龍神の花嫁
龍神の花嫁に選ばれることは、この国では古来より最高の名誉とされてきた。
人の世に溶け込みながら、長い年月をかけて日本の土地と民を守り続けてきた存在——それが龍神だ。目に見えない形で嵐を逸らし、大地の歪みを鎮め、疫病の広がりを食い止めてきた。人はそれを知っていたから、龍神を畏れ、敬い、特別なものとして扱い続けてきた。
龍神に花嫁として選ばれた家は、社会的な地位が上がる。周囲の目が変わる。そして選ばれた娘は、生涯守られる。
白瀬澪は、その話を物心ついた頃から聞かされて育った。
自分には関係のないことだと、ずっと思っていた。
妹の紬が選ばれるまでは。
―――
紬が龍神の花嫁に選ばれたのは、澪が高校二年生になった五月のことだった。
その日の夕食は品数が多かった。母が腕によりをかけた料理が並び、父は普段めったに開けない酒を出してきた。
「紬、本当によかったわ。お母さん、夢みたいで信じられない」
「白瀬の家から龍神の花嫁が出るなんて、先祖代々誰もいなかったんだぞ」
紬は頬を上気させながら、嬉しそうに笑っていた。
「ねえ、お姉ちゃんもおめでとうって言ってよ」
紬が澪を見た。その目に悪意はなかった。ただ、自分が祝福されていることを疑っていない、無邪気な目だった。
「おめでとう」
嘘ではなかった。ただ、その言葉が喉を通る時、何か小さなものが音もなく落ちた。
誰も気づかなかった。
その夜、澪は夕食の片付けを一人でやった。両親は紬の話を聞くのに忙しかった。
蛇口を閉めながら、澪は思った。
これが変わったのか、それとも元からこうだったのかが、自分には分からなかった。
―――
変化は、音もなく積み重なった。
夕食の献立が変わった。休日の予定が紬を中心に組まれた。母の視線は会話の途中で紬へ流れた。
ある夜、澪が模試の結果を持って居間に入った。志望校の判定がひとつ上がっていた。
「お母さん、ちょっといい?」
「紬の衣装合わせ、来週の土曜でいいかしら」
母は父に向かって話していた。澪の方を見なかった。
澪は模試の結果を手に、しばらく立っていた。
それから自分の部屋に戻り、引き出しにしまった。
翌日、花音に見せた。
「判定上がったじゃん」
「うん」
「お母さん喜んだ?」
澪は少し間を置いた。
「見せてない」
花音が澪を見た。何も言わなかった。ただ、自分の購買のパンを半分に割って、澪の方へ差し出した。
「食べな」
「いらない」
「食べな」
澪は黙って、受け取った。
花音は追及しなかった。それ以上何も言わなかった。
それが、澪には一番有難かった。
その日の帰り道、気づいたら祖母の家の前に立っていた。
「澪、どうしたの」
縁側に座っていた祖母が、澪の顔を見て立ち上がった。
「通りがかっただけです」
「そう。上がりなさい」
縁側でお茶を飲んだ。祖母は何も聞かなかった。ただ、隣に座っていた。
「おばあちゃん」
「何」
「私、ちゃんと見えてる?」
祖母がお茶を一口飲んで、澪を見た。
「見えてるよ。ちゃんと」
それだけだった。
澪はお茶を飲み干して、帰った。
家に帰ると、夕飯は澪の分だけ準備されていなかった。冷蔵庫にあるもので済ませて、部屋に戻った。
誰も気づかなかった。
――この時澪はまだ知らなかった。祖母が「ちゃんと見えてる」と言った意味を、後になって思い知ることになるとは。
―――
蒼牙と出会ったのは、五月の終わりの夕方だった。
図書館の帰り道、澪は一人で河川敷沿いを歩いていた。
ふと、空気が変わった。温度が下がったわけでも、風が吹いたわけでもない。ただ、世界の密度がほんの少し変わった。
振り返ると、男が立っていた。
背が高く、黒い髪が夕風に揺れていた。その目が、静かに澪を見ていた。
何の感情もない目だった。怖いとは思わなかった。ただ、その目に見られると、自分の奥まで全部見通されているような感覚があった。
「何か用ですか」
男は答えなかった。ただ、澪を見続けた。
「人を見つめるなら、名乗るのが礼儀だと思いますけど」
「蒼牙」
「苗字は」
「ない」
澪は少し考えた。
「龍神ですか」
男が、初めて微かに動いた。
「なぜそう思った」
「空気が違うから。それと、妹の花嫁神と似た気配がある」
「妹が花嫁に選ばれた姉か」
「そうです。白瀬澪といいます」
蒼牙はしばらく澪を見た。その目が、ほんの一瞬だけ、何かを確かめるように細くなった。
「お前は取り繕わないのか」
「取り繕う理由がないので」
「龍神の前で、そう言える人間は少ない」
「あなたが龍神でも、私には関係ないですから」
蒼牙の口の端が、ほんの僅か動いた。
