狙いが見える
狙いが見える
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今朝、寝ぼけ眼に携帯を確認すると、同じ部活の香澄先輩からメールが届いていた。
"銀乃ちゃん、相談に乗ってもらいたいんだけど、今日部室来れるかな?"
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部室の窓辺から明るく、夕日が差していた。
五限前の夕暮れ、わたしを含めても三人という少人数でありながら、部室の空気は重苦しい。わたしの正面、机を挟んで向かい合う香澄先輩は、真っ赤に腫らした目をこちらに向け、小さく口を開いて話始める。相談があると言ってわたしを部室に呼び出した彼女は、かなり思い詰めた様子であった。表情は暗く、覇気も感じられない。
「周りがみんな、敵に見えるの...」
香澄先輩は絞り出すような調子で語り始める。普段から笑顔を周囲にばら撒いている彼女だが、今は見る影もない。
「敵に見えるってどういう状況ですか?」
「私にもわからないんだけど、なんか、周りの人が今にも襲って来るように思えちゃうんだ。銀乃ちゃんとか西沢先輩はそんな風に見えないんだけど...」
香澄先輩はそう言い、目元を拭った。その憔悴した表情から、彼女が相当思い詰めたものと推測できる。
「私、どうしたらいいのかな...」
「別にそんなに心配することもないと思いますけどね。この部内に、襲ってくるような人はいましたか?」
我が文藝部には、誰一人武闘派がいないと自負している。誰も彼も、軟弱な肉体しか持ち合わせていなかったはずだ。
「いや、いないんだけど、いないんだけどさ... そんな風に見えちゃう自分が嫌で嫌で、仕方ないのよ...」
香澄先輩は頭を抱え、いよいよ、えんえんと泣き出した。そうして『わたしにもわからないよ』と心の声を漏らし、手首で涙を拭うのであった。
「いつからそんな風になっちゃったんですか?」
「多分、一昨日くらいからだと思う。一昨日部室に行ってから、周りがみんな敵に見えるようになって...」
香澄先輩は涙声で、呟くようにそう言う。その発言を受け、わたしは一昨日、部内で何があったかを思案する。
「何の前触れもなく、急に敵見えるようになったんですか?」
「まあ、そうかもしれない。一昨日は、部室を出て帰り道歩いてたら、その辺を歩いてる人が、なんか襲って来そうに見えてきて、すごい怖い思いをしたの」
香澄先輩が恐怖を抱いているのは、知り合いに限った話ではないようだ。わたしは香澄先輩の話を聞きながら、一昨日の出来事を一つ思い出した。
「一昨日と言えば、あなたが自作のお菓子を部室に持って来てたね、実相寺君」
わたしは、壁にもたれかかって座る実相寺君を見た。どこか飄々とした雰囲気のある彼は、わたしの言葉に呼応してか、読んでいた文庫本を閉じた。
「私か? 私は確かに、一昨日自作の菓子を持参した。それがどうかしたのかい?」
「いやまあ、たいしたことではないんだけど、一昨日この部にあったことといえばそのくらいだなと思って」
わたしは、タッパーに入った黒いお菓子を見てから、ついで実相寺君の朗らかな表情に目をやった。
「そう言えば、このお菓子ってなんなの? わたし食べてないんだけど」
「うーむ、それは秘密かな。食べてからのお楽しみさ」
実相寺君はそんなことを言ってわたしをはぐらかし、首元のヘッドフォンを耳につける。一ヶ月前に文藝部に入部したばかりの彼だが、部に馴染もうという意志は、どうも感じられなかった。
「では私は、自分の世界に浸らせてもらうとするぞ。もしよければ、君も私の作った菓子を食べてみると良い」
実相寺君はゆったりとした口調でそう言い、小さな電子機器を操作した。そうして『食べて、君も周りが敵に見えれば良いのだ』と心の声を漏らし、再び文庫本を開くのであった。
「そういえば香澄先輩、このお菓子は食べましたか?」
「うん、一昨日食べたけど、あんまりおいしくなかった。なんか、変に苦い感じだった」
香澄先輩は言い、実相寺君が作ったというお菓子の箱を少しずらした。
「じゃあ、食べない方が良いですかね?」
「うん、その方が良いと思うよ」
香澄先輩は力なく言い、すんと息を吸った。そうして、『あれは本当にまずかったな』と心の声を漏らすのであった。
「じゃあ、私講義があるから行くね。銀乃ちゃん、今日はありがとう」
「あ、お疲れ様です」
香澄先輩は、壁際にあった鞄を持ち上げる。そしてそのまま立ち上がり、部室を出て行く。そんな彼女の表情は、相変わらず暗く、覇気のないものであった。
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帰りの電車にて、暇つぶしに携帯を確認すると、同じ部活の赤城さんからメールが届いていた。
"銀乃ちゃん、相談に乗ってもらいたいんだけど、明日部室来れるかな?"
