Case3. フリーター女子
開店を控えたファミリーレストランのバックヤードは、緊迫した空気に包まれていた。迫る開店の準備に忙殺されているという理由だけではない。先ほどから、ひとりの若い女性を大声で別の女性が叱り付けているのだ。指導を受けている方の女性店員は、今にも泣きそうだ。
「いい加減にしてよ! いつになったら、ちゃんとできるのよ!」
叱咤を受けている方の店員、取山愛乃がビクッと身を縮ませる。そこに、店員の一人、伊納颯が割って入った。
「まあまあ。まだ彼女、入って日が浅いからさ。教育担当の俺の責任でもあるんだし」
颯が、その整った口元から白い歯を覗かせる。すると、それまで激しく憤っていた女性・恵比島葵が急にしおらしい態度を見せた。
「伊納君……」
颯は葵の態度が緩んだ隙を見逃さず、さり気なく愛乃の肩に手を回した。
「じゃあ、取山さん。向こうで話そうか」
爽やかな口調ながら、有無を言わせぬ迫力だ。愛乃は、反射的に頷いた。半ば強制的に颯に連れられていく愛乃の後姿を、葵が凄まじい形相で睨みつけていた。
*
愛乃がこのレストランでアルバイトを始めたのは、およそ三ヶ月前のことだった。在職年数が長く、かつ面倒見のいい颯が教育担当となったはいいが、愛乃はこの職場に波乱をもたらした。仕事の覚えが悪く、ミスを連発したのである。これまでは颯をはじめとしたほかのスタッフでなんとか彼女をフォローしてきたが、その都度葵が憤りを爆発させてきたのだ。
*
開店準備に追われる仲間を尻目に、葵が盛大に溜め息を漏らす。
「本っ当に使えないよね、あの子!」
周囲を見渡し同調を求める。当のバイト仲間たちは、面倒を起こしてくれるな、といったオーラを醸し出している。
「まあ、新人だからね」
「最初のうちにたくさん失敗した方が、後から伸びるかもよ」
「それに取山ちゃんって、何だか放っとけなくて。つい助けちゃうんだよねー」
出てくる言葉が愛乃をフォローする言葉ばかりであることに、葵の不機嫌さが度合いを増す。カッとなって何か言い返そうとした時、タイミングよく店長が出勤してきた。いつもの通り、準備をアルバイトに任せた悠々とした到着だ。途端に葵が、しなを作って店長に摺り寄っていく。店長と共に葵がその場から消えたことに、スタッフたちは安堵の息を吐いた。
「まーねー、気持ちはわかるけどさ」
「バックヤードをギスギスさせてくれるなよ、って思うわ」
「はぁー。取山ちゃん可愛いからさー、辞めないでほしいな」
思わず仲間たちの本音が出る。葵がこの場に戻ってくる前に作業を進めておこうと、彼らは再び各自の仕事に戻った。
バックヤードの奥、店長の詰所から戻ってきた葵は、愛乃と颯がバックヤードにいないことに気が付いた。目を皿のようにして店内を見渡すと、テーブル席の前で二人が密着しているのが見えた。血相を変えた葵は、すぐさま二人の元へと急いだ。
「ちょっと、取山さん!! 伊納君と何やってるのよ!」
縮こまる愛乃の前に、颯が一歩出た。ちょうど、愛乃を庇うような格好だ。
「何って、よく失敗する皿下げ(バッシング)の練習をしてたんだよ。コツを掴めば失敗も減ると思ってさ」
そこまで言うと、颯は立ちすくむ葵を無視して練習を再開した。颯と至近距離で手と手を触れさせている愛乃に、葵の相貌が般若のように変わっていった。
オープン後、各自が仕事をこなしているうちに、魔のランチ時を迎えた。ホール、キッチン共ににわかに慌ただしさを増していく。颯や他のホールスタッフが出払ったキッチンに、愛乃が戻ってきた。そこにすかさず、葵からの指示が飛ぶ。
「取山さん、十七番卓にこれお願いします」
「は、はい!」
葵の示す先には、オーブンから出したばかりのグラタンが置かれている。ひっくり返さないように気を付けて、愛乃が土台の皿を持ち上げた時だった。おもむろに近づいてきた葵の腕が、愛乃のそれに当たった。いや、「当たった」というよりも実際には――愛乃の腕を「薙ぎ払った」という方が的確かもしれない。不安定な姿勢で不意を突かれた愛乃の手元から、熱々のグラタン皿が宙に放り出された。
「きゃあああぁ!!」
皿の内容物が、愛乃の腕を直撃する。次いで中身を失った耐熱皿が、床に叩き付けられた。熱さに呻く愛乃を横目に見ながら、葵が大声を上げる。
「取山さん、この忙しいときに何やってるの!? 早くこれ、処理して!」
周囲に聞こえるように捲し立てた葵は、キッチンスタッフに作り直しを伝えに去っていった。
やっとの思いで片付けを終え、愛乃はスタッフ用のトイレに赴いた。洗面台にもたれて、火傷を負って赤く腫れた腕に流水を掛けていく。華奢な腕に走るヒリヒリとした痛みに、思わず涙が溢れていた。
(もう嫌だよー! 誰か助けて……!)
