後日談 三 十年後の針
朝の空気は、十年前とあまり変わらない。
店の前の通りを掃く音。
荷車の軋む音。
パン屋の扉が開く音。
エリーは窓を開け、作業台の前に座った。
糸を針に通す手つきは、以前より少しだけゆっくりだ。
だが迷いはない。
今日の最初の仕事は、外套の修繕だった。
背中の縫い目が少し開いている。
「長く使われてますね」
客が笑う。
「十年くらい前に仕立てたものなんです」
エリーは縫い目を確かめる。
布はまだしっかりしている。
少し手を入れれば、まだ着られる。
「直しますね。もう少し楽になるように」
客は驚いた顔をした。
「これ以上?」
エリーは小さく頷く。
昼過ぎ、店に若い職人が訪ねてきた。
遠い都市から来たらしい。
「この店の仕立てを、一度見てみたくて」
オーナーが椅子を勧める。
「珍しいものはないぞ」
若い職人は店の中を見回した。
広い店でもない。
道具も特別なものではない。
作業台と、布と、針。
その前で、エリーが静かに縫っている。
「……思ったより普通ですね」
若い職人が言う。
オーナーは肩をすくめる。
「普通の店だからな」
エリーは顔を上げずに針を動かす。
夕方、修繕が終わった外套を客に渡す。
客は袖を通し、腕を動かした。
「……軽い」
不思議そうに言う。
「前より楽です」
エリーは微笑む。
「それなら良かった」
それだけの会話だ。
若い職人は、その様子を見ていた。
「今の、何をしたんですか?」
エリーは少し考えた。
「少し直しただけです」
「どこを?」
エリーは肩のあたりを指で示す。
「ここを少し」
若い職人はじっと見る。
けれど、大きな違いは分からない。
「……それだけですか」
「はい」
エリーは針を片付けながら答える。
「それだけです」
外はもう夕暮れだった。
通りには灯りが点き始めている。
若い職人は帰り際に言った。
「今では、どこの店でもこういう仕立てをします」
エリーは頷く。
「そうなんですね」
「昔は違ったと聞きました」
エリーは少し首をかしげた。
「そうでしたっけ」
若い職人は笑う。
「ええ」
それから、軽く頭を下げて店を出ていった。
店の中はまた静かになる。
エリーは明日の布を整え、針を箱に戻した。
十年が過ぎても、やることは同じだ。
服を直す。
少し楽になるように整える。
それだけ。
通りを歩く人々の服は、どれも自然に動く。
けれど、それがどうしてそうなったのかを、
考える人はもうほとんどいない。
エリーは灯りを消し、店の扉を閉めた。
明日もまた、同じ一日が始まる。
針の音といっしょに。




