Aroma Intersection
「俺と付き合ってください!お願いします!」
「だから僕は男なんだってば!」
晶が私立香澄高等学校に入学してから三ヶ月、この光景は既に十二度目だ。今日も放課後に男子生徒から好意を受け取っている。
サラサラとした櫛通りの良いショートヘア、男子と並ぶとより強調される小柄な体型、男子制服に身を包んでいながら女子と間違われるほどの端正な顔立ち、そしてほのかな甘さを漂わせる晶に興味を向ける男子が絶えない。
告白の舞台は、校庭の隅に大きな存在感を放つクスノキの下だ。日陰に風がそよぐと爽快な香りがふんわりと漂う。
“このクスノキの下で相手の幸せを願うと、心にそっと届く”という伝承があり、香澄高校の生徒からは恋寄樹の名称で慕われている…のだが。
「ごめんね、その言葉は違う誰かにちゃんと届くべきものだと思うんだ。」
晶の前では蕾が花開くことなく、ことごとくしおれていくのだった。
キュッとした胸の痛みを堪えながら、定期的に行われる儀式をいつもの台詞で終わらせると、晶は男子生徒よりも先に恋寄樹を後にする。
結局のところ、男子生徒が晶にどれくらいの好意を寄せていたかはわからない。しかし、右手を伸ばしながら勢い良く晶に頭を下げた瞬間に、うっすらと漂った人工的なフレグランスの正体だけは見当がついていた。
「この制汗剤の匂いは…桃だな。」
心のつっかえを取るように、晶はどうでも良いことをわざとらしくつぶやいた。
苦しそうに走っている運動部には目もくれず、すたすたと校庭の脇を通り過ぎる。校舎に入り、下駄箱で内履きに替えて廊下に出たら、最初に目に入るのは壁際の大層なショーケースだ。中には、運動部が勝ち取ったトロフィーやら盾やらが新聞記事の切り抜きと共に飾られている。運動がさっぱりな晶は、この押しつけがましい展示品の前で一度も足を止めたことがない。
帰宅する生徒とすれ違いながら校舎を進み、保健室を通り過ぎる。吹奏楽部が使用している音楽室を右に曲がった先、廊下の突き当たりにある生物教材室が、晶しか部員がいない『香文学部』の部室だ。
普段は誰一人寄り付かない秘密基地のような場所だが、どうやら今日は様子が違う。右に曲がった瞬間に、手持ち無沙汰で誰かを待っている様子の女子生徒を捉えたからだ。眼鏡をかけ、髪はうなじの辺りから分け、それぞれをゴムで束ねていることが遠目でもわかる。
香文学部の設立が認可されてから二ヶ月、初めての来訪者にいやがうえにも晶の胸が高鳴った。いや、本当に自分への来訪者と決めつけてしまうには時期尚早とも思えたが、告白の類であれば部室に来る前に誘われていたから、わざわざ部室に来るということは香文学部に興味があるに違いないと都合よく結論付けたのだ。
ごちゃごちゃと頭の中を駆け巡ってはいたが、そんなことは一歩踏み出した後にはどうでも良くなっていた。
「こんにちは~!香文学部へようこそ~!香りに興味があって来てくれたの~?」
興奮気味の晶は、相手が先輩の可能性を考慮せず、女子生徒に駆け寄りながら話しかける。彼女は驚き、古びた革製の学生鞄を盾代わりにして、にんまりとした笑顔で迫ってくる晶をガードした。
「えっ!?う、うん。」
彼女の苦い表情から何を話しかけられたか理解できていないことがわかる。つまるところ、晶に合わせるように当たり障りのない返事をしてくれたのだ。
「音無さん?同じクラスの音無 琴弧さんだよね!香草に興味を持ってくれて凄く嬉しいよ!立ち話もなんだから部室の中へどうぞ。」
女子を誘うのが初めてとは思えないほど部室への誘い文句が溢れ出す。香文学部が香草を研究していること知っている前提の物言いも、鞄をついたてにして聞いている彼女のこともお構いなし。
「えっ!?は、はい。」
彼女は晶の勢いに気圧されて、またも話を合わせるように部室に入って行った。
◇
部室に入ると8畳ほどの空間の中心に机が4台、それを取り囲むように、教材を保管する大きめの収納棚が置かれていた。着席すると人が一人通れるほどの隙間しかない。音楽室から聴こえてくる吹奏楽部の演奏がなければ、しんとして圧迫感があることが推測できる。
