00000011 旅人は、黒い甲殻虫との出会いに怯えながら、少女に出会う。
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夜の街の一角をそのまま切り取ったような代表的な暗さの中、天井には大小様々なパイプが駆け巡る。表面にすっかり固着していると思しきかびが、独特の匂いを発している。半ば無意識に手が口を押さえるべく動いたが、それより早く感覚が調整された。
わずかな明かりを広く拾って、快適な照明を。
かびの匂いはカットし、剥き出しの床にたまるあやしげな水溜まりが消え、理解不能なゴミの山も消え、自分にだけ見えるカーペットが敷かれる。いや、待て。
かちり、と。
感覚の修正を一時的にオフにする。品定めする最初くらいは、本物の現実を見なければなるまい。幻想で自分を慰めるのは、この風景を日常にするか否かを決めてからでも遅くはないのだから。
かびはかびに、泥水は泥水に、そして暗がりは暗がりに。
どさり、と荷物を下ろす音。
背後からだ。
振り向くと、扉に寄り掛かるようにして、一人のサイボーグが頑丈そうな箱を床に置いていた。イソラは首を傾げた。彼は誰だろう。目が合うと、サイボーグは粗末な表情筋で人懐っこい笑みをこちらに向けて形成する。その笑みに名残が見えた。そうだ、マイクロチップの感覚をオフにするということは、こういうことなのだ。
サイボーグはユナタだった。
「どうだい、この部屋は気に入ったかい」
「それは?」
合成音混じりのユナタの声。イソラは、動揺しなかった。フィルターを切っても、彼の印象は大きく変わっていない。だから、いつもの自分の声で訊いた。彼と同じ合成音混じりの声で。
差し入れだよ、とユナタは答える。
「トレイとか、メンテナンスパーツとか、余っていたオイルとか。もう使わないから、下の部屋から持ってきた。型が合えばいいんだけどな。それと、映画のチップが何個か。直接、体につけるタイプの奴。ちょっと物が古いけど、独り暮らしに慣れるまでは寂しいだろうから」
「ありがとう」
「よせよ」
イソラが軽く頭を下げると、ユナタは、手をひらひら振った。
「けど、残念だな。また二人暮らしができると思ったんだが。どうやら空いた部屋は、物置か何かにするしかなさそうだ。本当に俺のところに来ないのか? 部屋代がタダになるんだぞ。それとも、家賃を払うのが趣味とか」
「逆ですよ。人に家賃を払ってもらうのが、趣味じゃないだけで」
サイボーグの青年は、奇麗な笑顔を見せた。
「たしかに。それが無難なところか。管理人も喜んでいたし」
「すみません」
「謝ることはないだろう。隣人の存在はありがたいよ。今日のところはそろそろ帰るけれど、何かあったら、遠慮なく頼ってくれ」
ああ、そうだ、最後に――と彼は言い、ポケットから袋を取り出した。
周囲の目立ったゴミを手早く拾い、口を結ぶ。帰るついでに、階下に捨ててきてくれるらしい。ああ、それから最後の最後に――続いて、配管の説明なども軽く一通りしてくれた。彼の言う最後のお節介は、細々と何度も繰り返された。ありがたい気配りだったが、その気配りは本来イソラに向けられるものでない。彼のまめまめしい世話を受けるべき相手は、既にこの世にいないのだ。
世話焼きとしての達成感を満たしたのか、さっぱりした表情のまま、ユナタはこの部屋を後にしようとしていた。
そうして、ひとりきりで一夜を過ごすのだろうか。
今夜に限らず、明日も明後日も。
彼の誘いを断ってしまった手前というわけでもないが、イソラは去り際の背中に声をかける。
「この部屋の前の借り主は、どうしたんですか」
「ん? ああ、麻薬か何かの売人だったらしくてね。この前、しょっぴかれたよ。別に珍しい話でもないと思うけれど。気になるかな」
「いいえ、怪談話があるかないかが知りたかっただけですから」
「怪談?」
「今夜、あなたの部屋の上の階から物音が聞こえてきたとしても、ラップ音と間違わないでくださいね。多分、僕、寝相が悪いから、すごい音をたてるかも」
こちらの真意を測りかねるように、ユナタは一瞬目を細くした。
よけいなお世話かなと思わなくもなかったので、イソラとしては少し居心地が悪い。しかし、ほどなく、青年が見せたのは破顔の表情だった。彼の唇が、歌うように囁く。
「そういうことか。別に。そこまで夜が寂しいわけでもないぜ。でも、上の階に人がいるっていうのは、いいもんだな。なんだか二段ベッドみたいだ。夢だったんだよ。俺は一人っ子だったから」
「おやすみなさい、お兄さん」
「おやすみ、妹君。しばらくは起きてるから、何か訊きたいことがあったら、訊いてくれよ」
