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追放された最強魔導師は、弟子の天才美少女と世界を巡る。~無詠唱魔法で無双しながら弟子とゆったり研究旅行~  作者: 九条蓮


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9/11

第9話 宿屋の一室で、元教師と元生徒が一夜を過ごす。

 宿の二階の廊下は、湯気と石鹸とハーブの匂いが混ざって、昼の埃とは別のやわらかさで満ちていた。階段の下では大鍋の煮込みがことことと鳴り、客間のどの扉の隙間からも、人の気配と温度が漏れてくる。

 部屋に入ると、蝋燭一本の明るさが壁紙を薄く照らしていた。粗末だが清潔なベッドがふたつ、窓辺には小さな机と椅子、角には旅装を掛けるための木の柱。さっき女将に言われたとおり、大浴場は今が空き時で、他の客はまだ夕食に下りている。

 問題は、ここからだ。

 アルドは扉を背にして立ち尽くした。自分の呼吸が、部屋の静けさに対してやけに大きく思える。胃の裏で説明のつかない緊張が小さく畝っていた。


(落ち着け。別段、珍しい状況でもあるまい)


 そう言い聞かせてみても、言葉ほど容易くは沈まない。

 今、部屋にいるのはアルドひとり。横のベッドの主は、大浴場へ行っている。アルド自身は先に風呂を済ませ、髪も乾いて、いつでも眠っていい状態だ。徹夜なので、眠いと言えば眠い。なのに、この落ち着かなさはなんだ。

 理由は単純で、認めるのが厄介なだけだった。

 ……今からひと回り近く年下の美少女の弟子と、同じ部屋で寝ようとしている。

 それを考えただけで、頭のどこかが沸騰しそうになった。

 これまで生徒として見てきたし、これからは自らの弟子として見るつもりだ。だが、『同じ部屋で』『異性と』『寝る』という条件が一行に並ぶと、理性の机の上が一瞬で散らかった。


(ええい、いかん! エリシャは生徒で弟子だぞ。一体俺は何を考えているんだ)


 額に指を当てて、雑念を押しやるように撫でた。

 こういう時は、身体の方から順に鎮めるのがいい。アルドはベッドに腰を下ろし、毛布を整えて、その上に胡坐をかいた。背筋を立て、肩の力を抜き、目を閉じる。呼吸の深さを一定に保ち、内側の魔力の面を撫でるように触れていった。

 魔力鍛錬。理と律を身体に戻すいつもの手順だ。肺が緩み、鼓動が静まる。思考の速さが均され、余計な像を引かせた。

 ちょうど、その時。廊下側の床板が軽く鳴った。次いで、遠慮がちなノックが扉を叩く。


「……ただいま戻りました」


 エリシャの声だった。扉が開き、湯気と一緒に彼女が入ってくる。頬は湯に上気し、白い肌に色が差していた。

 濡れた銀髪は肩のあたりで水を含んで重く垂れ、宿の貸し出し用の薄いローブが、普段の制服のローブよりも輪郭をあらわにしていた。

 視界の端で、理性がよろめく音がした。


「う、うむ。おかえり。それより、髪は乾かさないのか? 風邪を引くぞ」


 できる限り平静を装って言う。すると、彼女は少し恥ずかしそうに視線を落とした。


「すみません……私、風魔法があまり得意ではなくて。魔法で髪を乾かそうとすると、部屋が散らかってしまうんです」


 意外だった。天才にも、ある種の不得手がある。

 いや、風魔法は魔力の微細な調整が要る上、室内では渦や乱流が物を跳ねさせる。彼女ほど魔力量が高いなら、制御は余計に難しいだろう。


「寮ではどうやって髪を乾かしていたんだ?」

「えっと……外に出て、庭先で」


 エリシャはおずおずと答えた。寮生に迷惑をかけないように庭で風を起こしていた、と。

 真面目な子だ。だがここは街中、夜の路地で風魔法を吹かせるのは不用意が過ぎる。

 アルドは小さく溜め息を吐き、窓際の椅子の背を指で二度、軽く叩いた。


「ここに座れ」

「……? はい、わかりました」


 エリシャは少し首を傾げながらも従い、椅子に腰を下ろす。濡れた髪が肩から背へ落ちて、灯りを吸って鈍く光った。

 アルドは彼女の背に回り、手をそっと髪の上に翳す。

 手のひらの内側に、微かな循環を起こした。火の理を針の先ほど薄く混ぜ、風の理を手のひら大に組んで、渦の芯だけを温める。室内の空気が乱れないように、あくまで撫でる感覚だ。

