偏食家ニィトの試食歴
愛してほしい、ときみは言った。
夕暮れの公園で、誰にともなく、つぶやいた。
カラスが一羽、あざ笑って、涙ぐむきみにフンを落とした。すぐわきに現れた白い痕跡を、きみは、ぼんやりと見下ろして。それからまた、愛してほしい、とつぶやいた。
だれでもいいから。
なんでもいいから。
悲痛にゆれる声を、風と僕だけが聞いていた。
ひとりぼっちで、きみは笑う。泣けないかわりに、いびつに笑う。
――たすけてあげようか。
なんの気なしにこぼした言葉を、きみは、耳ざとく拾いあげて。乾いた涙に濡れた眼を、ゆらゆらゆらゆら揺らしながら、僕を探した。
ねぇ、たすけてほしい?
もういちど。こんどは、耳もとに吹きこむように。ささやく。甘やかに香りたつ誘惑を、風にまぎれてそっとさしだした。サァ――と顔を青ざめさせたきみは、右へ左へ、視線を投げて。安っぽいベンチから、飛びあがるように前へ逃げた。
愛されたいんでしょう?
くすくすくすくす笑いながら、僕は、きみに語りかける。どこにもいない僕を探して、きみは、怯えたように頭をふる。震えている。寒さではなくて、きっと恐怖。きみは、怖がっていた。ほかでもない、この僕を、恐れていた。
孤独に怯えていたちいさなウサギの心が、僕で埋まる。すくみあがった少女をみつめて、僕は、ペロリと口のまわりを舐めた。
目の前がゆれるくらい、高揚している。空気がおいしい。かわいい獲物の震えが、僕にまで伝わってくる。からっぽだった感情が、色づいた。青紫。怯え、恐怖、それから、――期待。ほんのすこしまざった暖色が、僕をますます興奮させる。
「だれ?」
だれもいない空間に、きみは、おずおずと指先を伸ばして。手さぐりに腕を上下させながら、必死で僕の影をつかもうとしている。かわいいなあ。怯えておどる子ウサギは、いつだって、とってもかわいい。だから、手をださずにはいられない。
「だれか、いるんでしょ?」
震えを精いっぱい押しころした、ピンと張りつめた糸のような声で、きみが問う。僕は答えずに、安っぽい木製のベンチにむけて、めちゃくちゃなジェスチャーゲームをするきみを、みつめていた。だけど、あんまりおもしろかったから、ついつい笑い声が漏れてしまって。やっぱり耳ざとく聞きつけたきみが、後ろに一歩、遠ざかる。
ああ、しまったなあ。ウサギの耳は長いから、気をつけていないと。あんまり彼らに介入しすぎると、上がうるさいんだけど。
感情の色は、青紫。うすく透けていた、その色が、どんどん密度をまして、むわりとただよう。こわいこわい。だけど、ひょっとして。たくさんの不安と恐怖と、捨てきれない期待と。比率はそのまま、濃くなっていく。いい色だ。もうすこし赤みが差したなら、僕の好みでいう『食べごろ』になる。
だから、僕は、もうすこし餌をまくことにした。
たすけてあげるよ。わがままな子ウサギ。愛されたいのに愛したくない。臆病でズルい子ウサギ。きみには僕を愛せないから。
僕は、姿を消したまま、立ち尽くす少女の手をとった。生白い指先を、ひとつひとつもてあそんで、くすぐったそうに身をよじるきみに、爪をたてた。
途端に、バッと手を引いて、子ウサギは、また一歩逃げる。爪痕のついた手の甲を、信じられないようにみつめて、もう一方の手で覆い隠すように胸もとへとひきつける。ゆらゆら、ゆらゆら、涙よりも言葉よりも雄弁に、瞳が語る。
きみには、僕は、愛せない。愛させてあげない。
きみの後ろにまわりこんで、髪の毛をひと束、すくい上げる。ひとりでに浮く奇妙な感触に、きみは、ますます怯えて身をちぢこまらせた。まずまずの柔らかさ。可もなく不可もなし。髪にかかわらず、子ウサギ全般にいえることだけど。
「どうして……?」
ぶるぶると震える少女のうなじに、そっと口づける。ギュッと握られていた手のひらが、すぐにほどかれて飛んでくる。でもそのころには、とっくに僕は離れていた。確認するように、なんども首の後ろをこするきみを、僕は、笑いながら見物する。
かわいそうな子ウサギ。
