⑩ お嬢様と我儘男
「……申し訳ございません」
三度目にレイルがそう言って項垂れた時、リーアは息を吐き出すように笑って、もういいわよ、と首を横に振った。
「ありがとう、レイル。あなたが割って入ってくれなければ、私はこの手であの脂ぎった頬っぺたを引っ叩くところだったわ。触れるのも嫌だったけど、何よりグッテンハット家の子息に手を上げたなんてことになったら、どんな社会的制裁を受けるか知れないもの。本当に助かったわ」
あのギトギトした顔の油が手に着いていたかと思うと、今更ながらにぞっとする。
「でも俺は、……あのブタ野郎がお嬢様に失礼なことを言ったり、手を握ったり髪に触れたりするのを、黙って見ているしかありませんでした」
レイルの手綱を握る手に力がこもるのが分かった。
リーアはレイルが騎乗する馬の鞍の前に相乗りしていた。
乗ってきたエリクス家の馬車は、具合が悪くなったウェラルドを乗せて戻っていってしまったままだった。更に、グッテンハット家に馬車を貸して欲しいなどと言える状況ではなく、迎えの馬車がくるまで待てる状況でもなかったので、レイルがエリクス家から借りて乗ってきた馬に二人で乗るより仕方がなかったのだ。
「でも、レイルは私を助けてくれたじゃない」
「……え?」
「あの状況で、私があいつを叩こうと手を挙げてから割り込んできてたんじゃ、間に合わなかったでしょ?」
リーアが見上げると、レイルは悪戯を見透かされた子どものような、ちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「……実は、あいつの腕をへし折ってやろうかと思いまして」
「……うそ」
「冗談ですよ。でも、本当にあの時は俺も頭が真っ白になってしまって、お嬢様の手が俺の頬に当たらなかったら、何をしていたか分かりません」
その声には、冗談ではない響きが含まれていた。
「……でも、折角ここまでしてもらったのに、ウェラルドさんに何て言えばいいのかしら」
リーアはため息を吐いた。
或いは、彼が体調を崩して自宅に戻りさえしなければ、アルジャーノがああまで暴走することもなかったのだろうが。
結局あの後、給仕をしていた侍女が悲鳴を上げ、騒ぎに気付いた執事が食堂に飛び込んできた。
アルジャーノは豚が暴れまわるような奇声を上げ、リーアとレイルの悪口雑言を喚き散らした。痺れたように立ち尽くすリーアに代わって、事情を冷静にかつ正確に執事に申し上げたのはレイルだった。
『実は、私達がここへ来たのは、挨拶が目的ではありません。勇者の血筋であられるアルジャーノ様に、リーアお嬢様の代わりに勇者になっていただきたい、とお願いに参ったのです』
レイルは本人の目の前で、全てのタネを明かしてしまった。正面切って名家に取引を持ちかけた挙句、レイルは更に追い討ちをかけた。
『名門グッテンハット家のご子息が、まさかか弱い十五のお嬢様の細腕に、勇者の任という重荷を背負わせたままにはなされないでしょう。それとも、勇者リーア・フレイル様に対し娼婦のごとき扱いをなさったという汚名をお被りになられますか?』
執事は表情を取り繕ってはいたが、殺意さえ感じさせるような鋭い視線をレイルに向けた。
『……グッテンハット公爵家のご子息を、脅迫するのですか』
『失礼をなさったのはそちらのご子息です。口封じをなさりたいのなら、どうぞ。勿論、我々がこちらに伺ったことは、エリクス伯爵家の方々もご存知ですので、我々が無事に戻らなければどう判断されるかは明白でしょうが』
執事はぐっと拳を握り締めると、忌々しげにしゃくりあげるアルジャーノを見下ろした。
『アルジャーノ様。勇者の剣をお受け取りください』
『……っ……嫌だっ!』
『それではこの場が収まりません。どうか、お受け取りを』
『……フン』
深いため息が、執事の口から漏れた。
『それでは旦那様に全てを申し上げ、善処していただくより他はございません』
善処、とは一体どういう意味なのか。リーア達外部の人間には推して知るべしだったが、アルジャーノはその言葉に異常なまでの反応を示した。
『……分かったよ』
突き出されたアルジャーノの涙と鼻水に塗れた手に、リーアは顔を顰めながら勇者の剣を乗せた。
『では、勇者の剣の主となる、とおっしゃってください』
レイルの言葉に片方の眉を吊り上げたアルジャーノは、突然自棄を起こした。
今更ながら、格下も格下のフレイル家の使用人ごときに脅されていることに気付き、強烈な怒りを覚えたらしい。
『嫌だ! こんなもん、こうしてやる!!』
アルジャーノは勇者の剣を渾身の力を込めて投げ捨てた。
『何でボクが、世界を救うなんて危険で疲れること、しなきゃいけないんだ!』
その醜態を自らの身体で隠すように、執事はアルジャーノとリーア達との間に割って入った、
『あなた方が目の前にいらっしゃると、アルジャーノ様のご機嫌も治りません。勇者の剣についてはこちらで良しなに計らいますので、どうかお引取りを』
執事は丁重に頭を下げたが、その口調には、“出て行かなければつまみ出す”という絶対的な意志が含まれていた。さすが、名門グッテンハット家に仕える執事だけあって、仕える家の危機に際しての迫力は格が違った。
そして、リーアは一応、アルジャーノに勇者の剣を手渡した状態なのだ。
「一応、最後に剣に触れたのはあいつだし。あいつはあれでも一応、勇者の血筋なんだから、勇者の剣があいつを主だと認識してくれるといいんだけど」
「そうですね。グッテンハット家も、勇者になるようにあの男に圧力をかけるでしょうし。……でも俺は、あの男よりは断然、お嬢様が勇者になったほうがマシだと思います」
レイルはそう言ってしばらくお嬢様を褒めたつもりで満足げに微笑んでいたが、ふと自分の言ったことを反芻して過ちに気付いたらしく、申し訳なさそうに呟いた。
「……マシ……じゃなくて、……断然、お嬢様のほうがいいです。……お嬢様じゃなきゃ、駄目ですよ、やっぱり」
そのしどろもどろの言い方が可笑しくて、リーアは笑った。困ったように顔を赤くするレイルの腕の中で笑い続けるうち、リーアの目から涙が溢れ出した。
本当は泣き崩れたいほど自分が疲弊していることに、その時リーアはようやく気付いたのだった。