鼻歌を口ずさみながら、彼の姿は扉の向こうへと消えていった。
その声が階下に隠れて完全に聞こえなくなってから、イソラは一人密かに笑う。
妹君という彼の台詞がおかしかったからだ。
自分が男であることに、ユナタは最後まで気付かなかったらしい。
やはり、今日、彼は一人で夜を過すべきだったのだ。
「さて、と」
その時だ。
声に重なるように、どこかでカサリと音がした。
階下だろうか。
しかし、それにしては音が生々しい。壁一枚挟んでくぐもった音を聞き間違えるはずもない。つまりは、音源はこの階、この部屋にあるということだ。何の音だろう。
ユナタによれば、前に部屋を借りていた人物は決して善人ではなかったらしい。
そのこと自体は珍しくもないが、麻薬の売人が自室に何を残していくのかは想像がつきにくい。麻薬は音をたてないから、何かの小動物だろうか。しかし、アエリアの環境でネズミやリスの類が生きていけるとも思えない。
ありうるとすれば――
「ちょっと、やめてよ」
嫌な想像を頭から追い払う。
ゴで始まりリで終わる名の黒い生命体は、公的には絶滅したことになっているが、多数の街で目撃情報があり、その三十倍の個体数が予測されている。都市伝説だが、ありうる話だ。この部屋にいてもおかしくもない。イソラは生理的な嫌悪感を覚えた。それは蛇を初めて見た人間が悲鳴をあげる感覚と大差ない。
奴らの存在は、サイボーグにとっても脅威だ。関節から入り込まれれば、ほとんどなすすべがない。そうして、ハードディスクやCPUを内側から食い散らかされて死ぬのだ。
ナイフは汚さずに済ませたかった。ユナタが持ってきてくれた箱を漁る。底の方に古い接着剤を見つけた。彼の母をメンテナンスするためのものだったのだろうか。指にとってみると、劣化していてちょうどいい粘着性だ。相手を絡め取るのに使えるだろうか。
接着剤を片手にイソラは部屋の奥へと進む。
暗い部屋。
じめじめとしていて、天井にはパイプ管、床には水溜まり、饐えた匂い。
こんなところにも黒い生命体は住んでいるのだろうか、フィルターで真実から目を背けてしか生きられない人間達を尻目に、食物連鎖の途絶えた環境で何かを漁りながら。
カサリと音がした。二度目である。奥からだ。
窓があって、柱があって、その影に何かが潜んでいる。思っていたよりも大きい。巨大ゴ○○リ? まさか。では、何だろうか。
窓から差し込む光は、こんな世界でも奇麗だった。
青くて、淡くて、有害な光であることを忘れてしまいそうになる。月明かりと間違えたくなってしまう。実際、見惚れていた。手に握った接着剤の存在も忘れて、だから、こう思った。
ああ、奇麗だな、と。
「殺さないで」
聞こえてきた声はイソラのものではなかった。しかし、不思議とそれほどの驚きはない。
声があまりに明瞭で耳に心地よかったからかもしれない。
うずくまっているのは、人影。
柱の影からわずかに出した彼女の顔を、青い光が照らしていた。髪の長さは肩まで。まつ毛が長い。唇は薄い。影の向こうには? 粗末な服。汚れているけれど、奇麗な手足。
人間の少女だった。
当たり前のことだ。この惑星に、この文明に、人間以外の生物なんていない。キチン質の甲虫だって、公的にはとっくの昔に絶滅していて、都市伝説の世界でだけ生きることを許されている。現実は、その程度には残酷にできている。だから、彼女が人間であることに疑いはない。
でも、おかしい。何が? おかしくないことがおかしかった。
人間。
人間でありすぎる。
彼女は、あまりにも人間でありすぎた。
イソラは自分の記憶違いを疑った。よく考えて思い出さなければならない。今、僕はマイクロチップの感覚をオンにしていたのだったか、オフにしていたのだったか?
彼女はサイボーグには見えなかった。
声も澄んでいた。幻想の剥ぎ取られた廃墟のような部屋の中、彼女だけが生身だった。イソラは呟こうとして、ノイズ混じりの自分の声が急に恥ずかしくなる。誤魔化すように、言葉を探した。でも、何も思いつかない。だから、訊ねた。
「君は――ゴ○○リなの?」
最低の問いかけだ。案の定、彼女は小首を傾げた。立ち上がり、こちらを真っすぐ見てくる。
「私は人間だよ」
「そう見えるね」
生身の人間を最後に誰が見ただろうか?
でも、彼女は座っていた。今は立っている。当たり前のようにそこにいた。
イソラは、感覚の修正をオンにしたい衝動と、したくない衝動を同時に覚えていた。
幻想のスイッチを入れてしまえば、彼女の姿は泡のように消えてしまうのではないかと思っていたのだ。でも、それは希望のようなものだった。
自分は、既にこの驚きの結末を知っている。
生身の人間などいるわけがないのだから。