生物教材室はどちらかといえば物置として扱われていた。収納棚の中には、いつどの学年で使うかもわからない物理の資料やら赤本やら小さな地球儀やらがジャンル問わず無造作に押し込まれている。生物の進化の過程とか化学のなんとかのカラー写真付きのポスターは、縦にも横にも中途半端に大きいせいで準備室と収納棚の間にできたデッドスペースに丸めて立てかけられていた。たとえ授業前に教諭から資料を持ってくるように指示されたとしても、この雑然とした教材室の中から目当ての物を探し当てられる生徒がいるとは到底思えない。
「こちらの席へどうぞ」と晶が奥の机に誘導すると、琴弧は俯きがちに首を縦に振って座った。
「カモミールティーをどうぞ。」
「ありがとう。」
彼女は緊張気味に微笑んだ。
音無琴弧…どのコミュニティにも属しておらず、誰かと話しているところをあまり見たことがない。あるとすれば、移動教室の確認とか委員会の集合場所の確認とか事務的な会話くらいだ。
黒ぶちの眼鏡の奥には自信のない曇った眼、机に座っていれば本を読み、廊下を歩けば俯きがちで、せっかくの端正な顔立ちが隠れてしまっている。
しばし紅茶の味わいを楽しんだ後、カモミールのリラックス効果では緊張を抑えきれなかったのか、呂律が回らない様子で話し始めた。
「あ、あの、たけたっ、竹達くんは…」
「竹達って言いにくいよね、遠慮せず晶って呼んで。」
友人が少ない琴弧にとって、仲良くなるための課題とも言える名前呼びの壁を意図せず超えることができたようだ。しかし自信の無さから、ためらいがちに続ける。
「…晶くんはどうして香文学部を設立したの?香文学ってあまり聞いたことがないと思うんだけど。」
晶は軽く咳払いをした後、待ってましたと言わんばかりの得意気な表情で部員勧誘のスピーチを始める。
「僕は香りも出会いの一つだと思ってる。だけど香りは主観的なもので、同じ香りでも音無さんと僕では感じ方が異なることもある。僕は音無さんに“カモミールティー”と言ってお茶を出したけれど、もし何も言わずに出していたとすれば、カモミールティーと認識できたと思う?」
「ううん、できてないと思う。」
予想通りの返答が来て晶は勢い付く。
「そうだよね。そしてこれには、実はレモンバームとハチミツもブレンドしているんだ。つまり、どんどん複雑化する香りの情報は、経験と合わせて言語も伴っていないと認識が困難だということになる。だから香りを言葉で表現して伝えていく必要性を感じて香文学部にしたのさ。」
自分の講釈についてきているか確かめるように琴弧を一瞥し、手応えを感じて続けた。
「だけど一つ問題があって…僕は香りに敏感だけど、文字に起こすことが苦手なんだ。だから今は一緒に活動してくれる部員を探してる。特に音無さんのように日常的に本を読んでいる人を。」
最後に、部員になって欲しいと目で訴えてプログラムが終了した。少しの沈黙の後、琴弧はためらいがちに口を開く。
「文字に起こすことが苦手な割には饒舌に思えたけど…。」
「はい。完成まで二ヶ月かかりました。」
琴弧は静かに頷き、納得した表情を見せた後、続けて口を開く。
「クラスで私のことを認識してくれてありがとう。実は私は本が好きってわけじゃないんだ。どうしても一人でいる時間が長いから本に頼ってるだけ。本を開いていても文字が頭に入って来ない時もあるし、本を読むふりをして考え事をしている時もある。だから少し、ほんの少しでもそんな日常を変えたいと思ったの。でもどうしたら良いかわからなくて。」
「それで僕のところに相談しに来てくれたってわけだね。」
やけに察しの良い晶は、琴弧を受け入れるように優しく言う。
「初めて話すのに変なことを言うけど、晶くんには不思議な求心力を感じてる。それが変わるための手がかりになるんじゃないかと思って部室に来てみたの。」