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部室の窓辺から明るく、陽光が差していた。
二限後の昼下がり、わたしを含めても三人という少人数でありながら、部室の空気は重苦しい。わたしの正面、机を挟んで向かい合う赤城さんは、真っ赤に腫らした目をこちらに向け、小さく口を開いて話始める。相談があると言ってわたしを部室に呼び出した彼女は、かなり思い詰めた様子であった。表情は暗く、覇気も感じられない。
「周りがみんな、敵に見えるの...」
赤城さんはそう言ってため息をつく。普段から三つ編みにした髪を揺らし、文学少女然とした語彙力を発揮している彼女だが、今は見る影もない。
「え? 赤城さんも周りが敵に見えるの?」
「え、あたし以外にもそういう人がいるの?」
「うん、赤城さんの他にも、周りがみんな敵に見えるって言ってた人がいたよ」
わたしがそう話すと、赤城さんは表情を少し明転させた。少しだけ、普段の凛然たる雰囲気が戻る。
「あたしだけじゃなかったんだ。なんか、少しほっとしたかも。ちなみにそれって、誰なの?」
「それはね、香澄先輩」
「あ、香澄先輩か」
赤城さんは言いながら口に手を当て、まごつかせる。そうして、『あの人と一緒かぁ』と心の声を漏らす。
「赤城さんは、いつから周囲が敵に見えるようになったの?」
「うーんっと、三日前だと思う」
「三日前?」
症状が出始めたのは、香澄先輩と同じ日のようだ。
「部室にあったお菓子を食べて伊藤君とお話ししてたら、伊藤君が襲ってくるんじゃないかって急に怖くなってきて...」
赤城さんはそう言いながら、体を震わせた。その時のことを思い出し、慄いているのかもしれない。
「部室にあったお菓子っていうのは、これのこと?」
わたしは実相寺君が持ってきた黒いお菓子を指差す。
「そう、それ。実相寺君が持ってきたっていうやつ」
「あ、そうなんだ」
実相寺君の作ったお菓子を食べたという点も、同様の症状を起こしている香澄先輩と一致している。
わたしは、今日も今日とて、壁に寄りかかって座っている実相寺君を見た。
「ねえ、実相寺君。君はお菓子に何か入れたの?」
わたしは、実相寺君の垂れ下がった眉を見つめる。
すると彼は、ちょうど昨日そうしたように、ぱたりと文庫本を閉じた。
「君は、私がお菓子に毒物を入れたとでも思っているのかい?」
「そういうわけではないんだけど、一応聞いてみただけ」
「そうかい。ならば答えよう」
実相寺君は閉じた文庫本を床に置き、 なぜか前髪をいじった。
「答えは無論、ノーだ。私は至って普通に菓子を作り、この部室に持ってきただけの話さ」
実相寺君の口調は、疑いをかけられたにも関わらず、驚くほどに朗らかである。
「そう、まあそうだよね。疑ってごめん」
「その通りだ。毒物を入れたようなものを、わざわざ部室に持ってきはしない」
実相寺君は朗らかな表情を崩さず、そう言い切る。そうして床に置いた文庫本を手に取った時、彼は核心に迫るような心の声を漏らすのであった。
『私の作った菓子を食べた者に、相手を敵に見せる作用があるなど、君たちは知る由もない』
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わたしは帰路にて所謂歩きスマホをしながら、同じ部活の実相寺君にメールが送っていた。
"実相寺君、話したいことがあるんだけど、明日空いているかな?"
