天敵とお姫さま
過去に思いを巡らせ、イスカ王子との思い出に浸っていたモグラ姫は姉であるサラと彼がいる方をじっと見つめました。出会った時の姿よりもずっと背が大きくなっており、月日の流れを感じます。
辛い現実を目の当たりにした日は彼女が初めて恋をした日でもありました。あの時からモグラ姫は自身に諦めがつくまで、精一杯綺麗になろうと努力を重ねました。
顔や身体が思い通りにならぬのならばせめて心は美しく聡明でありたいと強く願い、その実淑女らしく行動するようにと努めていました。けれどもどうしたって女神のような姉には近づけず、おまけに妹まで可愛らしさを体現したよう育ち、彼女は途方に暮れました。
二人を嫉んで、妬んで心まで醜くなる自分が嫌で堪らず、もういっそのこと全てを投げ捨ててしまえば良いのではないかと思い至ったのです。
それからモグラ姫は大好きだった草花や陽の光を忘れ、庭に出ることも滅多になくなりました。お転婆な姫の変わりように周囲の者も戸惑いを隠せずにいましたが、直に慣れてしまいました。
庭を駆け回る代わりに、彼女は書庫に篭り手当たり次第本を読み漁りました。初めのうちは絵本や童話、物語ばかりを読んでいましたが、時が経つにつれ歴史や地理学、古文書なんかにまで手を出すようになります。
学校に通う代わりにと付けられた家庭教師と共に勉学へと精を出したのです。モグラ姫は決して優秀な生徒ではありませんでしたが、知識に対する姿勢は貪欲で、これが男子ならばと父親である王様は頭を抱えました。
淑女というものは男を立てるものであって過分な知識を持つ女は敬遠されがちでした。やんわりとお妃様がモグラ姫に注意しましたが、彼女は鼻で笑い、
『どうせ血筋があるのだから、一人は物好きがいるでしょう。間口を広げれば誰かが貰ってくれるわ。婚姻に愛など必要ないのだから』と一蹴しました。
お妃様は娘が自身の結婚をことも投げに言う様子に驚きを隠せませんでしたが、追及することもありませんでした。寧ろ、恋に深くのめり込んで政略結婚を嫌がる方が問題です。
そんなお妃様の心中を知ってか知らずか、お咎めがないことを良いことにますます勉学に没頭し、書庫へ篭るようになりました。
それと付随してモグラ姫の部屋にも本棚が置かれ、天蓋付きのベッドはシンプルなものに代わり、薄桃で統一していた調度品も素っ気ない家具に取って代わりました。おまけに太陽光は書物が傷付くからと言って、レースのカーテンは重苦しい色の厚手なものへと付け替えてしまったのです。
見かねた王様が彼女に苦言を漏らしますが、それならばと万年溜まっていた貴族からの報告書をまとめ出し、一定の品質を保った書類を提出するものですから結局手出しが出来なくなってしまいました。
王様やお妃様はモグラ姫を年相応に、ドレスや化粧に興味を持って欲しかったようですが、彼女は全く頓着せず、それどころか夜会にも殆ど顔を出さなくなる始末です。
これでは不味いと思った二人が当てがったのが、見目麗しいサイラスでした。彼は事あるごとにモグラ姫のお相手として駆り出されるようになったため、ひそやかに彼女の婚約者候補かと方々で囁かれるようになりました。
初めてサイラスに会った時、モグラ姫は何て美しい男の子だろうと周囲を忘れ思わず見惚れてしまいました。
彼はその良く回る舌を口の中にしまってさえいれば、類稀なる美男子でした。
行動もひとつひとつが洗練されており、騎士の礼をとって片膝を付きモグラ姫の掌に口付けを落とす時なんかは、まるでおとぎ話のお姫さまになったような心地すら覚えました。
けれども、そんなものは最初の数分だけでダンスを踊った時に彼が顔を近付け、耳打ちした言葉は『モグラ姫』。とろけそうに優しい笑みを浮かべながら、彼女にしか聞こえない声でそっと毒吐くのです。
モグラ姫も言われた当初は、唖然とし羞恥で涙目になったり声を荒げたりしていましたが今となっては平然として嫌味や皮肉の応酬を繰り返すようになったのでした。
けれども今宵は最近例に見ない程取り乱し、直接的な物言いになってしまいました。大嫌い、だなんてまるで子供が喧嘩した時に使う言葉です。