「また来る」
「どうぞ」
それだけ言って、蒼牙は消えた。文字通り、消えた。
澪はしばらく、彼が立っていた場所を見ていた。川の音がした。夕風が吹いた。
また来る、と言われた。
なぜかその言葉が、引っかかった。
家に帰ると、食卓に澪の箸が置かれていなかった。
澪は自分で取り出して、席に座った。紬が母に今日のことを弾んで語っていた。誰も澪を見なかった。
澪は黙って、食事をした。
――後になって澪は気づく。あの時蒼牙が「また来る」と言ったのは、予告ではなかった。もう決まっていたから、言っただけだと。
―――
蒼牙は翌日も来た。同じ時間、同じ場所に立っていた。
「待っていたんですか」
「ああ」
「なぜ」
「お前に聞きたいことがある」
澪は足を止めた。
「お前は毎日一人でここを歩いている」
「友達は部活があるので」
「それだけか」
澪は蒼牙を見た。
「どういう意味ですか」
「家に帰りたくないから遠回りをしているのかと聞いた」
澪は少し黙った。
「そういう日もあります」
「今日は」
「……そういう日です」
蒼牙は何も言わなかった。ただ、澪の隣に立った。並んで川を見た。
責めなかった。慰めなかった。ただ、いた。
「龍神は感情がないと聞きましたけど」
「ない」
「なのに、なぜここにいるんですか」
「分からない」
澪は蒼牙を見た。
「分からないのに来るんですか」
「お前のそばにいると、何かが動く。名前がない。ただ動く」
澪は川に視線を戻した。
「変なことを期待しないでください。私は選ばれた側じゃないので」
蒼牙が澪を見た。
「誰がそう決めた」
「……状況が」
「状況が人の価値を決めるのか」
澪は返事ができなかった。
「俺には感情がない。だから余計なものが見えない。お前が見えている」
その夜、布団に入って天井を見た。
お前が見えている。
誰かにそう言われたのが、いつ以来なのか思い出せなかった。いや、そもそも言われたことがあったかどうかも、定かではなかった。
――読み返した時に気づく。この夜すでに、澪の中の何かが動いていた。本人だけが、まだ知らなかった。
―――
花音に蒼牙の話をしたのは、三日後のことだった。
「龍神が毎日会いに来てるの?」
「会いに来てるというか、いるというか」
「どっちも同じじゃん」花音がパンを齧りながら言った。「どんな人」
「感情がない」
「イケメン?」
「……たぶん」
「たぶんって何」
「そういうことを考える余裕がなかった」
花音が澪を見た。
「澪がそういうことを考える余裕がなかったって、相当だね」
「そう?」
「澪ってわりと冷静に人を見るじゃん。それが余裕なかったって、それだけ存在感があったってことでしょ」
澪は少し黙った。
「……そういうことになるのかな」
「なるよ」花音が断言した。「で、その人、澪のことどう思ってんの」
「分からないって言ってた」
「本人が」
「うん」
「正直だね」花音がまたパンを齧った。「でも分からないのに毎日来るって、もう分かってるじゃんそれ」
澪は返事をしなかった。
しなかったが、その言葉は午後の授業中もずっと頭の隅にあった。
――花音はこの時点で、澪よりも先に気づいていた。
―――
その夜、紬が澪の部屋に来た。ノックはなかった。
「ねえ澪、最近どこかに寄り道してるよね」
「図書館に行ってる」
「そうじゃなくて」紬が澪を見た。「龍神と会ってるんでしょ」
澪は手元の本から目を上げた。
「なぜそう思うの」
「瑞樹様が言ってた。上位の龍神の気配がこの辺にあるって」
「それが私と関係あるの?」
紬が少し眉を寄せた。
「お姉ちゃん、変なことしないでよね。私の立場もあるから」
「変なことって」
「龍神に関わること全部、今は私が中心じゃないといけないの。お姉ちゃんが何かしたら、私の花嫁としての評判にも関わる」
澪は紬を見た。
「私が何かした?」
「してないけど、するなってこと」
「分かった」
「分かってくれればいい」
ドアが閉まった。
するな、と言われた。自分が何かをしているわけでもないのに。
澪は本に視線を戻した。ページが、頭に入ってこなかった。
――この時紬はまだ知らなかった。「するな」と言った相手が、自分よりも上位の龍神の花嫁だということを。
―――
翌朝、朝食の席で母が言った。
「澪、最近帰りが遅いけど、何かあるの?」
久しぶりに母から話しかけられた、と澪は思った。
「特に何も」
「そう。紬が気にしてたから」
母の視線は既に紬に向いていた。
澪はトーストを食べ終えて、席を立った。
誰も引き止めなかった。
「今日は来るのが遅かった」