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実相寺君はわたしと同学年の部員だが、どうも馴染めていないのが現状だった。一ヶ月前になんの因果か部室を訪れ、彼はその日のうちに入部届けを書いた。それ以降、部室にはたびたび顔を見せるものの、誰と会話するでもなく、音楽を聞く、文庫本を読む、等自分の世界に没頭していた。
そんな彼が初めて起こしたアクションこそ、今回の、謎のお菓子投下であったのだ。香澄先輩や赤城さんは、それは嬉しくて、それで、あの黒いお菓子を食べてしまったのだろう。
わたしはそんな推測をしながら歩く。そうしてしばらく歩いていると、実相寺君が住んでいるというアパートに、到着した。
夕暮が、わたしの背中を炙っていた。アパートの白い外装には所々塗装のはげた部分があり、それがいやに不気味でもある。
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アパートの中へ入り、恐る恐る歩く。彼が住んでいるというアパートは、明らかに老朽化が進んでいるように思えるのだ。壁の木材は腐り、砂埃の臭いが鼻に付く。それもあってかアパートの中は、外装で受けた印象よりも数段上の、より不気味な雰囲気が漂っていた。夕暮れ時ということもあって歩廊下も薄暗く、また、格別の音もない。アパートである以上住人はいるのだろうが、本当にこんな場所に人がいるのかと疑ってしまうほど、不気味で、静かな空間が広がっていた。
そんな廊下をのそのそと歩く。すると、どこからともなく猫の声がした。威嚇するようにも聞こえるその荒々しい声が、わたしの耳を掠めていく。ついで、わたしの後ろ、おそらく物置のようなところから、誰のものかもわからぬ、たらいが落ちてきた。ガン、と無機質な金属音を立て、無警戒だったわたしをびくりと飛び上がらせた。
この平成の世のアパートに、猫とたらい。一体このアパートの管理体制はどうなっているというのだ、とわたしはそんな疑問を抱きながら、ゆったりと歩みを進める。そして、一つの洗濯機を見つけ、それを調べようと近づくと、その拍子に、わたしの右横にあった一室の扉が、がちゃりと勢い良く開いた。そうして、聞き覚えのある、朗らかな声が耳をついたのであった。
「ようこそ、横溝銀乃さん。私は、君の来るのを待っていたのだ」
扉を開けて出て来たのは、実相寺君だった。いつもの飄々とした薄笑いを浮かべ、わたしを招き入れる。それに従い、わたしは玄関から入った。
彼の部屋は、どこか整然とした雰囲気があるように感じた。無駄なものがないのだ。あるものといえば、白い冷蔵庫と、部屋の真ん中に鎮座するちゃぶ台くらいなものだろう。その極限までにインテリアの引き算を重ねたその部屋は、生活感がないようにすら感じられた。
「歓迎するぞ。なんなら、赤城くんや香澄さんも呼んだらどうだい?」
実相寺君はそんな冗談とも本気とつかないことを言いながら、ちゃぶ台の前に座る。わたしもついで、その正面に座る。
そうしてわたしたちは、ちゃぶ台を挟んで向かい合って座る格好となった。
「君のやっていたことは、だいたいわかったよ。君は、致命的な『心の声』を漏らした」
「心の声?」
「わたしは、声には出していない、人の心の声を聞くことができるの。だから、部室で君がふと漏らした心の声も、わたしには全部聞こえてるの」
わたしがそう言うと、実相寺君の表情に変化が現れた。彼は口を少し曲げ、ぎゅうと結んだ。
「まさか、参ったな。君の言うことが本当ならば、私の考えが筒抜けだったということになる。私の考えを言ってみてくれるか?」
「わかったよ」
わたしは一度、頭の中を整理する。
「君は部室にいる時、自分の作ったお菓子に食べた人は周りが敵に見える旨の心の声を漏らした。だから香澄先輩や赤城さんは、君の作ったお菓子を食べたばっかりに、周りの人間が敵に見えるようになってしまった」
「なるほど、正解だ。これは一本取られたな」
実相寺君は頭を掻く。そうして小さく息を吐き、口角を上げた。
「君の計画は全て暴露された。おとなしく白状したら?」
わたしは、案外動揺の少ない半笑いの実相寺君を見つめながら、そう指摘してやる。
「ハッハ...」
実相寺君は小さく笑い声を上げた。
「私の実験は十分成功したのさ」
「実験?」
「そうだ。私の作ったお菓子が人間関係を狂わせるのに、十分効力があることが分かったんだ」
実相寺君は依然朗らかだ。計画が暴露されたにも関わらず、呑気であるとさえ思えてくる。
「人間関係を狂わせて、どうするつもりなの?」
「簡単な話だ。人間社会を、自作菓子にて楽に生き抜くのだ」
実相寺君は言いながら、わたしの銀髪頭を見つめている。
「相手を敵に見せたところで、君になんの得があるの?」
「教えてやろう、人間社会はいわば蹴落とし合いだ。無能な者は蹴落とされ、有能な者はのし上がって行く。その社会の中で、生き残っていくために重要なのが、人間同士の信頼関係だ」