 間もなくして、温い風が手のひらからほどけた。


「え!? せ、先生!?」

「さすがに街中で制御の利かない風魔法を使わせるわけにはいかんからな。扱いに慣れるまで、乾かしてやろう。明日から早速特訓だぞ」

「……はい」


 エリシャの肩が、ふっと緩んだ。湯上がりの温度に、手のひらの温度が重なり、濡れた髪が糸の束から纏まった織物へと戻っていく。

 極力、髪そのものには触れないようにした。触れずに伝えるために、風の膜を薄く重ねていく。


「先生の風、優しくてあたたかいです」

「そうか? まあ、温度調節は我ながら上手いと思うがな」

「でも、どうしましょう? これだと私、特訓をサボってしまうかもしれません」


 髪を乾かされながらの言い草に、思わず苦笑が漏れた。彼女は顎に指を当てて、半ば本気で悩んでいる顔だ。


「こらこら。サボるならもう乾かさんぞ」

「冗談です。ちゃんと頑張ります」


 エリシャはくすくすと笑った。風が笑い声に合わせて細く揺れ、髪の束がさらりと流れていく。

 湯上がりの匂いに、少しだけ花の香りが混じっていた。寮で使っていた石鹸か、女風呂に備え付けてあったものか。ただ、男の理性を乱す匂いであることには変わりなかった。


「でも、先生に髪を乾かしてもらえるなんて……私、幸せ者ですね」


 うっとりと瞳を閉じて、囁くように言う。

 その言葉は、こちらの胸板の裏側にまっすぐ当たった。

 学院主席卒業、そして名誉ある研究者への道を捨て、安宿の同室で追放された教師に髪を乾かされる。果たして、それのどこに幸せがあるのだろうか?

 だが、エリシャの声音からは、本当に幸せそうな響きを感じてしまう。


(……やめろ。そうやって素直に言われると、余計な雑念が増えるだろうが)


 自分を戒め、風の角度を少し変えた。

 後頭部のうなじのあたりは、渦が巻きやすい。温度を一段落とし、乾く速度をゆっくりにして、熱の当たりを柔らげていった。


「んっ……」


 エリシャの口元から、ごく小さな声がこぼれた。

 気持ちがいいのだろう。唇の端がほどけて、睫毛が緩んでいた。姿勢もわずかに前へ傾いていて、危なっかしい。

 アルドは風の向きを変え、背もたれ側にそっと押し戻して支えてやった。

 時間の流れが、湯気のように緩む。外ではまだ、階下の食堂の賑わいが続いていた。

 器の触れ合う音、パンを割る音、誰かの笑い。ここはその外側からすこし外れ、比重の違う静けさに包まれていた。

 そろそろ乾く頃合いで、エリシャの頭が舟のようにかくんと揺れた。徹夜で飛び続け、そのまま初陣をやり遂げたのだ。瞼の筋肉が、とうに限界を迎えていた。


「終わりだ。起きられるか?」

「あっ……は、い。だいじょ……ぶ、です……」


 返事はしたが、声の輪郭は夢のなかのものだった。


「全く……」


 アルドは風を止め、そっとエリシャを抱き上げる。

 彼女は驚くほど軽かった。少し雑に扱うと、壊れてしまいそうなくらい華奢な身体だ。落とさぬように、しかし触れすぎないように。矛盾しているように思うが、慎重に慎重に彼女をベッドに運んだ。

 ベッドの縁に膝を当て、体を倒し込む直前に、ローブの前合わせがふっと開いた。

 視界の下の方で、白が灯の光を反射する。谷間が息をのむほどくっきりと現れ、布から零れそうな起伏の気配が一瞬だけ露出した。身体は華奢なくせに、胸元はしっかりと女性らしさを強調していた。

 理性の机が、再び派手に散らかる。

 アルドはほとんど反射で毛布をひっ掴んで胸元にふわりとかけ、続けて二枚目を肩口まで整えた。顎や首に布が触れて息苦しくならないよう、縁を少し折り返した。枕の高さを手の甲で探り、頭の角度を直す。髪が首に貼り付かぬよう、枕の上に広げてやった。


(やれやれ……男と同室だというのに、ちょっと無防備すぎるぞ)


 ため息をひとつ、喉の奥で殺した。心臓の鼓動が、耳の後ろでうるさい。

 だが、毛布の上から見える彼女の寝顔は、あまりに無防備で、あまりに安らかだった。目尻の力が抜け、唇が幼い子のようにわずかに開いている。

 可愛い、と思ってしまったのはここだけの話だ。

 灯心を少し短くして、部屋の明るさを落とす。窓を半分だけ閉めると、外のざわめきが薄まり、夜気の冷たさがちょうどよくなった。

 椅子を引き、ベッドの合間に置く。背凭れに背を預け、深呼吸を一度。内側の魔力の面をもう一度撫でて、先ほど崩れかけた思考を正しい場所へ戻していく。

 エリシャが小さく寝返りを打った。毛布の縁が肩から落ちないよう、そっと引き上げる。

 窓の向こうで、街の音がさらに遠くなった。どこかで弦の調子を取る音がして、やがてそれも消える。宿の大時計が低く一度だけ鳴り、夜の深まりを告げた。


(さて……俺も寝るか)


 アルドは自分のベッドに入ると、浅い眠りの縁を探った。眠る前の最後の視線は、銀の睫毛の影。

 幸福そうな寝顔が、夜の真ん中で静かに呼吸している。その呼吸に合わせて、胸の鼓動がようやく普通の速度へ戻っていった。

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