子爵様の恋煩いとお姫様の攻防
夏の賑やかな暑さも和らぎ、漸くペンを握ることを止めたモグラ姫は、穏やかな午後下がりにアンガ入れてくれたダージリンを飲みながら、細かく細工の施された砂糖菓子を口にしておりました。ふうわりと舌で溶け、微かに柑橘の香りがする其れは、東の国から輸入されたものです。
甘いものが好きな彼女はゆるりと表情を緩ませながら、書庫に持ち込んだふかふかのソファに深く腰を掛け堪能しておりました。
「忙しくない時に、あれだけ詰め込んで漸く落ち着きましたか」
皮肉な様子を隠さずにヒースローは言います。彼女は焦げ茶の瞳をちらりと彼に遣りましたが、すぐに逸らしまたクリーム色の砂糖菓子へと目線を落としました。
「姫様、お返事して下さいよ。最近もっぱらその調子だ。私、何か悪いことしましたかねえ」
へらへらと笑いながら尚も話しかけれる彼に、モグラ姫は少し苛立って口を開きました。
「煩いわね。アンに言われたのよ。大体にしてこの職場は可笑しいって。普通男女が二人きりになるなんて、確かにないことだわ」
「だから私と話をするなって。まあそうでしょうねえ。王族の方々の色恋沙汰は、たとえサラ様やアリス様じゃなくたって注目の的だ」
「何が言いたいの」
「モグラ姫の恋。穴倉から出てきたアイリス様はどの殿方かに恋をしている。社交界での噂ですよ。ご存知ありませんでしたか」
「この前、エリザベスに聞いたわ。でも時期に無くなるでしょう。真実じゃないもの。王族の婚姻は政、幾ら誰かに恋情を覚えても叶いやしない。恋を失ったならば、後は只幸福を願うのみね。あの人が幸せなら私も多分幸せだわ」
モグラ姫はお菓子を食べるのを止め、紅茶の入ったカップをローテーブルへと置きました。忘れるのが得意である筈なのに、最後に会ったサイラスの表情が頭から離れない。本当はもっとやりようがあったのではないか、話せばわだかまりが消えたのではないか、もうすぎてしまったことの筈なのに彼女から彼が中々消えてくれません。
モグラ姫が誰を思っているのか直ぐに合点がいったヒースローはへらへらした態度を止め、彼女を見詰めました。つい最近までは表情すら無くしていた彼女が憂い顔を表すようになったことに少し安堵を覚えながら、其れでも他の男を思うモグラ姫をずっと見ていたいとはお世辞にも思えません。
「そう言えば、もう直ぐまた王家主催の夜会があるとか」
「あなたも呼ばれてるの。億劫で仕方ないわ。これまで回避してきたっていうのに、シーズン終わりになって参加しなければならないなんて最低だわ」
「姫様のお相手は誰になるんでしょうね」
「さあ。お父様やお母様が見繕うでしょう。サイラスはエリザベスとだろうし、誰かしらね。まあ誰でもいいんじゃない。私興味ないもの」
「エスコートする甲斐がないことを言いますね。其れなら一度私とダンスを踊って下さい。子爵という身分ですが、差し支えなければお美しいモグラ姫と一度踊りたいものです」
「馬鹿げてるの。今、この小さな書庫だからあなたは私に軽口を言えてるの。まさか、あなたが衆人環視の前で私を誘ってみなさいよ。其れこそ噂に信憑性が出てくるわ。身分違いの恋ってね。冗談は止めて頂戴。もう、誰とも踊りたくないわ」
ヒースローは連れないモグラ姫の態度に微か苛立ちました。サイラス、あの公爵家の男には今手に持っている砂糖菓子より甘い笑顔を見せていた癖、自身にはその片鱗すら見せない。徹底して好いた男にしか柔らかい表情を見せない彼女が心底憎らしく思えました。
「姫様はこの先一生その態度で男と向き合うつもりですか。私の芯の底から出した言葉も無下にして。言ったでしょう。叶わぬ恋をしているのはあなたばかりではない。私もまた身を落としているんですよ。大して可愛げもない癖、どの女とも比べられない位恋い慕っている」
「ヒースロー、あなた最近可笑しいわ。あなたの身分なら大抵の女性なら娶れる筈よ。其れこそ、平民や王族でもない限り」
そう言って、モグラ姫はまた以前の、勘違いと一笑に付した考えが思い浮かびます。目の前の男が、まさか自身を好きになることないと彼女は思い込んでおりました。然し、穏やかな色が消え失せギラついた太陽のようになっているところを見ると、微妙な心持ちにせられるのです。
「お姉様はイスカ様がいらっしゃるから紹介は出来ないけれど、アリスならきっと一曲位なら踊ってくれるわ」
「解らない振りをしているんですか。アイリス様」
「それじゃあ平民かしら。悪いけどそちらだと力になれそうにないわ。だって私、何にも伝手を持ってないから」
「考えれば一目惚れだったのだと。人間として興味があると、自分で言い聞かせていたつもりでした。本当は理解されているんでしょう。あなたは勘の鈍くない人だ。解ってるんでしょう。私があなたを好きだって。知らないとでも思いましたか。サイラス様にあなたが告げた言葉も、私は知っている。嬉しく思いました。あなたが咄嗟についた嘘でも。少なくとも、仕事ではあなたを支えられていると実感出来たから」
モグラ姫は自身のついた嘘で誰かが不快になることはあっても、嬉しく思われるなんて考えたこともありませんでした。彼女は今しがた告げられた言葉をゆっくりと咀嚼し、胸の内に収めます。喜びの感情が無いとは言えません。好意を向けられるのは誰だって嬉しいものです。けれども、彼女の心には既にサイラスが住み着き離れないのです。
「あなたが私に好意を持ってくれているんじゃ無いかとは、ほんの少しだけ考えたことがあった。でも私は周知の通り、美貌も清廉な心も持ち合わせていない。ねじくれてて素直でも無い。そんな私を好きになる者など居ないと」
「それでも私は姫様、あなたを好きになったんです」
「ありがとう。純粋に嬉しいわ。でも、私。これ以上誰かに心を委ねたく無いの。失いたく無いの。ごめんなさい、無理よ。だって私、好きなのよ。もう叶わなくても」
「言うと思いました。それでもです。あなたを思う人はサイラスだけでないと知っておいて下さい。美貌も清廉な心も要りません。私はあなたがモグラ姫で、顔にインクが付いていたり、髪の毛が淑女らしさの欠片もなくくしゃくしゃなあなたが好きなんです。もう一度、誘わせて下さい。今度の夜会、あなたと踊りたい。一度で良いから私に其の掌を触れさせて頂けませんか」
ヒースローはおもむろに立ち上がり、モグラ姫が腰掛けているソファの側まで行き跪きました。彼女はどうすれば解らず両の手を胸の辺りで重ね合わせます。通常と異なる彼の姿を見て、是というべきなのかそれとも否というべきなのか見当も付きません。
「あなたって本当に風変わりな人だわ」
頑なに両の手を開かないモグラ姫に焦れたヒースローは、やや強引さを持って其の掌に自身のそれを重ね合わせました。
「一方的なものです。だから気にしなくて良い。それでも、もしもあなたが私の手を取った時はご覚悟下さい。以前言ったようにあなたを私に溺れさせて絶対に離さない。その身体も心も私のものにして、サイラスにも他の男にも触れさせません。どんなことがあろうとも」
モグラ姫は突然の熱烈な告白に呆気に取られ、うんともすんとも言うことができませんでした。しかし、その熱量を受け止めながらも彼女はやはりどうしたってサイラスの面影を重ねずには居られなかったのでした。