心が見える
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コンビニで過ごす四時間半は長い。
何と言っても退屈で、張り合いがないのだ。わたしの勤務する店には大して客が来ないので、単純にやることがない。これでは、不覚にもあくびが出てしまうではないか。
とはいえ、こうしてレジに立っているだけで時給九百円が手に入るというのは、冷静に考えれば喜ばしいことである。日本円は国際的にも信用のある通貨であるし、九百円あればたいていの家系ラーメンが食べられる。冷静に考えれば、わたしが行なっている行為は、非常に効率が良いではないかという気にもなってくる。特に苦労もせず金銭を得るというのは、単純に喜ばしいことなのである。とはいえやはり、退屈は呪うべきではないのかとも考えられる。何もやることがないというのは、生物として間違っているようにも感じられるのだ。人間がアウストラロピテクスであった時代、そこには数多の困難があったはずだ。そして、その困難を乗り越えてきた歴史こそが人類の歴史であって、すなわち、困難こそが人類なのである。わたしはこのコンビニで過ごす数時間にて困難をひたすらに避けることによって、アウストラロピテクスの生き様を否定する気にもならない。多少の困難があった方が、調和の取れた美しい人生が送れるのではないか、とアウストラロピテクスがわたしに囁いているような気もする。いやしかしやはり、金というのはいかに楽して稼ぐのか、という側面もある。いやしかし...
このような思考ループを何度か繰り返し、わたしはやはり退屈になってあくびをした。深夜アルバイトの勤務時間はじきに終わるだろう。帰ったら、と考えた。帰ったら、髪をとかしてすぐに寝よう。眠い時は寝ることに限る。そうして調和の取れた人生を送るのだ。
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家に帰り、寝て起きて携帯の電源を入れると、時刻は午後二時を過ぎていた。わたしが寝転んでいるベットすぐ上、窓の外からは明るい陽光がのぞいていた。もうすっかり昼下がりである。
わたしは体を起こし、枕元にあった携帯のロックを解いた。そうしてメールの受信ボックスを確認すると、知り合いの男からのメールがあった。そこには「今日の夕べ逢えないか??」とあり、遊びの誘いであると推測できた。
眠いので、反射的に断ろうとも思ったが、「会えないか??」ではなく「逢えないか??」と表現したあたりに彼なりのこだわりを感じたので、一応承諾することにした。誰かの発したこだわりを無下にするのは、些か憚られることに思えた。
わたしは、「いいよ」とだけ本文を打ち、彼にメールを送信した。
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彼は名を真弓といい、わたしと同じ大学に通っている。同学部ということもあり、何の因果か腐れ縁的な関係が続いており、今日のように会うことも稀にある。
彼は、待ち合わせ場所に指定したファミリーレストランの前にてわたしを見るなり、心の中で『銀髪が綺麗だ』と言い、口では「お待たせ」と言った。彼は本音と建前をわきまえている。それは非常に素晴らしいことだ。
そんな彼に、わたしは「五分遅刻」と指摘する。彼は、心の中で『五分くらいいいじゃないか』と不満を漏らしたが、口では「ごめん」と謝罪した。
彼は本音と建前をわきまえている。それは非常に素晴らしいことだ。
わたしは彼に「入ろうか」と言い、店内へ入るよう促した。彼は頷き、わたしに続いて店に入った。
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店内は比較的空いていて、たいして待たずに座ることができた。少し待つと店員が席に案内してくれ、わたしたちは奥の禁煙席にて向かい合って座った。しばらくして卓上にコップ二つが届き、それに口をつけたところで、彼がふいに切り出した。
「銀乃さんに頼みたいことがあるんだ」
彼は言いながら、神妙な面持ちだ。
「ああ、そう」
わたしが返事をすると、彼は苦笑いを浮かべた。そうして心の中で、『相変わらず無表情だな』と言った。
「銀乃さんって、相手が何考えてるかわかるんだよね?」
「そうだけど?」
わたしは彼の言うように、相手の考えがわかる。