河川敷に着くと、蒼牙が先に立っていた。
「少し用があったので」
「何があった」
「なぜ分かるんですか」
「足音が違う」
澪は川を見た。
「妹に、龍神に関わるなと言われました」
「それで従うのか」
「従うつもりはないですけど」
「なぜ」
「私が誰と話すかを、妹に決めてもらう理由がないので」
蒼牙が澪を見た。その目に、いつもより濃い何かがあった。
「お前は折れないのか」
「折れる理由がないので」
「家でも、そうなのか」
澪は少し黙った。
「家では関係ないです。誰も見ていないので」
「俺が見ている」
澪は返事ができなかった。
「お前が折れない理由を、誰も知らないのか」
「……知る必要がないと思うので」
「俺は知りたい」
澪は蒼牙を見た。
「なぜですか」
「お前のそばにいると動くものに、少しずつ名前がついてきている」
「どんな名前ですか」
「まだ全部は言えない。ただ一つだけ言える」
「何ですか」
「お前がいない時間が、長い」
澪は俯いた。喉の奥に何かが詰まった。
泣く理由が、今度は分かった。
誰かに見ていてほしかった。ずっと。
―――
その週末、澪は祖母の家に行った。
縁側でお茶を飲みながら、全部話した。蒼牙のこと、両親のこと、紬のこと。
祖母は最後まで聞いた。
「その龍神は、澪のことが好きなんだね」
「そういうことを言ってるわけじゃないと思いますけど」
「言ってるよ」祖母が澪を見た。「お前がいない時間が長いって、それ以外に何があるの」
澪は黙った。
「あの子たちは昔から、澪に甘えてたんだよ」祖母が続けた。「澪がしっかりしてるから、甘えた。それだけのことよ。澪が悪いわけじゃない」
「でも」
「でも、じゃない」祖母が澪を見た。「あんたは十分よ。十分すぎるくらい、ちゃんとやってきた」
澪は庭を見た。
「おばあちゃんだけですよ、そう言ってくれるの」
「もう一人いるじゃないの」
澪は祖母を見た。
「その龍神が」
澪は返事をしなかった。
帰り道、足が少し軽かった。
―――
翌週、蒼牙が言った。
「俺の花嫁になれ」
夕陽が沈みかけていた。
澪はしばらく蒼牙を見た。
「……突然ですね」
「突然ではない。毎日ここに来ていた」
「それは求婚の準備だったんですか」
「違う。ただ会いたかった」
「では今日はなぜ」
「昨日、お前の母親がお前に言った言葉を聞いた」
澪は黙った。
「聞いていたんですか」
「聞こえた。龍神に人間の壁は関係ない」
「……何を聞いたんですか」
「紬の邪魔をするな、と。お前は何も言わなかった」
澪は川を見た。
「何も言うことがなかったので」
「違う」蒼牙の声が、わずかに変わった。「言えなかったんじゃない。言っても届かないと知っていたから、言わなかった」
澪は返事ができなかった。
「俺には感情がなかった。花嫁を見つけるまでは」
澪が蒼牙を見た。
「花嫁を見つけると、感情が生まれる。同時に、その花嫁を守れるだけの力が引き出される。理屈ではなく、存在が動く」
「……私が花嫁だと言いたいんですか」
「最初に会った時から、分かっていた」
澪は少し黙った。
「最初から」
「ああ」
「だから毎日来ていたんですか」
「来たかったから来ていた。理由はそれだけだ」
澪は俯いた。
最初から、分かっていた。
また来る、と言った時から。足音が違う、と言った時から。お前がいない時間が長い、と言った時から。
全部、最初から。
「私なんかが」
「澪」
初めて、感情のある声で名前を呼ばれた。
顔を上げると、蒼牙の目が変わっていた。感情がなかった目に、今は確かに、溢れそうな何かがあった。
「もう一度だけ自分を下に置いたら、俺は怒る」
「……龍神が怒るのは怖いですね」
「怖いか」
「少し」
「ならやめろ」
澪の肩が、小さく震えた。
「……少し、考えさせてください」
「ああ」
「答えが出るまで、来ますか」
「来る」
「毎日」
「毎日」
その夜、祖母に電話した。
「おばあちゃん、龍神に花嫁になれって言われた」
「で、どうしたいの」
「分からないです。でも」
「でも?」
「おばあちゃん以外に、初めて、ちゃんと見てもらえた気がした」
祖母がしばらく黙った。
「澪、あんたはずっと見られるべき子だったよ。やっと気づく人が出てきただけ」
澪は窓の外を見た。
「……はい」
「あまり考えすぎるんじゃないよ。あんたはいつも、考えすぎて自分を後回しにするから」
澪は少し笑った。
―――
答えを出したのは、三日後だった。
その日、学校から帰ると、母が玄関で待っていた。
「澪、ちょっといい?」
珍しいことだった。
「何ですか」