「すごく嬉しい相談だよ。そしてたった今、解決策を思いついたところ。」
新入部員獲得のために晶は一肌脱ぐことにしたようだ。
「本当?やっぱり晶くんって只者じゃないんだね。」
「僕の家に来てみない?」
話の流れから微塵も予想していなかった答えに琴弧は固まった。ずり落ちた眼鏡をクイと上げた後、軽蔑気味に続けた。
「…晶くんってさ、そうやってかたっぱしから女子を誘ってるんじゃないの?…」
「ひどいっ!僕は人生で初めて女の子を誘ってるんだよ…。音無さんだから誘ってるの。」
「それはどういう…」
「意味か知りたいでしょ?じゃあ家に来てよ。僕なら、変わりたいと思った音無さんの背中を押せる。」
何も言わずに疑いの目で見てくる琴弧に、晶は言い訳をするように続ける。
「本当なんだってば!僕の家は代々続く町の薬局なの。あと、ほんの少し『特別な香草』も育成してる。」
「特別な香草?」
「うん。音無さんは絶対に見たことがないやつ。」
「その特別な香草にはどういうものがあるの?」
「今は秘密。実際に見た方が早いよ。」
「う~ん…それ…いつ?」
「明日!学校休みだし!」
「晶くんって思ってたより強引なんだね。」
「善は急げ、だよ。ね?」
「…じゃあ…行って…みようかな…。」
屈託のない笑顔の晶に、琴弧は顔を赤く染めて目を逸らしながら言った。ぼんやりと非日常の気配を感じたかのように。
◇
晶は浮足立っていた。今日の午後に、人生で初めて女子が家に来るからだ。
昨日、自信満々に琴弧を誘ったわりには目がさえてあまり眠れなかった。平日より1時間も早い5時30分に目が覚め、8時に設定していたアラーム機能が役目を果たす前にオフにする。
早く起きたアドバンテージを効率的に使おうとするが、宿題は全く手に付かず、音楽をかけても雑音に聴こえてすぐにやめた。結局、ベッドで横になりながら5分ごとにスマートフォンの画面を見て、琴弧から新しいメッセージが届いていないか確認する作業に費やしたのだった。
そしてついに『電車に乗ったよ』と琴弧からのメッセージが届いた。無香料の制汗スプレーをかけ、日焼け止めも忘れずに塗り、余所行きの服に着替えた晶は、緊張と興奮を抱えながらいつもの駅に向かう。
琴弧を迎えに行くのだ。
到着した晶の目には、なぜか初めて利用する駅のように新鮮な景色に映っていた。早歩きになったせいでここでも少し時間が余った晶は、改札の辺りをうろうろする。
やがて電車は到着し、緊張と興奮が最高潮に達した。しかし改札に来るはずの琴弧の姿が一向に見えない。伝えていた改札と反対側に行っちゃったのかな…。ずっと手に持っていたスマートフォンは振動しなかった。琴弧に連絡しようとして画面を操作したその時…。
「晶くん…!」
斜めの方向から呼ぶ声に顔を上げる。
「……音無さん…?」
晶は自信なさげに問いかける。それもそのはず、昨日学校で見た琴弧とはまるで別人だからだ。彼女の象徴とも言える黒ぶち眼鏡をかけておらず、窮屈そうに耳元で束ねられていた髪はほどかれ、デコルテにかかるほどの艶やかな髪が自然と流れていた。
琴弧から女性の甘さを感じ取ったお年頃の晶は、全身が火照っていく音を聞いた。
「どうしたの?顔が赤いよ?」
不思議そうに問いかける琴弧。
「ううん…!何でもないよ!」
取り繕った晶は、話を逸らすように駅の出口に案内したのだった。
駅の喧騒を背にして歩いて行くと、八百屋や精肉屋、定食屋が軒を連ねる商店街が見えてくる。雨風を凌ぐアーケードがないせいで庇テントはところどころ破れ、印刷された屋号はかすれて穴埋め問題のようになっている。その隣はモルタル外壁にひび割れが走る雑居ビルだ。館銘板には楷書体で「ビルヂング」と銘打ってある。ビルの入口からは薄暗い廊下が奥に延びていて、昼間でも恐怖感が煽られる。ところが1階のテナントは若い人向けに内装をリフォームしたカフェだ。その明るさとビルの暗さが同居しているせいでここだけ異質な存在感を放っている。