愛乃がそう念じると同時に、突然周囲の喧騒が止んだ。不審に思って顔を上げると、眼前にある鏡に何かが写り込んでいるのが見えた。自分の背後に、中学生くらいの女の子が立っているようなのだ。恐々と振り向くと、そこにはやはり十五歳前後の少女がいた。どこかの制服だろうか、身に纏う大人びた衣装と端正な顔立ちのせいで、自分よりも年上のようにも感じられる。とりあえず実体のある存在であることに安堵した愛乃は、少女に注意をすべく動いた。
「あの、ここは関係者以外は……」
「随分と、お悩みの様ですね」
少女が、愛乃を遮って言葉を掛ける。不思議と包容力のある声に惹き付けられ、愛乃は涙を拭った。
「え、ええ。まあ」
「この現実を、変えてみたいとは思いませんか?」
愛乃は当惑した。この少女は、何を言っているのか。
「……どういうこと? あなたは一体――?」
「いじめ撲滅キャンペーンガールです。この度は、ご用命いただき誠にありがとうございます」
愛乃が小首を傾げる。少女がさらに言葉を続けた。
「再度確認になりますが、ご依頼主様はこの辛い現実を変えてみたいとは、思いませんか」
愛乃が、自らの赤く腫れた腕に視線を落とす。刹那に、腕を払う葵の顔が浮かんだ。
「そりゃ、そうだけど……」
「悔しい思いをされたのではありませんか? 私共の『いじめ矯正プログラム』にご参加いただければ、この状況も変わっていくことでしょう」
急に怪しげな勧誘を始めた少女に警戒心を抱いた愛乃は、彼女を振り切ってその場を離れた。妙な人物と関わってしまったことを後悔しながら、急いでホールへと向かう。先ほどからいやに静かなその場所に辿り着いた愛乃は、驚愕した。客はおろか、スタッフさえも動きを止めていたのである。よく目を凝らしてみると、窓の外の自動車までもが全て停止しているではないか。衝撃の余り、両手で口許を覆う愛乃に、先ほどの少女が再び話し掛けてきた。
「いかがでしょう? これが私共の力です」
こんな光景を見せつけられては、彼女の言う「力」を信じざるを得ない。愛乃の胸に、一筋の希望が灯った。
(こんな魔法みたいな力だったら、もしかして……)
愛乃が、頼もしげに少女を見た。
「本当に、いじめられなくなるの?」
「はい」
少女が即答する。その躊躇のなさはまるで、「イエス」以外の回答が存在しないとでもいうようだ。愛乃の表情が、パッと明るくなった。
「じゃあ、頼んじゃおうかなー」
「交渉成立ですね。では早速、プログラムの実行に移ります。ここから先は、ご依頼主様といじめ実行者の立場を入れ替えた世界を体験していただきます」
そういうが早いが、少女は愛乃の前方に両手で円を描いた。何事か、耳に馴染みのない言語を唱えて手をそちらにかざすと、円の軌跡が光り輝いていく。光の円が現れたと同時に、少女は愛乃に向かって掌を向けた。
「!?」
愛乃の全身と、空間の内部が光に覆われたとき、少女は愛乃に一礼した。
「いってらっしゃいませ」
極彩色に輝く円の中心に吸い込まれて、愛乃の姿は見えなくなった。
気が付くと愛乃は、職場のロッカールームにいた。ロッカーを全開にして制服を手に持っているところを見るに、着替えの最中に気を失っていたらしい。制服を身につけながらふと、彼女の目がロッカー扉の内側に留まった。備え付けの鏡には、いつもの通り自分の姿が映っている。ここでやっと、愛乃の脳裏に意識を失う前に起きた出来事が蘇った。
(へえ、心と身体が入れ替わるんじゃないんだ。安心したー)
身支度を終えたところに、入れ違いで葵が出勤してきた。チラチラとこちらを気にしているところを見ると、彼女にも「いじめ矯正プログラム」とやらに参加している自覚があるのだろうか。そんな葵に構わず、バックヤードに入った愛乃の視界に、青く光る文字が躍り出た。
(何これ……、ナビゲーション・システム? ここで待て?)