「瑞樹様から連絡があったんだけど」母が少し声を低くした。「最近この辺に上位の龍神の気配があるって。澪、何か知ってる?」
「知りません」
「本当に?」
「本当に」
母が澪を見た。どこか探るような目だった。
「澪が何かしてるなら、紬に迷惑がかかるのよ。分かってる?」
「分かっています」
「なら、変なことはしないでちょうだい」
母は居間に戻った。紬の声がした。母が笑った。
澪は靴を脱ぎながら、考えた。
変なこと、と言われた。自分が誰かに見つけられることが、変なことらしかった。
澪は部屋に荷物を置いて、河川敷に向かった。
蒼牙はいつもの場所にいた。
「来るとは思っていなかった。今日は時間が早い」
「答えが出たので」
蒼牙が澪を見た。
「花嫁になります」
蒼牙の目が変わった。溢れそうだった何かが、今度は確かに溢れた。
それは喜びと呼ぶものだった。感情を持たなかった存在が、初めて持った喜びだった。
「後悔させない」
「させたら怒ります」
「怒っていい」
「本当に?」
「お前が怒るところを見たことがない。見てみたい」
澪は少し笑った。
蒼牙が澪を見た。
「初めて笑った」
「そんなことはないですよ」
「俺の前では初めてだ」
「……そうかもしれないですね」
川を見た。夕陽が水面に広がっていた。
「一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「名誉のためとか、力のためとか、そういう理由なら私はお断りします」
「理由は一つだ」
「何ですか」
「お前がいい」
澪は俯いた。頬が熱かった。
「……龍神が言う言葉じゃないですね」
「俺が言っている」
「感情がないんじゃなかったんですか」
「お前のせいでできた」
しばらく沈黙があった。川の音がした。
「蒼牙さん」
「何だ」
「私の家族は、育ててくれました。それは感謝しています」
「ああ」
「でも、見てはいなかった」
「知っている」
「これからも、見てもらえないと思います」
「知っている」
「それでも私は、やり返すつもりも、恨み続けるつもりもないです。ただ」
「ただ?」
「戻るつもりもないです」
蒼牙が澪を見た。
「それでいい」
「怒らないんですか。もっと怒れとか」
「お前のやり方で十分だ。やり返さなくても、戻らないことが答えだ」
澪は少し黙った。
「……そうかもしれないですね」
その夜、食卓で両親に言った。
「報告があります」
両親が澪を見た。珍しそうな顔をした。
「龍神の花嫁になることになりました」
静寂。
「……何を言ってるの」母の声が上擦った。
「龍神に花嫁として選ばれました。紬とは別の龍神です。この国の龍神の中で最上位に位置する方です」
母が立ち上がった。
「それって、うちの家の格が……」
「それは龍神が決めることなので、私には分かりません」
紬が澪を見た。
「……なんで澪が」
澪は紬を見た。怒りはなかった。
ただ、その言葉の意味が、紬には一生分からないだろうと思った。
「私にも分かりません。ただ、選ばれました」
澪は席を立った。
「今後のことは追ってお伝えします。ごちそうさまでした」
「ちょっと待って、澪」
「今日は疲れたので」
「でも」
「おやすみなさい」
部屋に戻って、祖母に電話した。
「おばあちゃん、両親に言いました」
「どうだった」
「なんで澪が、って顔をされました。紬に」
祖母が少し笑った。
「で、お母さんは」
「格が上がるかどうか聞いていました」
祖母がまた笑った。今度は少し長かった。
「澪、よくやったよ」
「何もしていないですよ」
「それでいいの。あんたは何もしなくてよかった。ただ、自分のところに来てくれた人を受け入れただけ。それで十分よ」
澪は窓の外を見た。夜の川が、遠くに見えた。
「おばあちゃん」
「何」
「最初に聞いたこと、覚えてますか」
「何を」
「私、ちゃんと見えてる、って」
祖母が少し黙った。
「覚えてるよ」
「あの時おばあちゃんが見えてるって言ってくれたから、今日まで来られた気がします」
祖母はしばらく黙っていた。
「澪」
「何ですか」
「これからは、おばあちゃん以外にも見てくれる人がいるから」
澪は受話器を持ったまま、窓の外を見た。
泣かなかった。泣く必要がなかった。
ただ、長い時間をかけて冷えていたものが、静かに溶けていくのが分かった。
電話を切って、窓を開けた。
夜風が入ってきた。川の音がした。
明日も、蒼牙がいつもの場所にいる。
それだけで、十分だった。
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