普段の通学路を琴弧と一緒に歩いている。オーパーツが発掘されたようなちぐはぐな光景に、心の底から湧き出た幸福が晶の全身に染み渡っていった。晶よりも少し背の高い琴弧が良い味を出していて、2人が並ぶとできる段差が妙にしっくりくる。
やがて時代の流れを生き抜いた商店街と、都市開発が進みつつある住宅街との狭間に、やけに目立つ古民家風の建物が見えてきた。薬局『竹達香守庵』である。
「奥行きがあって小さな工場みたいだね。たけたつこうしゅあん…で合ってる?」
入口上部には少し拝みになった木製の看板が掲げられている。飲食店を連想させないように扉のないオープンな店舗構造になっているにもかかわらず、『庵』という字からカフェと勘違いして来店する人が絶えなかった。そこで思い切って喫茶スペースまで増築してしまったのだ。今では幸せを運ぶ木彫りのフクロウが来客を迎えている。
「正解!『香りは魂の言葉となる』竹達香守庵へようこそ!」
晶は琴弧を正面にして得意気に言う。
「そのキャッチフレーズは晶くんが考えたの?」
「もちろん!」
「文字に起こすのは本当に不得意なの?」
琴弧は晶を覗き込んでニヤリと微笑みながら言う。
「はい、三週間を費やしました。」
晶がけろっとした表情で答えて、一緒に笑った。
「立ち話もなんだから、家の中へどうぞ。2階が家なんだ。」
部室に案内した時と同じ文句で琴弧をエスコートする。
◇
晶の自室の前には『勝手に入るな!』と思春期の男子らしいことが書かれたメッセージボードがぶら下げられている。それを裏返して「在室中!」にした後、琴弧を招き入れ、やはりカモミールティーでもてなした。
昨日の夜に片付けと部屋の換気を行ったことを照れくさそうに打ち明けると、嬉しそうな表情の琴弧を見て、この時間がずっと続いて欲しいな…と、少し背伸びした想いが芽生えた。
一方で、初めて男子の部屋に訪れた琴弧はどうして良いかわからない様子だったが、カモミールティーを一口含んで談笑すると「久しぶりにこんなに笑った気がする」と晶にしか見せてない笑顔を浮かべた。
打ち解けた時間が過ぎた頃、昨日の部室での一幕を思い出した琴弧が問いかける。
「そう言えば、昨日部室で言ってた特別な香草はどこにあるの?実はありません・・・てことはないよね?」
「大丈夫、ちゃんと用意してあるよ。一階の秘密の場所にあるんだ。」
晶は背筋を伸ばして真剣な眼差しで琴弧に語り掛ける。
「香りは魂の言葉となる、これはただのキャッチフレーズじゃないんだ。実在する。」
「実在する?」
「魂香草…直接香りを楽しむ植物とは異なって、人間の深層心理や魂に触れる力を持っている香草の一群のこと。古くから一部の家系や流派だけに伝えられてきたんだけど、時代と共に廃れていって、今では僕の家系しか使えない。」
晶の表情の変化に、笑いの余韻が残っていた軽やかな空気がひんやりとした緊張にすり替わる。琴弧は反射的に背筋を伸ばした。
「人の深層心理や魂に触れる力…?何だか急に現実離れした話で怖くなってきた…。」
琴弧は先程までの笑顔からは打って変わって不安な表情を浮かべている。
琴弧にとって晶の自宅に招かれることが既に非日常であった。しかしその延長線上にあるものが今まで触れたことのない異質な存在とわかり、直感的に身の危険を感じたのだろう。
「過去に辛いことがあったんでしょ。何があったかはわからない。だけど何かがあったことだけはわかる。そしてそれを今も引きずっている。」
晶の言葉に虚を突かれた琴弧は、目を丸くしてぽかんと口を開けたまま、時が止まったかのように固まった。
「同じクラスになった時から気になってたんだ。音無さんからは漂ってこない。本来なら誰しもが心の深層から自然と溢れ出てくるはずの香り、『潜香』が。」
聞き馴染みのない単語に混乱していた様子の琴弧ではあるが、自分の隠したかった部分を知られていると悟ったかのように俯いた。