訳のわからぬまま、とりあえず愛乃はナビゲーションとやらの指示に従った。その場で待機していると、ロッカー室から葵が出てきた。よく見ると、彼女の周囲にも赤く光る文字が浮遊しているのがわかる。葵が愛乃の前で足を止めたのと同時に、愛乃の背後から突然音声が再生された。
「あ、恵比島さん。昨日のあのミス、今日はしでかさないでね。毎回毎回、私の負担を増やさないでよ……」
この音声の内容が、今朝方葵から発せられたものであるということに、二人はほぼ同時に気が付いた。しかし、葵が自分の声で自分を叱責しているという妙な改変が加えられているようだ。葵の説教は続き、愛乃の過去の失敗を蒸し返し続けた挙げ句、最後の嫌みで落ち着いた。
「……いつになったら、ちゃんとできるのよ!」
葵の音声が金切り声に変わったところで、二人の間に割って入るように颯が現れた。愛乃の方を手振りでいなしながら、颯は葵を庇う素振りをみせた。
「まあまあ。まだ彼女、入って日が浅いからさ……」
「伊納さん……」
颯の後方では、葵が頬を紅潮させて彼を見詰めている。やがて幸せそうな表情の彼女は、颯に肩を抱かれてその場を離れていった。愛乃は、珍しいものでも見たように幾度か瞬きをした。
(恵比島さんのあんな顔、初めて見た。いっつも怒ってるから……)
そこに、騒ぎを聞きつけた他のスタッフが集まってきた。すると、例によってどこからともなく葵の声が響く。
「本っ当に使えないよね、あの子!」
青ざめる愛乃を、バイト仲間たちがやんわりと宥める。
「まあ、新人だからね」
口々に愛乃の肩を持ってくれる彼らに、思わず胸の奥がじん、とする。
(いつも、こんな風にフォローしてくれてたのかな? 皆、優しいな)
彼らとのやり取りを終えたところに、今度は店長が出勤してきた。愛乃の視界に、ナビが点灯する。その文字列は愛乃に、店長の後を追うよう命じていた。訝しみながらも彼を追った愛乃の後方から、葵の声がした。
「店長、待ってください!! 恵比島さんのことでお話が……! あの子が仕事できないせいで、皆困ってるんです」
そう訴えられた店長は、いかにも面倒そうに頭を掻いた。
「まーしょうがねーよ。まだ新人だしさ。お前ら先輩が教えるとこだろ、そこは。それに恵比島ちゃん、かわいいからさー。あの子目当てに客が増えて、こっちは万々歳だしね」
そう言い放った店長は、こちらに一瞥もくれることなく店長室の扉を閉めた。ほっと息を吐いた愛乃に、次なる指令が表示された。
床面に記された足跡に誘導された愛乃は、客席で皿下げの練習に励む颯と葵の前で立ち止まった。途端に、葵のヒステリックな怒声が本人たちを襲う。
「ちょっと、恵比島さん。伊納君と何やってるのよ!」
颯が葵を守るように前に出る。愛乃はここではじめて、いつも颯が自分の盾になってくれていることに気が付いた。
(伊納さんって、いつも親切にしてくれるもんね……今度、お礼言わなきゃな)
ランチ時を迎えた店内は、いつもながら活況を呈している。スタッフ総出で対応に追われるなか、愛乃はいつもより遥かに正確に仕事をこなしていた。これも、ナビゲーション・システムのお陰だ。視界に気を付けるべきポイントや次にとるべき動作が表示されるので、テキパキと動くことができるのである。反対に、葵は人が変わったように愚鈍な動きをしている。
(私、いっつもあんな風に見えるのかな? そりゃ、イラつくかもね……)
愛乃がキッチンに戻ると、ちょうどオーブンからグラタンが出されてきたところだった。そこに、ほぼ同じタイミングで葵が入室してきた。彼女の存在に気が付いた愛乃の動きに同調して、葵の声が再生される。
「恵比島さん、これ十七番卓にお願いします」
