28 お嬢様と勇者の歴史
中央神殿の図書館の蔵書数は、グランシルド最大であると言われている。
普段は、多くの神官が学びのために出入りしている場所だったが、災厄が迫りその戦いの準備に追われている今、暢気に本など読んでいるのは、場違いな存在の貴族令嬢ぐらいなものだ。
改めて自分の存在をそう定義して、リーアは大きなため息を吐いて分厚い本を閉じた。
『グランシルド創世と勇者の戦いの歴史』
神が楽園を守る盾としてグランシルドを創り、人に災厄と戦うための力として勇者の剣を授けたという創世の神話。そして、初代勇者から第百五十六代勇者までの戦いの記録がそれぞれ一冊ずつの本となって、見上げるような高さの本棚を埋めている一角がある。
リーアの指定席は、その前にある机だった。
灼熱の夏があり、厳寒の冬があり、干ばつがあり、大洪水があり、地震があり、津波がある。そして、未熟な民は人間同士殺し合い、土地を奪い、土地を荒らし、空気を汚し、水を毒に変え、街を焼き、その責任を押し付けあっているという。それが、楽園――。
その楽園を守るために、グランシルドは存在する。一年中気候は穏やかで、地域差はあっても人が飢えることもなく、四つの国は互いに争うこともなく安らかに暮らしている。約二十年に一度の災厄を除いて。
二千年以上も前に綴られたその歴史書には、……勿論それは原本ではなく閲覧用に書き写されたものだったが……、こう書かれている。グランシルドは、未熟な楽園の民が成熟するまで、父母のごとく守る存在なのだ、と。
まるで、グランシルドの民を納得させるためのこじ付けみたいじゃない。
そうは思っても、創世の歴史を経典に神を祭る神殿、しかもその最高峰の中央神殿でそんな本音を口に出すほどリーアは馬鹿ではない。
けれど、どうしても思ってしまう。
なぜ、楽園を守るために、グランシルドの民はこんなに犠牲を払わなければならないのか、と。
百五十七冊の分厚い本を読破、はさすがにできない。リーアは、第百五十代勇者の時代までの戦いを潔
に纏めた本が別にあったので、それを読んでいた。簡潔といっても、百五十回分の災厄の記録なので、一回分が二頁だとしてもかなりの厚さがある。
第七代勇者は、父と叔父が勇者の座を巡って争い、双方が相討ちという形で亡くなってしまったため、若干十四歳という若さで勇者となったこと。
第十五代勇者は、女性が勇者となることに賛同しなかった最高神官長を納得させるため、勇者の剣を持たずに三日間セントリア山脈にある砦に籠もって魔物と戦ったこと。
第五十九代勇者の戦いの際には、大陸中央の森林が災厄の瘴気によって枯れてしまい、以来不毛の大地と化してしまったこと。
第百八代勇者の時代には、中央神殿の南にあたる大陸中央に巨大な地割れが起こり、災厄の後に雨水が溜まって池ができたこと。その池は今では巨大な湖になっている。
第百三十一代勇者の時には、湖沿岸の村に瘴気に汚染された湖水が侵食し、井戸が汚染されて、それを知らずに井戸水を飲んだ住民が多数犠牲になったこと。今日までに、湖に飲み込まれたり瘴気に汚染されたりして、滅んだ村は大小二十を数える。
それでも、災厄が収まると、人々は故郷である土地に戻ってくる。例えそこが、魔物に食い荒らされて誰もいなくなった村であっても。
リーアは頬杖を着いて、小さな吐息を落とした。
災厄によって魔物が噴き出してくる中心は、大陸中央の湖付近だ。地揺れと共に地面が裂け、その裂け目から魔物が地上に湧き出てくる。湧き出た魔物は、蜘蛛の子を散らすように地上を走り、楽園へとつながる聖なる山セントリア山を駆け上がろうとする。それを阻止するのが勇者の役目だ。
だが、魔物の全てが楽園だけを目指す訳ではない。大多数が人間の血を求め、グランシルド各地に散っていくという。
イストラートの王都は大陸中央から遥かに遠く、しかも高い城壁に囲まれてはいるが、過去幾度も魔物が出現し、犠牲者も多数出ているという。災厄が本格的に始まれば、グランシルドに完全に安全な場所などない。
「そういえば、セシルおじい様がアンネさんの旦那さんに、もっと大きな壕を掘れとか言ってたわね……」
「へえ、親父が?」
突然、背後からそう声がして、リーアは腰を抜かさんばかりに驚いた。
「……父様!」
「ああ、すまんすまん。驚かすつもりはなかったんだ」
そう言って指先で頬を掻くオズワルトの目はまるで少年のように輝いている。驚かせる気が満々だったのは明白だ。
「親父、元気だったか?」
そう訊かれて、リーアはふと思った。父は、もうどれだけ長い間故郷を離れ、自分の親や兄弟に会っていないのだろう。ジェイク・ハノンに見つからないように、アークラッド地方にはもう長い間足を踏み入れていないに違いない。
「とっても元気だったわよ。父様のこと、一応生きているのか、って言ってたわ」
「はは。親父らしい」
「それでね。私がどうしてアークラッドに来たのか理由を言ったら、情けない、わしが勇者になる! って私から勇者の剣を力ずくで奪おうとしたんだから」