「潜香が感じられない程に自分を抑え込むのは簡単なことではないよ。本当の自分に蓋をしただけじゃなく、長い時間、その蓋を目一杯の力で押さえ込んでいたんだ。昨日『音無さんだから誘った』って言ったのを覚えてる?話せる機会を伺ってはいたんだけど、音無さんの方から僕を頼ってくれた。だから今度は僕が音無さんに寄り添う。最後には心の底から笑ってもらいたいんだ。」
「でもどうやって!」
久しぶりに口を開いた琴弧は目に涙を浮かべ、のっぴきならない状況を嘆くように強い語気で言った。
「音無さんの辛さを僕にも分けて欲しい。一緒に香草室に行こう。そこにとっておきのプレゼントがある。」
立ち上がって手を差し伸べる。琴弧は涙を拭って、何も言わずに晶の手をそっと握った。
◇
1階の店舗とは正反対の位置にある一室に到着すると、透明な強化ガラスの扉が2人を迎えた。
「ここが香草室?」
琴弧は晶の後ろで両肩を掴み、身を屈めながらきょろきょろしている。きらびやかな花屋とは似ても似つかない研究室のような空間に面食らった表情を浮かべていた。
「そう。ここには魂香草しかないんだ。お化けは出ないから安心して。」
扉の前に立つと厳重に書かれた『火気厳禁!』のステッカーに背筋が伸びる。中に入ると、6畳ほどの温室を電球がほのかな灯りで照らしていた。室内には金属製の網目棚が並び、棚板の一段一段に見たこともない香草のビニールポットが種類ごとに育成されている。どの香草も広い棚板に対して数個ずつしか置かれていない。その間隔から香草の価値を感じ取れる。室内はしっかり温度管理されていてやさしく温かい。
「魂香草には複数の種類があるんだけど、音無さんへのプレゼントはこれ。」
晶は一鉢を手に取って琴弧に見せた。
「これは言香草って言うんだ。ちょっと香りを確かめてみて。」
そう言われて右から、左から、はたまた上から顔を近づけて香りを確かめてみた琴弧は不思議そうな表情を浮かべた。
「…特に香りを感じないけど…それに…まだ蕾?」
「そう、魂香草は全部蕾なんだ。だけど摘むと同時に花が咲く。言香草はね、摘んだ人の心にある『記憶』と『伝えることができなかった想い』を香りとして浮かび上がらせる。そして香りを感じた僕の中に音無さんの感情が響いてくるって寸法なんだ。」
「晶くんが私の香りを?…何だか凄く恥ずかしいし…怖い。」
「自分の香りを知られるって意識すると複雑な心境になるよね。でも、その人が日常的にまとってる匂いとは違う。身体の芯から出てくる人間性とも言える香り。それを言香草を媒介にして僕も感じることで、音無さんの想いに直に触れることができる。それは香りに敏感な僕にしかできないことなんだ。」
初めて男子の家に来て楽しい時間を過ごした後に、香草室でのクライマックス。隠して来た汚濁を自分に見せろと急に言われて、琴弧は戸惑いの表情を浮かべた。
「きっと音無さんが抱えている大きな問題はこれだけで解決できるほど簡単なものじゃないと思う。だけどこれからは一人じゃない。僕がついてる。もう抑え込む必要はないんだ。」
晶の言葉に背中を押された様子の琴弧は、震えた手を言香草へと伸ばした。
「この蕾を摘むんだよね…。」
「うん。摘むことは奪うことじゃない、本当はね…決断するってこと。」
「決断…する…。」
覚悟を決めた表情で大きく息を吸い込み、摘んだ。
蕾は発光しながら急速に成長を遂げ花開いた。春の柔らかい陽射しをたっぷりと受けた花畑に漂う、優しくふんわりとした落ち着きのある香りが広がった次の瞬間、それを貫くように酷く尖った香りが鼻を刺した。
鼻腔を塞がれてパニックになり、呼吸が途切れになった晶の意識の中に、《《本当の琴弧》》が流れ込む。
『私は琴弧って言うんだ。よろしくね。』
『何なのアイツ、なんかムカつくし汚くね?』
『男に媚び売ってそうじゃん』
『アイツ、親が離婚して転校してきたらしいよ。』
『なぁ、お前って先生と付き合ってるんだろ?俺たちとも付き合えよ。』
『ねぇ、琴弧が学校でイジメられてるらしいの』
『そうか…まぁでも俺の子供じゃないしなぁ…』
『また女の匂い…もういい加減にしてよ』
