第7話 トラブルが起きても最強と天才は無双する。
城門を抜けてしばらく行くと、石畳は土の道へと切り替わった。昼下がりの陽が梢で砕けて、薄暗い木立にまだらの光斑を撒く。
ここまでは飛ばずに歩いた。〈飛行魔法〉は移動に便利だが、魔力を持久的に使う魔法でもある。いくらエリシャが天才だと雖も、初陣の緊張と噛み合えば、リズムを崩す恐れがあった。
それに、既に夜通し〈飛行魔法〉を使わせてしまっている。まだ魔力は温存してあるので大丈夫だとのことだが、徹夜でずっと動き続けているので、もしかすると疲れさせてしまっているかもしれない。
(まあ、ある程度疲れている状態で戦う方が、実戦向けではあるんだけどな)
冒険者としての活動を鑑みれば、ずっと体調が良いという時の方が少ない。睡眠不足、或いは劣悪な環境での戦いや移動など、身体が疲れていたり怪我を負っている時に戦うことの方が実際は多いだろう。
そうこうしているうちに、簡易地図で示されている場所に着いた。
「確か、このあたりですよね?」
「そのはずだが──」
答えかけた瞬間、木々の奥から空気を裂く悲鳴が上がった。
「ひぃっ、助けてくれぇ!」
エリシャと顔を見合わせる。次の瞬間には、ふたりとも声のした方角へ駆け出していた。
藪を払い、細い道を抜けると、道端で車輪の一方が折れた荷車が横倒しになっている。荷は崩れ、麻袋と木箱が散らばり、二人の商人が幌の陰に身を寄せて震えていた。
囲むのは、灰褐色の体毛に黄の眼を持つワーウルフたち。牙を剥き、ゆっくりと包囲を詰めている
「た、大変です先生! 早く助けないとッ」
エリシャがすぐさま指先に魔力を込め、詠唱の形に唇を開いた。しかし、アルドは掌を横に出し、短く制す。
「慌てるな。まずは観察からだ。……数は十、囲みの陣形で、中央が親玉だな。闇雲に攻めると、あいつらも暴走して商人たちに怪我をさせる恐れがある。一般人をなるべく巻き込まないようにするのも、俺たちの仕事だ」
「それはそうなんですが……でも、巻き込まないようにって、どうやるんですか?」
「まずは連中の注意をこちらに向けるんだ」
アルドは足先で土を一度だけ軽く蹴り、森に満ちる魔素の表面張力を撫でた。空気の膜がぷつりと震え、群れの黄色い眼が一斉にこちらを捉える。
戦士のスキルで、〈盾吼〉というものがあるらしい。魔物の敵意を自分ひとりに集中させるというものだ。魔力を用いれば、似たようなことを実践できる。
ワーウルフたちが短く吠え、威嚇の咆哮が木立を揺らした。二体が先行して突進、残りが扇状に広がる。
(いいぞ。かかってこい)
アルドはほくそ笑み、詠唱なしで右手を軽く上げた。
影が動く。梢の影、荷車の影、狼の足裏の影──暗の線が一か所で結び直され、地面から音もなく尖塔が伸びた。〈闇の杭〉だ。
先頭のワーウルフの胸郭が、その黒い杭に貫かれた。血飛沫は上がらず、光も音もない。ただ、串刺しになり、二体は倒れた。
「え……い、今のは!?」
商人の喉から、素っ頓狂な声が漏れた。
ワーウルフの群れの前列が怯み、足が止まる。遅れて、背筋に冷水を流し込まれたようなざわめきが生じていた。
「さすがです、先生。凄まじ過ぎます」
「褒めるのは後だ。エリシャ。左は任せるぞ」
「了解しました!」
エリシャは一歩前へ出る。指で空に六芒星を描き、韻律を刻む。
全く緊張している様子はなかった。しっかりと敵を見て、距離も測れている。さすがは天才だ。初の実戦でも、問題は見当たらない。
(では、少し背中を押してやるか)
アルドは無詠唱で、彼女の詠唱の下にもう一枚、見えない譜面を差し込んだ。
