いかと、城に来た折には必ず足を運んでいるのです」
切なげの歪められたサイラスの顔は当に恋に悩む青年そのものでした。モグラ姫は哀しげに眼を伏せる彼を見ていると、ぎゅうっと心臓を掴まれたような気分になります。
「その人は知らないだけかもしれないわ。私だってあなたは苦手だけれど。だって考えてみればそうじゃない。私たちはパーティ出会う度にお互い、皮肉ったり嫌味を言い合ったりするばかりなのだから。だけど、そう、あなたはとても綺麗だと思うし、こうやって話してみれば悪くない。どんなにひん曲がった男なのだろうと思い続けていた私が言うのだから本当よ。あなたは多分少しは優しい人だと思うの」
迷いながら言った言葉は存外優しい声色で以って発せられました。
「アイリス様から慰めの言葉を頂けるとは思いませんでした。僕もひとつ聞いて良いですか。もしも僕の思う人があなただったとして、思いを告げられることがあったならばどうします。何て答えますか」
思いも寄らぬ質問にモグラ姫は面を食らいます。サイラスの好きな人のことを話していたのに何故そんなことを言ってくるのか理解が追い付きません。
重ねて言いますが、彼女は察しが悪い方ではありません。ですが自分のことになると容姿への劣等感や数年に渡って培われた卑屈さが邪魔をし、正常な判断をすることが出来なくなるのです。
「わ、解らないわ。あり得ない事だし、実際そんなわけないでしょう。でも言われたらからかっているのだと思うわ。だってそうでしょう。あなたって優しい笑みを浮かべながら私に毒吐くじゃない。だから解らなくなるもの、怖くなるもの。もしも私が仮にあなたを好きになってしまったら、気まぐれで与えられる優しさに縋ってしまったら。それを拠り所にしてやっぱり嘘だと笑われたら、私きっと死にたくなるわ。そもそも私は王族だし、恋愛なんかしない。叶わぬ恋をしても辛くなるだけだもの」
「随分と、実感が込もっていますね。僕が言葉にしてもあなたは本気にしない。ではどうしたら信じてくれますか。何をすればあなたの中の疑念吹き飛ばすことが出来るでしょう。僕はあなたが何処ぞと知らない狸共に嫁いだらと思うと、嫉妬で怒りが湧いてきます」
「ねえ、もしものお話でしょう。サイラス、あなた顔が怖いわ」
「あなたこそ僕をからかっているのか。今までの仕返しでもしたいのか。はたまた阿呆のように察しが悪いだけなのか」
「何を言ってるの」
突然怒り出したサイラスにモグラ姫は目をしばたかせるばかり。本当に理解していないようだと悟った彼は、彼女の腕を引きました。抗議する間もなくモグラ姫は再び彼の胸の中に収まってしまいました。
「アイリス様。解りました、僕は嘘をついてきました。僕にとって何より嫌なのは感情を固めて無感動になるあなただったから。あなたの顔にどんな色で浮かんでいれば満足出来ていたんです。まあ怒りや羞恥といった類のものばかりでしたけど。あなたの反応がいちいち可愛らしく随分と意地悪な言葉を投げてきました。僕があなたを好きだと言ってもあなたはきっと頑なに信じられないでしょう。それなら僕の心臓の音を聞いてください。嘘つきな僕でも鼓動に嘘はつけません。あなたに恋をしてきました。ずっとです。僕はあなたがとても好きなんです」
モグラ姫は気が動転し、サイラスから離れようとジタバタ手を振り回しますがいつの間にか背中に回された腕が痛いくらいに抱き締め、身動きが取れません。彼が私を好きだなんてあり得ない、叫び出したい気分でしたがサイラスの胸から早鐘の様になった鼓動が聞こえてきました。モグラ姫の心臓もまた彼と同じ様なスピードで脈を打っています。嘘ではないのか、嘘であって欲しくない。
自覚しはじめたばかりの彼女の恋心はサイラスを信じたくて仕方がありませんでした。
「あなたはきっと可笑しくなっているんだわ。今度のパーティで他の令嬢でもアリスでも私と並べて御覧なさいよ。そうすれば夢から覚めるわ」
「アイリス様、僕は目が悪いんだと思います。あなたは確かに容姿も優れず、性格も捻くれて面倒臭い。おまけに書庫ばかりに引きこもって評判は良くありません。でも、僕はそんなあなただから好きなんですよ。とげとげした心も、卑屈さも憎まれ口を叩くところも引っ括めてあなたが好きなんです」
「サイラス、あなたって何ていうか本当に変わっているわね」
それからモグラ姫とサイラスは言葉少なに太陽がオレンジ色になるまで抱きしめ合っておりました。
余りに帰りが遅い主人を心配したアンが探しに来るまで、彼らはお互いの体温を分け合っていたのでした。