葵の顔付きが変わる。この先の展開を察した彼女は、踵を返してキッチンから逃走を図った。よほど焦っていたのか、葵はキッチンの出口に向かっていたバイト仲間に勢いよくぶつかった。彼の手には、煮えたぎるスープバーの鍋が抱えられていた。
「ぎゃああああああ!!」
宙に浮いた鍋の中身が、バランスを崩した葵に襲い掛かる。彼女が熱さにのたうち回っているうちに、周囲の時間が流れを止めた。それと同時に、対峙する二人の間をちょうど塞ぐ空間に光の粒子が集まり、次第に人型を帯びていく。光の塊が完全に固着したとき、見覚えのある少女がそこに姿を現した。
「以上で、プログラムは終了となります。お疲れ様でした。いかがでしたか、当プログラムの内容は?」
愛乃は、苦しむ葵に視線を遣った。
「そうね……正直、スッとしたかな」
「取山さん、あんた……!?」
葵が愛乃を睨み付ける。今にも怒りで爆発しそうな目だ。 そんな緊迫した空気もお構い無しに、先程現れた少女、キャンペーンガールは愛乃に向かって両手を差し出した。
「最後に、ご依頼主様にはこの先どちらの未来を選ぶのかをお選びいただきます。あなたをいじめた相手を許す未来か、それとも許さない未来か。どうか、ご依頼主様ご自身でお選び下さい」
少女のその手には、白色と黒色の二本の鍵が載せられている。愛乃はそれらの鍵と葵を交互に見比べていたが、すぐに首を傾げた。
「それにしても、わからないんですよねー。どうして恵比島さんが私に、そこまで酷く当たるのか。確かに自分が動き悪いのはわかったけど、こんなことされる理由にはならないですよね?」
「そんなこと、決まってるでしょ!? あんたが、伊納くんに馴れ馴れしいから!」
葵が吼える。愛乃は目を丸くした。
「え、それは伊納さんが私の指導担当……」
「私、伊納くんのことが好きなのよ! 邪魔させないわよ!」
目を血走らせて叫ぶ葵に、愛乃の表情がスーッと冷めていく。
「へえ、そうなんですか。たったそれだけの理由で私にあんなことを……!?」
愛乃は、少女に結論を伝えた。
「わかりました。私、恵比島さんのこと、許しません」
「かしこまりました」
キャンペーンガールは愛乃に、黒い方の鍵を手渡した。
「こちらを、その鍵穴にご使用下さい」
少女が愛乃の胸元を指す。彼女が示す先には、いつの間にか鍵穴が現れていた。だが葵への雪辱を目前にした愛乃には、自らの身体に鍵穴が空いたことなどどこ吹く風のようだ。
「私だって、熱かったんだから! その報い、受けてもらうからね」
愛乃は一気に鍵を突っ込み、それを一捻りする。一瞬のうちに、彼女の世界は暗転した。
目を覚ますと愛乃は、自分のアパートにいた。スマートフォンを手に取り日時を確認してみると、不思議な出来事の翌日であるらしい。その日も朝からシフトが入っていることを思い出した愛乃は、気もそぞろにアルバイト先に向かった。
開店準備に取り掛かった愛乃は、ふと葵の姿が見えないことに気が付いた。彼女もまた、この時間からシフトが入っているはずだ。嫌な予感を覚えた愛乃は、付近で作業をする颯に近づいた。
「あの、恵比島さんって今日、お休みですか?」
「ああ、取山さんは昨日休んだから知らないんだっけ」
颯は急に声を潜めた。
「彼女、熱いスープを被ったんだよ。今、病院にいるって」
愛乃は思わず、片腕を押さえた。火傷を負ったはずの腕は、目が醒めたらきれいになっていた。
(昨日の、夢じゃなかったんだ……)
冬でもないのに、愛乃の全身がゾッと冷える。しばらくの間彼女は、自分を温めるように腕を擦り続けていた。
なんとかその日の勤務を終え、愛乃はロッカー室を出た。従業員出入口に向かう通路で、誰かが愛乃の肩を叩く。振り向くと、そこには颯がいた。