「信頼関係?」
「そうだ。私たち人間は、一定の信頼関係のもとに生活を営んでいる。仲間や上司、先輩、後輩。こう言った人々の信頼を勝ち取った者こそが、集団の中でのし上がって行く」
実相寺君は語調を強めた。
「そんな集団の中で、周りの人間が敵に見える者はどうなるだろうか。相手が敵に見えるということは、その相手を信頼できないということだ。そして人間は、自分のことを信頼しない相手を、信頼しようとはしない。つまり、周りが敵に見え、相手を信頼できない者は、他者からの信頼を勝ち得ないのだ」
実相寺君はそんな主張を展開していく。
「そうすると、集団の質は落ちていくと思うんだけど?」
「集団の質など私には関係ない。私は、社会の中でいかに楽に生き抜くかを議論しているのだ」
実相寺君は、自己中心的なスタンスを取っているようだ。
「もし仮に、周りが敵に見え、相手を信頼できない者が、私よりも少し能力の高い人間であったとしよう。先ほど私が提示した理屈に則れば、私よりも少し有能なその人間は、他者からの信頼を得られず、集団の中でのし上がって行くことができない。そうだろう?」
「まあ、君の理屈に則れば、の話ね」
わたしは一応そう返したが、実相寺君の理屈が正しいとは一言も言っていない。
「もし、私より有能な者が失脚したとすれば、元々その者が座っていた椅子には誰が座るだろうか。それは無論、その者よりも少しだけ劣る程度の私だろう。どうだいい考えだろう」
実相寺君は言い終えると、したり顔をこちらに向ける。部室では表情の変化が少ない彼だが、自宅アパートでは妙に豊かである。
「なるほど。君の話をまとめると、自分の作ったお菓子を使えば、有能な奴も蹴落とせるんだ、っていうこと?」
「そうだ。そして、私がその有能な者の席に座ることができ得るということだ」
わたしは言いながら、実相寺君の崩れないしたり顔を見つめる。
実相寺君は自らの考えを吐露し、ある程度満足したようだった。
「一か月前に急に文藝部に入ったのも、自分が作ったお菓子の効き目を調べるため?」
「そうだ。私は文学になど興味はない。部室開いていた文庫本も、実はまったく読んでいなかったのだよ。開いて、見ている振りをしていただけだ」
実相寺君は、ジャケットの内ポケットから文庫本を取り出し、自分の後ろへ、ぽいと投げ捨てた。
「文藝部は武闘派もおらず、一定以上の部員もいる。実験にはうってつけの部であるはずだったのだ」
「私の存在はイレギュラーだったと?」
「そうだ。君のように心の声が聞こえる人間の存在など、私には知る由もなかったのだ」
実相寺君は言い、そこで一つ、こほんと咳をした。
「そこでだ、横溝銀乃さん。君もわたしの計画に協力しないか?」
「は?」
実相寺君はわたしに顔を近づける。彼の横分けになった前髪が、わたしの眼前に現れる。
「私は君に、菓子を授ける。それを片っ端から、部員に渡して行ってくれ。そうすれば、私は君に褒美をやる。どうだ、魅力的だろう?」
「ちなみに褒美っていうのは?」
「褒美か? 褒美は、私の作った菓子一年ぶんの贈呈だ。味は、チョコ味、シーフード味、パクチー味から選ぶことができる。どうだ、魅力的だろう?」
実相寺君は台所へ行き、三つのお菓子持ってきた。それを、並べてちゃぶ台に置く。
「これを、わたしに? 一年ぶん?」
「どうだ、魅力的だろう?」
わたしは、実相寺君を見ながら、ズボンのポケットに手をやった。そうして、その中にある瓶を握り、そっと取り出す。ちゃぶ台を挟んで向かい合うその男は、そうとも知らず呑気で朗らかな顔をしている。
「そうだね、お菓子一年ぶんは魅力的だよ。わたしも楽して生きたいたちだし、実相寺君に協力するよ」
「本当か? やはり、君なら乗ってくると思っていたよ」
実相寺君は、部室では見せないような満面の笑みを見せた。そうして、『馬鹿な女め』と心の声を漏らす。わたしはその間に蓋を開け、彼に向けて瓶を突き出すのであった。
「なーんて、言うとでも思ったか!」
わたしは語調を強めて言いながら、瓶を大きく振った。その拍子に中の赤い液体が飛び出し、それが、彼の目元に直撃。そして悶絶した。
「うあああ、焼けるように痛い! なんだこれは!」
「タバスコだよ。わたしがバイトしてるコンビニは強盗が多いから、護身用に持ち歩いてるの」
わたしはそうとだけ言い残し、目を抑えてのたうち回る実相寺君を背に、部屋を出て行った。
外へ出ると、ちょうど日が落ちかけていた。アパート近くに流れる川に橙の煌めきを伝え、陽光はその輝きを町中に振りまいていく。
わたしはそんな暮れなずむ夕景を背に、ちょうど侵略宇宙人でもやっつけた気になるのであった。
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今朝、寝ぼけ眼に携帯を開き、同じ部活であった実相寺君にメールを送った。
"実相寺君、店で買ったお菓子を持って来てくれるなら、部室に来ても良いよ?"