だれにもみつけてもらえなくて、さみしくて死んでしまいそうなのに、みつかりそうなったら必死で逃げる。みつかりたくないのにみつけてほしい。このウサギはとても、わがままだ。
だから、とても、おいしそう。
仲間内では、僕は、ゲテモノ喰らいで有名だ。趣味がわるいと言われても、おいしいものは、おいしい。清廉な魂も、淀んだ怨念も、僕の舌には、どうにもあわない。おいしくないものは食べたくない。仕事もせずに寝てばかりいる僕は、人まねをしてニィトと呼ばれている。
僕はグルメなんだ。簡単に妥協したくはないから、中途半端な人間には手をださない。手をだすと決めたなら、なにがなんでもむしゃぶりつくす。
目の前には、ひさしぶりにみつけた、好みの食材。とっておきに化けそうな気配がただよっていて、いまから僕を唸らせる。逃がしたくないなあ。
この辺りは、厳密にいうと僕の管轄じゃないから、手をだしたらまずいだろうか。いやいや、でも、僕の管轄領域なんて、あってないようなものだ。ここで獲物を見送ったら、それこそマズイ。食べたくもないものを食べる羽目になる。それはいやだ。
とどのつまり、僕はわがままなのだ。子ウサギなんか目じゃないくらいに。ひとつちがうのは、僕は僕がわがままであることを、よーく自覚しているし、周りもみんなわかっている。そして、ほとんどのケースで、僕のわがままは仲間と衝突しない。
好きこのんで『青紫』を食べたがるやつは、すくないのだ。みんなが好むのは、陳腐な赤や橙。変わり者でも、黒か白。たまに、青が至高なんていうやつもいるけど、わかってないにもほどがある。ほんのすこしにじむ薄紅の酸味こそが、最高なのに。
わからずやの同僚をこきおろしているうちに、子ウサギの色が変わってきてしまった。濃緑がむしばんで、絶妙な風合いを濁らせていく。これはまずい。僕はあわてて、少女の前に姿をみせた。
――もちろん、上にばれたら大変なことになるけど、別に構いやしないだろう。
少食な僕は、超低燃費で、ちょっとやそっとのペナルティなど痛くも痒くもない。むしろ、僕を下手に拘束すると、青紫の回収役がいなくなって、かえってこまった事態になるのだ。偏食、ここに極まれり。
ふふん、と胸を張った僕を、子ウサギは、声も出せずにみつめていた。そりゃあ、そうだろう。この麗しの肢体を前にして、言葉なんか出るはずもない。自慢げに尻尾をゆらすと、ついでにヒゲがぴくぴくと動いた。
「ね、ねこ……?」
子ウサギは、ぽかーんと口をあけて、僕の姿をみつめている。ただの猫とあなどるなかれ。みよ、この優美な翼を! 透きとおった自慢の薄羽をパタパタと羽ばたかせると、少女は、よりいっそう大きく口をあけて固まった。
僕の魅力のまえにひれ伏している子ウサギは、それはもう哀れなほどにプルプルと震えて――。
「ッかわいい!」
「ミギャ!?」
ちょっと、冗談じゃない。いまの声は麗しくない。っていうか、……ああ! 僕の毛並みが! 芸術品のごとき毛皮が、わしゃわしゃとかき混ぜられて無残にみだれる。さいあくだ。子ウサギのくせに。
めいっぱいの抗議をこめて、シャア、と歯をむき出しにして威嚇する。それでも離れていかない子ウサギの指を引っかいて、僕はあわてて距離をとった。
薄羽をはばたかせて、ふよふよとただよう。
ちょうど、子ウサギの目の高さに陣どって、僕はギンとにらみ据えた。
「ちょっと、許可なく僕の毛並みにさわるなんてどうかしてるんじゃないの? 子ウサギのくせに!」
「しゃべった!?」
「失礼な! きみ、僕をなんだと思ってるのさ! 子ウサギのくせに!」
「な、なにって、……え? え?」
「だぁああもうイライラする! はきはき答えなよ。この僕が聞いてるんだよ? 子ウサギのくせに!」
「あの、……」
「子ウサギのくせに!」
おもいっきり叫んでから、僕は、ハッと我に帰った。
目の前には、まんまるに目を見開いた子ウサギ。ふわふわと漂う感情の色は、桜によく似た淡い薄桃――。
ああああああ、僕の馬鹿ぁあああああ!