「お疲れ様でーす。あ、伊納さんも上がりですか?」
「そ。それより取山さん、ちょっといいかな?」
颯が外を指すジェスチャーをする。どうやら、何か話があるようだ。愛乃が頷くのを確認して、颯は彼女を従業員出入口の脇に誘導した。
人目につきにくい場所に出たところで、颯は真面目な顔で本題を切り出した。
「実は俺……前から君のこと、気になってたんだ。良かったら、付き合ってくれないかな」
颯の精悍な眼差しが、愛乃を見詰める。少しの沈黙の後、愛乃は微笑んだ。
「はい、よろしくお願いします」
歓喜にはしゃぐ颯が、愛乃を固く抱き締める。颯の胸の中で、愛乃は密かにほくそ笑んだ。
(正直、伊納さんってイケメンだけど好みじゃないのよね……。でも、これを恵比島さんが知ったら、どうなるかなー♪)
愛乃と颯が付き合いはじめてから、一ヶ月後。退院した葵が仕事に復帰した。一月のブランクもものともせず、相変わらず良い働きぶりだ。充実感に満たされてシフトを終えた葵は、ロッカー室の前で親密そうに話している愛乃と颯に目が釘付けになった。
(この二人、今は休憩中のはず……!)
頭に血が上った葵は、迷わず二人に目掛けて突進した。
「ちょっと、取山さん!? 何でそんなにくっついてるのよ!」
敵意を剥き出しにした葵を、颯の腕が阻む。愛乃を守るようにその肩を抱いた颯は、迷惑そうに眉をひそめた。
「何でって、俺ら付き合ってるし……」
「………………っ!!」
みるみる顔色を失っていく葵を、愛乃は颯の腕の中で見届けた。胸の中がスカッと晴れていくようだった。
次に愛乃が出勤したとき、同じ時間帯にいるはずの葵の姿はなかった。
「恵比島さん、辞めたんだって」
バイト仲間からそう伝え聞いた愛乃は、思わずその花のような笑顔を綻ばせた。これで、もう怖い思いをせずに済みそうだ。安堵感で、胸が満たされていくのを感じた。
葵が目の前から消え、愛乃にとって平穏な毎日が訪れた。打算のためとはいえ彼氏もでき、バイト仲間も毎回優しくフォローしてくれる。
不思議な出来事から一か月後の休日。愛乃は上機嫌で、クローゼットを開いた。今日は颯とデートの約束があるのだ。颯はイケメンな上に、自分にとても優しい。街ゆく女性たちの羨望の眼差しを想像して、愛乃は心を躍らせた。
楽しいことをしている間は、時の経つのが早い。あっという間に夜も更け、愛乃と颯の二人は手に手を繋いで夜道を闊歩していた。紳士的にも颯は、愛乃を家まで送り届けようというのだ。人通りの疎らな横路を進む二人は、突如交差点の陰から飛び出てきたものにその進路を阻まれた。ギョッと目を剥く二人の見詰める先には、ひどく目の据わった葵の姿があった。その手には、何か光るものが握られている。
――包丁!?
目の前の危機に認識が追い付くと同時に、颯がとっさに愛乃の前に出た。彼の背に隠れていた愛乃は、そのすぐ近く――それも十センチほどの距離で――くぐもった音を聞いた。次いで、ゆっくりと颯が崩れ落ちる。
「い、伊納さん!」
慌てて駆け寄るも、颯は既に虫の息だ。近寄る気配に顔を上げた愛乃は、虚ろな瞳でこちらを見据える葵と目をかち合わせた。その手の中で、血に濡れた包丁が妖しく光った。
薄暗い住宅街の小路を見下ろす上空に、「いじめ撲滅キャンペーンガール」はいた。眼下の路地に話し掛けるように、少女は誰かを諭す。
「これが、ご依頼主様の選ばれた未来です。飢えている者の前で、これ見よがしにパンを齧るような真似をすれば、それが身を滅ぼすこともあるのですよ。どうか、お気を付け召されませ……」
少女は一礼の後、上空に現れた黒いドアの中に消えた。その扉が完全に夜闇に溶け込んだとき、足下の路地で真っ赤な血飛沫が上がった。




