甘い初恋とお姫さま
パーティの賑やかな雰囲気の中、モグラ姫はイスカ王子と出会ったばかりのころを思い出していました。あれはいつの時分だったか、まだ彼女が穴にこもる前のことでした。
キラキラと輝く太陽の中、お城の庭にアンを引き連れ大好きな草花の匂いや色を楽しんでいたモグラ姫。
いえ、あの時はまだ城の者もアイリス様と呼んでおりました。だってモグラの欠片もなくお外が大好きなお子様だったのですから。
温かな光、土の匂い香る初夏の陽気は彼女が一番好きなものでした。薄桃のワンピースを着て、裸足で芝生を駆け回っているととても幸せな気分になって顔をくしゃくしゃにして喜んだものでした。
モグラ姫は、よく笑う子供だったのです。感情豊かで喜怒哀楽を解りやすく表わす幸せな姫。
顔に散らばるそばかすも、姉や妹よりも細い目も気にしたことはありませんでした。
真っ直ぐで快活、少し御転婆がすぎるけれど叱られた時は素直にごめんなさいと謝ることが出来る子でした。使用人や城の者も彼女の笑い顔を見ると、なんだか心が優しくなれるような、そんな心地を覚えていました。
ある日の午後のことでした。その日は大切なお客様がお見えになるということで、使用人や兵士がばたばたとあちらこちらを駆けずり回っておりました。
アイリス姫も前の晩、お行儀良くしているのですよ、間違ってもドレスを泥だらけにすることがないように、と注意をされていたので可愛らしくはい、とお返事をしました。
そんな風に言われていたのもあってアイリス姫もなんとか午前中はお部屋で言われたとおりきちんと絵本を読んでいました。けれども日々、庭で駆け回っている彼女のこと。
午後には我慢できなくなって少しだけ、少しだけお庭に行きたいわ。大丈夫、靴はちゃんと履いていくしみんな忙しくしているから短い間なら見咎められないわ。
アンがお妃様に呼ばれた間にアイリス姫はさっと部屋を抜け出して、太陽の下、大好きな庭へと向かうのでした。
いつもは必ず御付きの者を連れて歩いている為、アイリス姫が城内を一人で歩くのはこれが初めてでした。
見つからぬようこっそりと行動していたこともあって、使用人は誰一人彼女に気がつきません。
そんな折でした。二人の兵が休憩がてら、庭の出入り口で世間話に花を咲かせています。好奇心旺盛だったアイリス姫は物陰に隠れ耳をそば立てて二人の会話を聞いていました。
「それにしても王族っていうものは、幼い頃から婚約だの結婚だのと大変だな」
「今回隣国の王様が王子を連れてきたのも、サラ様に引き合わせたいっていう肚らしいぞ。確かにサラ様は子供ながらこちらがどきりとしてしまう程美しいからな。もう何年もすれば絶世の美女になるに違いない」
「青田買いってやつかねえ。まあサラ様なら国内はもちろん国外でもその名を轟かす美女になるに決まってるさ。王子様もきっとお気に召されるに違いない」
「そうだなあ。アイリス姫でなくて良かったかもな。あの人は良くも悪くも普通の子供だ。サラ様と並んでいると、見劣りするし」
「不敬だぞ。周りに人が居たらどうするんだ」
「すまねえ。だけどもあの子を見ているとなんだか不憫になってくるよ。せめてサラ様と並んでいなければあの子も愛嬌のあるお顔立ちだと言えるのに」
「良さねえかって。大丈夫だろう。アイリス姫だって年頃になれば引く手数多さ。なんたってこの世で最も尊いお血筋なのだから」
「お前の方が酷いこと言ってるぞ。まるで馬の血統の様に言うのはよせよ」
その後、兵士達は話題を切り替えあれこれと会話を続けていましたが、アイリス姫にはもう聞こえていませんでした。美しい姉、自分はずっと比べられていたのかと思うとなんだかとても悲しくなってきました。
美しくもない自分は血筋だけしか誇れるものがないと言われている様で、会話を聞いてしまったことの後悔すら覚えました。
どれくらい時間が経っていたのか、兵士達はすっかりいなくなっていました。アイリス姫は言われた言葉を咀嚼していくうち、 言いようのない衝動にかられ気づいていた時には走り出していました。
といっても行き着く先はいつもと同じ、柔らかな光が注ぐ庭です。いつもは誰かの気配を感じるのに、庭内は人っ子一人おりませんでした。アイリス姫はいつもの様に歩き回ろうとしましたが、心が沈んで鳥のさえずりさえも自分のことを嘲笑っているように聞こえます。
とうとうしゃがみ込み、花を愛する彼女のしてはぞんざいに近くにあった小さな野草を引っこ抜き、地面に叩きつけました。
「私は、血筋がなければ誰にも必要とされないのだわ」
ぽつり呟くと、本当にそんな気がして両の目から涙があふれ出しました。もう少し彼女が大人であれば悪意のない言葉に傷付かなかったかもしれません。
けれども彼女の世界は部屋とこの庭だけであまりに小さすぎました。涙が頬に伝わる度に嗚咽を漏らし、息を殺すように泣きました。たくさん泣いて顔がぐしゃぐしゃになる頃、頭上から声が聞こえました。
「泣いているの」
アイリス姫は誰もいないと思っていたものですから、ひどく驚き顔を上げます。すると眉根を寄せ心配そうな表情をした少年がすぐ側に立っているではありませんか。
「どなたですか」
震える声でしゃくり上げながら問うと、少年はにこりと笑います。
「…だよ。お父様に連れられてきたんだ。泣き虫なお姫様、どうしてこんなところにいるの」
「私はアイリスよ。今日は大事なお客様が来るからお部屋でじっとしていたの。けれど、私どうしてもお庭に出たくて。私はかわいくないから、お姉さまは綺麗で」
幼いアイリス姫は説明をしようとしましたが、言葉になるのは断片的なものばかりで会話になりませんでした。けれどもそんな彼女に呆れた様子もなく少年は言葉を続けます。
「悲しいことがあると僕も家を飛び出したくなることがあるよ。アイリスは僕よりも小さいのだから余計だよね。でもお花をそんな風にむしっちゃ可哀想だよ。それにそんなに泣いてちゃ可愛い顔も台無しだ」
「可愛いって私が」
「そうだよ。アイリスは可愛いよ。だから笑って。もしも今度悲しくなったら僕を呼んでよ。そうしたら僕は飛んでいくよ」
少年はなおも笑って、彼女の土まみれになった小さな手のひらを握りました。彼の眼は新緑を写したようでとても綺麗でした。名前は聞き取れなかったけれども、アイリスは彼をイスカ王子だと悟ります。
だって彼はあの時以来庭に姿を現さなかったし、その日のお客様と言えば隣国の王子以外他ならなかったのですから。
アイリス姫がモグラ姫になった後も、彼女は初めて恋に落ちた日のことを忘れませんでした。あの日のことはお妃様にはもちろん、アンにも言えぬモグラ姫と少年との秘密でした。
もしも誰かに言ってしまえば、笑われてしまうような気がして胸のうちにそっとしまいこんでいるのです。
きっかけはとても些細なものですが、モグラ姫にとってあの時の少年はそれこそ自分を救ってくれる王子様にも思えたのでした。