オズワルトは大うけして、言葉も出ないくらいに腹を抱えて笑いこけた。
「従姉妹のアンネさんが言ってた。おじい様が余所の畑のことにまで口を出すから、肩身が狭いって。私達が始めておじい様に会った時も、農作業に向かう村の人達に、作物を植えても無駄だって喚いてたのよ」
「……変わってないな、親父も」
オズワルトは笑い過ぎたせいなのか、目尻に滲んだ涙を指の先で拭った。その表情からは、彼の父や故郷に対する愛情が感じられた。それなのに、その大切なものを捨ててまで、彼は一体何を選んだというのだろう。
「ねえ、父様。お兄様のことを教えて」
「え?」
「どんな人だったの? どうして、お兄様のお母様とは正式に結婚していなかったの? お兄様の出生届を神殿に出さなかったのはどうして?」
オズワルトは、遠慮のないリーアの質問に面食らったというよりは、その問われた内容に訝しげに眉を顰めた。
「誰がそんなことを言った?」
「え? ……えーっと」
それはお兄様が……と言おうとしてリーアは口を噤んだ。そう、彼は何者であるかは分からないが、本物のエドガルドではないことは確かなのだ。
「アリアナとは、正式に婚姻を結んでいた。一年後にエドガルドが産まれ、すぐに神殿に届出も出した。勇者の系図にその名がなかったのは、亡くなったということでとっくの昔に削除されたのか、災厄の前後のゴタゴタに紛れて記載されず仕舞いだったのか。そういうことは稀にあるそうだ」
そうだったのか、とリーアは父の少し怒ったような顔を見上げた。きっと、あの偽お兄様はエドガルド・ガードナーの名が勇者の系図にないことを知って、慌てて嘘を吐いたのだろう。
「エドガルドは可愛い子だった。母親に似て利発で、男の子のくせに良く喋って。最後に会ったのは、三歳半の時だったかな。災厄との戦いに赴く直前に、伯父と一緒に村に立ち寄ったんだ。あの子は勇者の剣を見て大喜びしていた。次の災厄の時には、自分が勇者になって母さんを守ってあげるんだって」
そう語るオズワルトの声が、ほんの僅かに揺らいだ。
「勇者になったら、自分の家族を守ることなんてできないのにな」
語尾が震えるのを必死で抑えているようなその父の声に、リーアは唐突に、ずっと昔のある場面を思い出していた。
『ねえ、父様。何をしているの?』
小さなリーアは、父が広い庭の片隅をせっせと掘り返しているのを見つけて駆け寄った。それに気付かずに、父はシャベルに盛った土を勢いよく背後に放った。頭から土を思いっきり被ってしまったリーアは、悲鳴をあげて泣き出した。
『ああ、リーア。そんなところにいたら危ないだろう』
頭から土を被って泣き出したリーアを、父は軽々と抱き上げ、片手で顔や服についた土を払い落としてくれた。
父の大きくて温かな腕に抱かれ、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻したリーアは、父の足元に開いた穴を覗き込んだ。穴は、リーアがしゃがんで入れるかどうかほどの深さだった。
『どうして、穴を掘っているの?』
リーアが訊くと、ん? と首を傾げた父の目は少し潤んでいるように見えた。
『これはね。いざというとき、リーアと父さんと母さんが、恐ろしい魔物から隠れるための穴なんだよ』
『……まもの?』
『そう。魔物は地面の中から這い出してきて、地面の上にいる人間を襲うんだ。けれど、地面の中に隠れた人間には気付かない。仲間だと思うんだろうね』
『そうなの……?』
『そうだよ。だから、父さんは穴を掘っているんだ。お前と母さんを守るためにね』
……なぜ、今まで忘れていたんだろう。
リーアはゆっくりと息を吐き出した。
父がいつも手入れをしているフレイル邸の庭の奥。家事に忙しいリーアが最近踏み込んだことのないその一角に、十年以上も前から父が何を作り続けていたのか。
楽隠居を決め込んで、庭弄りをしていたのではなかった。
壕を作っていたんだ。セシルおじい様が、アンナさんの旦那さんに作らせていたみたいに。
父が結婚後、仕官もせず、隠棲したように暮らしてきた理由も、勇者になることを頑なに拒み続けていた理由も、全て分かったような気がした。
仕官すれば、オズワルト・ガードナーがオズワルト・フレイルとなってイストラートにいることが公になる。居場所が知れたら、ジェイク・ハノンから勇者の剣を突き返される。そして、勇者として戦いに赴けば、家族を守ることができなくなる。
自分が傍にいない間に再び家族を失うことを、父は恐れていたのだろう。だから、再び家族を得た父が、こう決心したとしても不思議ではない。
何があっても、自分は絶対に勇者にはならない、と。
そしてその夜。激しい揺れが、大陸中央を襲った。
寝台から放り出されそうなほどの揺れで飛び起きたリーアは、何が起きたのか直感的に感じ取って愕然となった。
勇者もいない、勇者の剣もない、各国の軍は勇者からの呼びかけもなく集結していない。そんな状態で、災厄が本格的に始まってしまったのだ。
これほどの危機を、グランシルドはまだ迎えたことがなかった。




