00000101 少女は、小首を傾げるより字を書く方がうまいと主張する。
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少女の存在が証明するように、家宅捜査にしろ、禁制品の押収にしろ、以前の住人を捕まえた警察の行動がかなり杜撰なものだったことは間違いないようだ。調べてみると、部屋からは前の入居者のものと思しき生活用品がゴロゴロ出てきた。
けれど、肝心の麻薬は見つからない。
一応ではあるかもしれないが、警察が警察として機能している証拠だ。
サイボーグの青年はイソラを心配して色々と不平を洩らしたが、曲がりなりにも治安が維持されているという状態がいかに驚異的な事実であるかを、旅人であるイソラはよく知っている。
アエリアはいい街だ。
「アエリアっていうの」
部屋に越してきて二、三日が過ぎた頃だろうか。ようやく腰が落ち着いてきて、チップが見せる街の幻想が肌に馴染んできた辺りだった。
見せかけだけのコーヒーを飲んでいたイソラが声のした方を向けば、同じく見せかけだけのコーヒーをまずそうに飲む少女の姿があった。
お互いに座っている。お互いに見つめ合っていた。少女は片手を床につき、イソラは片手で少し折れ曲がった紙片を持っていた。もう片手はカップを握っている。視覚的な午後だった。
「何が?」
埒が明かなくなってイソラは訊いたが、彼女は小首を傾げるだけだった。
溜息を吐く。
ふとあることを思いだして、少し慌てる。彼女がこの動作を真似しない内に、台詞を繋がなければならなかったのだ。とにかく口を開いて、思うままに喋る。
「君は、突然話しかけてくるのと、小首を傾げるのが、とても上手だね」
皮肉になってしまった。
でも、それを気にした様子は、少女にはない。きょとんとして、言う。
「あなたが何も訊かないから」
「何が?」
「私の名前」
「アエリアは都市の名前だよ」
「でも、私の名前もアエリアなんだもの」
「ゴキブリじゃないことは知ってた」
「そう思われたくなかったから、教えたかったの」
ぼんやりと嬉しくなる。彼女の台詞は、こちらに好意を向けているように感じたからだ。
アエリアか、と呟いてみた。
響きは悪くない。人の名前が都市の名前になるのはよくあることだが、その逆も然りだろう。しっくりとよく馴染んだ。
「字は書ける?」
「小首を傾げるよりもずっと上手だよ」
「割と根に持つタイプなんだね」
「何が?」
「ううん」
苦笑。
彼女は根に持ってなどいなかった。ただ、素直なだけだ。汚れているとすれば、それは間違いなく、イソラの方だろう。少女には、混じりけがない。
「ここに君の名前を書いてほしいんだ」
持っていた紙片にペンを添えて、彼女に差し出す。彼女はまた小首を傾げた。
「ここに書けばいいの?」
「空や雲を描くんじゃないよ。名前を書くんだ。自分の名前は好き?」
「大好き」
「じゃあ、奇麗に書いて」
彼女は素直だった。さらさらとペンを走らせ、はいとこちらに紙片を返してくる。受け取って、イソラは、あはと声に出して笑った。
「どうしたの?」
「君の字。やっぱり小首を傾げる方が上手だよ」
少女は、しばらく考えるように間をとってから、ゆっくりと言った。
「でも、奇麗に書けたもの」
そうだねと頷いて、イソラは彼女の名前に被せて判を押す。この類いの作業は、文明が発展しても、文明が衰退しても、あいかわらずだった。
ローカルで、アナログで、その分、本物として重宝される。
「その紙がどうかしたの?」
「これを役場に提出するとね、君を合法的に引き取ることができるんだよ」
都市の名前を持つ少女は、不思議そうに小首を傾げた。
また、ある日の午後。
雨が降っていたから、傘をさして出かけていると、ユナタに出会った。
傘をさしている人は少ない。何故なら、そもそも雨の中を歩こうと思う人間が少ないからだ。汚染物質を好き好んで浴びようと思う人間は稀少だろう。だから、傘をさすイソラにも、コートを着込んだユナタにも、雨の日に出歩くだけの理由があって然るべきだった。
「よう」
片手をあげて挨拶してくるユナタは、いつも通り、気さくで人懐っこい青年だった。しかし、その何気なく挙げられた手の美しさには、今日、初めて気付いた。細いわけではないが、艶めかしい魅力的な手をしている。ちょっとした発見だった。
浮かべる微笑も、気分が良い。
「こんにちは。雨の日に出会うとは、奇遇ですね。何か急用ですか」
「うん、まあ、そんなところだ。ということは、そっちもかい?」
「あの子を引き取ることにしたんですよ」
ああ、あの女の子か、と青年は歌うように言った。
「そいつはよかった。少なくとも、警察に保護されるより温かい結末だ」
「だといいんですけれどね」
「保証するよ、お前はいい奴だもの」
何でもないようにユナタは笑う。まるで、惑星が平らであることを信じているような口ぶりだった。イソラは困ったように笑って誤魔化す。
誰もが彼のように、旅人に好意的なわけではないのだ。
警察は、最後までイソラの事件への関与を疑っていた。とはいえ、少女を引き取って世話をしてやるほど、彼らに金の余裕があるわけではないことを、イソラは心得ていた。結局、水は低きに流れていくしかないのだから。役場は書類を受理するところなのだ。
そして、都市の名前を持つ少女は、イソラの部屋で暮らしている。
「けれど、食事は大丈夫なのかい。人間そっくりに作られているってことは、味覚もそうなんだろう。俺達の食べているものが口に合うかな」
「まずそうに食べていますよ」
苦そうにコーヒーを飲んでいたアエリアの様子を思い出して、微笑した。
「ただ、二人分となると、何かとお金もかかりますから。まだ少しゆっくりしているつもりだったんですけれど、早めに何か仕事を探そうかと」
「なんだ。じゃあ、俺と同じだな」
「ユナタも仕事を?」
「前から誘われていた所があってさ。配管を掃除するんだ。でも、母親の世話があったからな。ずっと内職くらいしかできなくて、断ってきた。で、時間が空いたから、晴れて仕事を受けようと思ったわけだ。今は、その仕事先に直接その旨を伝えに行くところ」
「……雨の日にわざわざ?」
そっちだって、とユナタは笑う。
「よかったら、イソラも紹介してやるよ。旅人が知り合いを作るには、まだ時間が足りないんじゃないか。人づきあいなしでいきなり職を探すのは、結構大変だろう」
「いいんですか」
「お前と一緒に働きたいんだよ」
そんな歌があった気がした。彼は言葉のチョイスがうまい。心がこもって聞こえる。それを信じさせてくれるだけの笑顔を持っていた。