『隠してたの?本当のお父さんじゃないってどういうこと…?』
『離婚するって本当なの?』
『ねぇ、高校に入ったら新しいバッグが欲しいな。』
『ごめんね、今はお母さんのお下がりを使って。ちゃんと保管してたから、外見は綺麗よ。』
『これから私はどうなるんだろう…友達もいない…いっそもう…』
『竹達晶くんか…私と違ってみんなに好かれて羨ましい…』
『確かに竹達くんは不思議な魅力がある…』
『私もあんなふうになれたらな…私はもう戻れないのかな…』
過去に琴弧に投げつけられた罵詈雑言と、今の琴弧ではどうすることもできない家庭環境のしがらみの中で、耳に入ってくるかわしようのない無数の槍が、晶の脳内にも言葉として流れ込んできた。温度管理が完璧な香草室で、あまりのおぞましさに晶の背筋は凍り、膝をつき、嘔吐した。
二人を苦しませる尖った香りがなくなった頃、優しく甘い香りが広がり晶を包み込んだ。
尖った香りを感じたのはほんの少しの時間だった。しかし二人にはとても長い時間に感じられたのだろう、琴弧もしゃがみこんで震えていた。
晶も琴弧も静かに泣いた。
◇
「はい、カモミールティー。」
「…ありがとう。」
あの後、ふらふらと立ち上がった晶は琴弧を抱きかかえて何とか自室に戻ってきた。晶はあまりのストレスにやつれた顔をしている。
「まだちょっと心が落ち着かないね。でも音無さんは何だか雰囲気が変わった。潜香も漂ってる。ほんわかとして、周りを温めてくれるようなすごく優しい香り。」
本人にもわからない潜香を言葉にされた琴弧は、前髪をいじりながら顔を赤くした。
「今日、勇気を出してくれた音無さんを僕が守って行くよ。以前の音無さんに戻れるように一緒に考えていこう。」
「…うん。」
晶の素直で前向きな言葉に顔を赤くした琴弧は、目を逸らして呟く。
「家に帰ることが憂鬱な時もあったけれど、少し希望が持てそう。自慢できない過去を知られることに抵抗があったけど、受け入れてくれて救われた気持ちがする。決断したのは私だけじゃなくて、晶くんもだったんだね。」
琴弧の優しい言葉に、今度は晶は顔を紅潮させて照れ笑いした。
「実は私ね、いつもの眼鏡は伊達で、前は髪も結っていなかったの。」
「そうだったの?じゃあ今日は本当の音無さんだね。」
「うん、自分を抑え込むために外見から変えたの。オシャレに興味がないわけじゃなかったんだけど、勇気が出なくて。」
「それなら、これからオシャレしようよ。あと、行きたいところにも行って高校生らしいことをいっぱいしよう。」
「うん、ありがとう。その時は晶くんも一緒ね。」
琴弧は憑き物が落ちたように可愛い笑顔を見せた。
「もう晶くんの前では簡単に隠し事ができなくなっちゃったな。」
「僕は鋭いよ。なんせ音無さんが香文学部に入部したがっていることもわかってるんだから。」
「晶くんには…私の文才が必要かもね。」
冗談交じりの会話に2人の笑い声が響いた。
まだ琴弧の根本的な問題を解決できていない。だが解決に向かうための勇気を見せた琴弧と、自分の最大限の力で解決の糸口を見つけた晶は、昨日初めて会話をしたとは思えないほど距離が縮まっていた。
琴弧と話して安らいだ晶が急に立つ。
「僕は香りを読み解いて音無さんに伝えます。音無さんは、僕の直感的な言葉を解きほぐして綴っていってください。」
「わかりました。部長。」
新入部員はかしこまって二つ返事をした。
「今日の香文学部の課外活動はこれにて終了です。音無さんからも一言お願いします。」
晶は引き続き部長モードだ。巻き込まれるように本日の締めくくりを任された琴弧は、少し恥ずかしそうな表情を浮かべ、決心して声を出す。
「その…音無って言いにくいでしょ。遠慮しないで琴弧って呼んで。」
琴弧の言葉に虚を突かれた晶は、目を丸くしてぽかんと口を開けたまま、時が止まったかのように固まった。琴弧の潜香の中に、晶の中にいる私にも伝わってくるほどの甘酸っぱい香りを感じながら。