「なんでよりにもよって恋慕なの!? あまったるい綿菓子なんてまっぴらごめんなんだよ! ていうかきみ現金すぎ! 変わり身はやすぎ!」
「ええぇ……ごめん、ね? 私、すごく猫好きで……さ、さわっていい?」
「もうきみに用なんかないんだよ馬ぁあああ鹿! レンレンにでも喰われちゃえぇええ!」
伸びてきた子ウサギの手から逃れて、パッと姿を隠した僕は、故郷にむけて一目散に天を駆け昇っていった。
空腹なんてどっかにぶっとんだ。なんていったって、僕は美食を極めた偏食家ニィト。青紫以外に胃袋をくすぐるモノなんてない。
……でも、食べたかったなあ。
*
「うわぁああん」
「また食べそこねたのか、ニィト」
「れぇんれぇんー……」
「お前、いい加減に捕食する努力しろよ。すこし赤みさしてんのが好きなんだろ? なにも完全な青紫じゃなくても」
「甘党のレンレンにはわかんないんだよ! なんともいえない苦みこそ至高なの! ゲテモノ一歩手前で踏みとどまった絶妙なバランス! 陳腐な暖色系とは全然ちがうの!」
「……まあ、個猫の嗜好には口出さねーけどよ、体良く利用されてんの気づいてるか? ニィト」
ぐずぐずと泣きわめく同僚をみつめながら、レンはやれやれと首をふった。
もっぱら恋情を狩っているレンとはちがい、ニィトの獲物はとても限られている。というより、まず自然には発生しないものだ。
だからこそ、ニィトには、管轄領域がない。役割分担から外れた場所で、自由気ままに狩をしている――と、本猫は思っている。
じっさいのところは、すこしちがう。
ニィトは、青紫を至高だと讃えながら、天然物の青紫を捕食できたためしがない。
偏食ゆえに、こだわりが過ぎて、天然未加工品では満足できないのだ。ちょっかいを出して、感情を操作しては、結果的に『青紫』を回収してしまうのだ。
だれも手を出したがらない不良物件に、勝手に手をだして、だれもが手を出したがる優良物件に変えてしまう。
だから、ニィトは、よほどのことをしても咎められない。そういう特別扱いが適応される。……本猫は、偏食が認められてのことだと思っているようだが。
刹那的な変化でもかまわないのだ。ニィトが放り投げた直後には、監視役がペロリと平らげにいくのだから。
そもそも、監視役がいること自体、ニィトはしらない。
「まあ、……がんばれよ」
実のところ、どんな管轄領域より人気が高いのが、ニィトの監視役――という名の美味しいとこどりの役職だ。見た目の愛らしさもあいまって、ニィトは、すっかり同期のアイドルと化している。
「ふん。こんどこそ、天然物ゲットしてやるんだから!」
裏で熾烈な相方争いがくり広げられていることなど梅雨しらず、偏食道をつき進む幼なじみを、レンは生温かく見守っていた。