「俺、来週末にテニスの試合があるんだ。それで、その試合に勝ったら、好きな子に告白しようと思ってるんだ」
彼は言いながら、頰を赤らめた。知り合いから聞いた話によると彼は、数ヶ月前に失恋したばかりらしい。
「みずみずしい話だこと」
「え? そうかな」
彼は頰を赤らめたまま、ぽりぽりと鼻を掻いた。
「それで、その試合に勝つために銀乃さんに手伝ってほしいんだ。俺の対戦相手がどのコースにどんな球種を打ってくるか、心の声を聞いて教えてくれないか?」
彼は手を合わせた。そうして心の中で、『勝って君に告白する』と言ったので、わたしはつい吹き出しそうになってしまう。
「ええっと、わたしは君に告白されるために君を手伝えばいいの?」
「え!?」
「冗談冗談」
彼は生粋の阿呆である。
「手伝ってくれるかな?」
「いいよ。一試合くらいなら付き合ってあげる。わたし、結構暇だから」
わたしがそう返事をすると、彼はふうと息を吐いた。そうして心の中で『告白しようとしてるのはバレてないみたいだ』とつぶやいている。
彼は生粋の阿呆である。
「試合は今週の日曜、一時からなんだ。その時間に、市営グラウンドに来てほしい」
「いいよ。じゃあ、その日は君がテニスをしてるところをしっかり見ておくわ」
わたしは言いながら、コップの水をゆらゆら揺らす。すると彼は、『銀乃ちゃんに見られるのは緊張するなぁ』と心の声を漏らした。彼がわたしの方を向く。
「試合前だけど、意外に緊張してないんだよね」
彼はそんなことを言い、唇を舐めた。彼は本音と建前をわきまえている。
「まあ、期待しておくわ」
わたしはメニュー表を取りながら、一応そんなことを言っておいた。そうして彼は「がんばるよ」と口で言い、それから『君のために』と心の中で言った。
彼は生粋の阿呆であり、本音と建前をわきまえている。
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「彼は生粋の阿呆という認識でいいのかな?」
「それで間違いない。銀ちゃんも災難だよね」
大学の食堂の一角で向かい合いながら、わたしたちはそんな会話をした。五十嵐さんは真弓のことを思い浮かべたのか露骨に眉を寄せたが、すぐにカップに入った唐揚げを齧り、心の中で『からあげ君主最高!』と言った。彼女は生粋の唐揚げ好きのようだった。『やっぱ唐揚げは、ラーソンのからあげ君主に限る』
真弓から心の声で告白されたわたしは、その告白をいかに断るか、一抹の悩みを抱えていた。そこで、真弓の告白を見事に断り切った五十嵐さんの話を聞き、断る際の参考にしようと考えたのだった。そんな経緯のもと、わたしは五十嵐さんと向かい合っている。
「五十嵐さんはなんて言って断ったの?」
わたしは彼女の切れ長の目を見る。彼女はわたしから目を離し、ぱちぱちと瞬きをした。
「私はね、煩悩を断つべきだって言ったの」
「煩悩?」
「うん。遠回しに断ろうと思って考えたら、そうなった」
なぜ煩悩という単語が出てきたのかよくわからないが、とにかく彼女はそのように断ったらしい。
「わたしはどうやって断るべきだと思う?」
わたしは首元に付けた十字架のネックレスを見ながら、尋ねた。
「そうだね。銀ちゃんの場合は、淡々と断ってやればいいと思うよ。淡々と、無理ですって言ってやればいいと思う」
「それじゃあ彼が傷つくんじゃない?」
「いやいや大丈夫。失恋してから数週間でまた別の人に告白しようとするような図太い男だから、それくらい平気」
五十嵐さんは唐揚げではなく苦虫を噛み潰したような顔をし、彼の図太さを表現する。
「図太いのよ、本当に」
彼は生粋の阿呆で、本音と建前をわきまえた男であると同時に、図太い男でもあるようであった。
「じゃあ、普通に断ろうかな。あんまり考えすぎても仕方なさそうに思えてきた」
「そうそう。あいつのことなんて構う必要ないよ」
五十嵐さんはそう言った時だけ、豪傑笑いした。彼女は、とにかく真弓のことが大嫌いなようだった。一度は愛された相手に、酷いものである。
「そういえば、この間言ってた後輩の人とはどうなったの?」
ふと気になったので尋ねてみる。この間会った時、後輩の男に恋をしていると話していたのだ。
「ああ、渡部君ね。彼には結局フラれたから、今は別の人に恋してるの」
五十嵐さんは頰を赤らめ、早口で言った。
「ああ、そうなんだ」