流石のサイラスも呆れているか、なお押し黙っているモグラ姫に苛ついていることでしょう。そう考えた彼女はこのままだんまりを決め込んで、彼がこの場から去ってくれるのを待っておりました。けれども彼はちっとも動かず、身じろぎひとつしません。
これはおかしいと思った彼女は主役の二人から目線を外し、そろそろと隣にいる男の姿を目に映しました。
するとどうでしょう、てっきり横顔が見えると思っていたのですが、飛び込んできたのは懐かしいような新緑の色でした。
「ご機嫌は直りましたか、アイリス様」
恭しく言葉を口にするサイラスは正に貴公子で、モグラ姫の焦げ茶の瞳を真っ直ぐに見つめます。とろけてしまう程甘い声音に彼女は面をくらい、目を見張りました。
「普段は糸のように細い目も驚かれる時は大きくなるのですね。まるで陽光に照らされたビィ玉の様だ。いつもその様にコロコロと表情を変えてくれれば、僕としてもかわいらしく思えるのですが」
彼が続けて口にした言葉はやはりいけ好かない天敵のものでした。一瞬でも彼をよく思ってしまった自分を恥じ、モグラ姫はつっけんどんに言葉を返します。
「あなたは、黙ってさえいれば完璧よ。その甘い声でいつだって憎まれ口を叩くのだから。私、辟易するわ。あなただって他のご令嬢や妹とお話ししたいでしょうに。わざわざ私の両親が指名して悪かったわね。でもお互い様よ。私だってあなたが嫌なんだから」
「そうでしょうね。何せ、大嫌いですから。先ほどのアイリス様は可愛らしかった。涙を溜めて僕に突っかかる態度なんて最高に淑女らしくない。僕はそんなあなたが嫌いではないのですよ。普段鼻持ちならない程表情を変えないあなたが僕の言葉ひとつで激昂したり泣き出しそうになったり。これこそあなたのエスコート役を買って出た甲斐があるというものです。けれど」
サイラスの声が、急に低くなりモグラ姫は断片的にしか言葉を聞き取れませんでした。いえ、聞き違いかもしれません。だって目の前の男が言うには余りにも不釣り合いで、優しい言葉だったからです。
彼女は勘違いだということにして、けれどもやっぱり心はざわついていたのでしょう。ぽつりと漏らした言葉は可笑しなものでした。
「きれいね」
モグラ姫ではなくアイリス姫に戻ってしまったかの様な言葉をなおも続けます。
「あなたの眼、そんな色をしていたのさっき知ったの」
「あなたは僕の顔を徹底して見なかったから」
サイラスはモグラ姫の手を取り、指先を絡めます。彼女は捻くれの仮面が外れてしまい、言葉を忘れてしまいました。だって天敵らしくない、優しい表情で彼女を見つめているのですから。
「アイリス様、あなたのお望み通り舌を口の中にしまっておくことにします。嫌味や皮肉の応酬も愉快で結構だが、漸くあなたがアイリスになったのだから」
「何を言っているの」
戸惑うモグラ姫をよそに、サイラスは初めてダンスを踊った時の様に騎士の礼を取り彼女の指先にそっと唇を触れさせました。
「姫、どうぞ一曲僕と踊って頂けませんか」
モグラ姫はいきなりのことに頭が真っ白になり、固まってしまいました。通常だったら馬鹿にしているのかと文句の一つも言うものですが、微かに頷くのが精一杯でした。
そんな様子を見て、サイラスは顔をくしゃくしゃにして笑いました。新緑の眼にはからかいの色はなく彼女が見る限り、純粋に喜んでいる様でした。
彼の表情は、どこかで見たことのある懐かしいものにも思えます。遠く後生大事にと取っておいた少年の。
その後のダンスは初めて踊った時よりもずっと緊張し、3回もサイラスの足を踏んづけてしまいました。
その度顔を歪めるモグラ姫に彼は快活そうに笑って、優しく宥めました。まるで人が変わった様な調子に、彼女は戸惑いを隠せませんでしたが、ずっと続いていた憂鬱が消えて無くなっていることに気付きました。
モグラ姫はそう、多分認めたくはないだろうけれど最悪のパーティだった筈が初めて愉快な気分になったパーティになったのです。それも大嫌いだった天敵のおかげで。