「そうそう。その人チョー魅力的な人でさ、もうゾッコンなんだよね」
彼女は興奮気味に言い、カップに入った唐揚げを齧る。そうして、五つあったカップの唐揚げを満足気に平らげ、席を立った。
「じゃあ、私は行くね。恋する乙女は忙しいのだ」
五十嵐さんはそんなみずみずしいことを言い、そそくさと食堂を出て行った。その去り際、彼女は心の中で『渡部君とかいたな』と言う。そんな彼女左耳には銀色のピアスが輝いていて、それがなぜか印象深く心に残った。
彼女もまた、図太い女であるようだった。
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「これは、あなたが告白されてるということですかね?」
プレハブ小屋でわたしの未来を見た男が、そう言った。彼はプレハブ小屋にて客の未来を見て金を取るという変わった店を営んでいる男だった。わたしに相手の心を読む能力があるように、彼には未来視の能力があるのだ。わたしも何度か男のプレハブ小屋を訪れており、そのたびに正確に未来を当てるので、すごいなあと感心してしまうのであった。
「あなたの表情と、心の声が聞こえるという能力の情報を照合すれば、多分告白されたということだと思います」
「ああ、そうですか」
わたしはそう返事をする。未来視をしている彼の心の声を聞いていたので、わたしはさほど驚かない。むしろ、いつも単刀直入に未来を告げる彼が言葉を探しているような言い草だったので、そちらの方に少し驚いた。
「あなたは相変わらずの無表情なんですね」
「まあ、それがわたしの特徴でもありますわ」
わたしはあえて口調を崩してみる。彼のアホ毛を見ていると愉快な気持ちになるので、ふいに口調を崩したくなるのだ。
「ちなみにあなたは、告白を断るんですか?」
「ええ、まあ」
「そうですよね。まだやはり、社会からの当たりは強いですから」
男はそんなことを言う。心の中では『まだ結婚もできないだろうし』とも言った。
「まあ、普通に断りますわ」
「本気でないなら、その方が良いと思います」
男は言って、席を立つ。そうして、煩雑とした物置からカップ麺を取り出し、おもむろに包装を開けた。
「世間は差別で溢れてますから」
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試合開始五分前にグラウンドへ着くと、コートでは真弓とその対戦相手が軽く打ち合いをしていた。快い打球音を響かせながら真剣な眼差しで向かい合う両者を見ていると、こちらまで緊張してくる。わたしはコート横の芝生に体操座りしつつ、いよいよ試合が始まるのだな、と居住まい正したくも思った。
真弓の対戦相手は、大柄な選手だった。身長は一八〇センチメートル後半ほどあり、筋骨隆々と言った様子のフィジカルエリートだ。
試合前のウォームアップなので軽く打っているが、本気を出せば、強烈なサーブやショットを繰り出すであろうことは、容易に想像できた。
対する真弓は、どこか頼りなさげな様子だった。身長はわたしよりも数センチ高いくらいで、ふくらはぎや腕は驚くほどにか弱く見えた。
向かい合う両者の体格差は歴然で、さながら子供と大人のようでもある。
わたしはコートを見ながら、真弓はこの相手に勝てるのだろうか、という思いを禁じ得なかった。スポーツにおいて、読みというのは重要な要素の一つではあるが、それだけでは埋まらないフィジカルの差というのも当然あるだろう。日本がサッカーやバスケの強豪国になれないのも、そういった背景ゆえだろう。いくら相手のコースや球種がわかるとはいえ、それを打ち返す力がなければ試合に勝つことができないのだ。
わたしはコートを見ながら、そんなことを考えた。
「やあ、銀ちゃん」
コートを眺めていると、背後からそんな声がした。振り向けば、紺のスタジアム・ジャンパーを羽織った五十嵐さんが、手を振って微笑んでいた。
「五十嵐さんも来てたんだ」
「まあね。暇つぶしに、真弓の散りざまでも見てやろうと思ってね」
五十嵐さんは快活に言い、わたしの横へおもむろに座った。
「五十嵐さんは物好きなんだね」
「銀ちゃんこそ。真弓に協力してあげるなんて、物好きとしか言いようがないよ」
五十嵐さんはこれまた快活に口で言い、心では、『ちょっと緊張するな』と言った。わたしがその発言に訝しんでいると、五十嵐さんは口を押さえ、「なんでもない」と言い、黒いボブカットをつんつんといじり出した。
「ほら、試合が始まるよ」
五十嵐さんは早口で言い、コートを指差した。見れば、ネット前に両選手が集まり、じゃんけんをしていた。サーブ権を決めているのだろう。
「あ、真弓は負けたみたいだね」
五十嵐さんが言うのと同時に、真弓がちらりとこちらを見た。わたしが軽く手を上げて応えると、真弓はエンドラインの真ん中当たりへ行き、ラケットを持って構え、体を左右に振り、相手のサーブに備えた。
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相手選手はボールを軽くバウンドさせながら、『まずはセンターにフラット』と漏らした。わたしそれを受け、真弓の方を向き、指をグー、パーと動かし、サインを出した。真弓はそれを一瞬見ると再度相手の方を向き、ラケットをくるくると回した。
相手はすうと息を吸い、左手でボールを放り上げ、上体を少し傾けた。そうして素早く腰を回転させ、地面に叩きつけるような勢いでラケットを振り切り、激しくボール打ち込んだ。ボールはうねりを上げ、物凄い勢いで真弓に襲いかかっていく。
そのコースは、本当にセンターだった。そして、真弓はしっかりとセンターにいて、リターンエースを狙うには格好のチャンスに思えた。
しかし、そう思ったのもつかの間、真弓が弱々しいスイングで捕らえたボールはとんでもない方向へ飛び、後方のネットに勢い良く当たった。あたりにいた観客から軽い拍手が起こる。
真弓は相手と後方のネットを交互に見つめ、ぽかんとしていた。
わたしはそれを見て、『ダメだこりゃ』とつい心の声を漏らした。
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試合は一方的な展開となった。試合前に抱いていた危惧が的中したのだ。真弓は相手選手の強烈なサーブやショットを、まともに拾うことができなかった。
わたしは試合中サインを出し続け、コースや球種はそのサイン通りで、真弓も適切な位置でボールを待っていたのだが、彼は相手のボールの勢いに押され、まったく打ち返せなかった。
そうこうしているうちに相手のポイントはどんどん増えていき、いよいよ一つもゲームを取れないまま、試合はセットカウント3-0で終わりを迎えた。言葉にすれば、実にあっけない。
両者はネット前で握手を交わしているが、両者の表情は対照的だった。満足気な表情の対戦相手と相反して、真弓の表情は暗澹たるものだ。目には光が灯っておらず、自殺しないかどうか心配にすら思った。
わたしはそんな光景を見ながら、どこか違和感を覚えた。プレハブ小屋での男の発言を思い出したのだ。彼は、わたしが告白される旨の発言をしていた。そして、真弓はわたしに告白する条件として、試合に勝つことを挙げていた。しかし彼は試合に負けたため、わたしに告白はしないだろう。そうなれば、男の未来視は外れたことになる。彼は未来予想を一度も外したことがないため、そのあたりに違和感を覚えているのだろう。わたしは訝しみ、ぎゅうと眉を寄せた。
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「ねえ、銀ちゃん」
抱いた違和感を払拭できず、どうしたものかと考えていると、隣からそんな艶っぽい声が聞こえてきた。五十嵐さんの声だ。彼女はわたしを誘惑でもしたいのか、急に体を寄せ、頬擦りをしようとしてくる。わたしは不快感に苛まれ、彼女の体を押し返した。
「いきなり何?」
「私ね、銀ちゃんに伝えたいことがあるの。ほら、食堂で言ったでしょ。今好きな人がいて、もうゾッコンだって」
五十嵐さんは言いながら、またも顔を近づけてきた。眼前に迫った彼女の頰は赤く色っぽいので、わたしは昨日男が放った言葉の意味を理解した。どうやらわたしの想像と、告白される相手が違ったようだ。
「それが、銀ちゃんのことなの。あの時は、心の声を漏らさないように、必死だったわ。わたし、銀ちゃんのことが好き」
五十嵐さんは妙に色っぽい声で、わたしにそんなことを言った。
わたしはそれを受け、一瞬言葉に詰まったが、心の中にふとある言葉が浮かんだ。それは、彼女が食堂で口にしていた、あの言葉だ。
わたしは頭の中に、こちらに帰ってくるブーメランの姿を思い浮かべた。
「五十嵐さんこそ、煩悩を断つべきなんじゃない?」