語の結節点と呼吸の切目に、魔力の滑車を噛ませていく。
〈詠唱加速魔法〉──その名の通り、詠唱を早めて魔法の発動を短縮する魔法だ。
エリシャの声が一段、澄んだ音色を帯びて加速する。彼女の音節は崩れず、しかし詠唱は研ぎ澄まされた刃のように短く詰んだ。
流れる水に傾斜を足しただけの、自然な速さ。空気が震え、周囲の光がわずかに白金へと転じていく。
「罪過は消滅せよ──〈神裁の雷〉!」
彼女の指先から放たれたのは、もはや雷と言えるものではなく、まさしく〝審判〟だった。一瞬、天地の境が白に染まり、遅れて天頂から光柱が落ちる。
対象となったワーウルフが逃れる間もなく、体表の毛が逆立ち、皮膚が光の内側から裂ける。防御の魔皮も筋肉も、すべて内部から粉砕されるように崩れ、無音の爆ぜる音だけが残った。遅れて大地が鳴動し、焦げた匂いが風に散る。
(〈詠唱加速魔法〉で補助してやっているとはいえ、高位魔法をこの速さで唱えるか。俺が十七の頃よりも確実に強いな)
アルドは苦い笑みを浮かべた。
何より、当て感が素晴らしい。上体が流れていないし、地に足もついていた。さすがは百年にひとりの才女といったところだ。対魔物用の実技訓練S判定も伊達ではない。
(ただ、この連携は悪くないな。詠唱を補助してやれば、エリシャも高位魔法を即座に撃てる。今後、色々使いようがありそうだ)
アルドとエリシャが散り散りに退く個体を追おうとした時、中央の個体が唸りを低く変えた。
毛並みが逆立ち、皮膚の下で筋束が膨張する。骨格が音を立てて伸び、背丈が倍近くに。口腔の奥から上がる声は、鋼を噛み砕く擦過音のようだった。その大きさは、三メルトを優に超えている。
どうやら、この群れのリーダーはワーウルフ・ロードだったようだ。しかも、変身型。かなり珍しい。
「で、でかすぎじゃないですか!? せ、先生、どうしましょう!?」
さすがの才女も、この事態には慌てていた。
ワーウルフとだけ戦うのと、そこにワーウルフ・ロードが混じるのとでは話が全く異なる。この依頼を新人冒険者が受けていれば、返り討ちに遭っていたのではないだろうか。
アルドはほくそ笑んだ。
「ちょうどいい。俺が引きつけてやるから、トドメはお前が刺せ」
「わ、私がですか!?」
「これも授業だと思え。俺から学びたいんだろ?」
「先生……はい!」
困惑の色は一瞬で、その下に火のような集中が点く。エリシャが距離を取り、低く詠唱に沈むのを目の端に捉えながら、アルドは前へ出た。
ワーウルフ・ロードの前脚が地を裂く。振り下ろしは重量と速度を兼ね、並の盾なら紙も同然だ。
アルドは詠唱せず、意識の底で二枚の結界を自分の内側へ敷いた。
筋線維が音もなく微細に束ね直され、皮膚の直下に薄い鎧が這う。〈筋力強化魔法〉と〈身体硬化魔法〉だ。この補助魔法をかけておけば、大体の魔物や戦士は対処できる。
「さて、相手をしてやるか」
アルドは右足を半歩送って重心を受け、落ちてくる腕を手刀で斜めに撥ね、肩の回転を殺した。胸骨柄付近を掌底で圧し、蹴りで膝の内側を払う。大ぶりだが重い打撃をあえて前腕で受け、衝撃だけを地面へ逃がした。
このまま殴り倒すのは簡単だ。しかし、それでは弟子が育たない。適度に痛みの記憶だけを刻み、意識の刃先をこちらに固定させた。
ワーウルフ・ロードが咆哮を飛ばすと、残りのワーウルフたちも一斉にアルドに襲い掛かってきた。
牙が閃き、爪が鳴く。アルドは薄く笑い、半歩、半歩と正面を外していった。
そこで、視界の隅で、空気が変わる。
温度が落ち、湿度が沈んだ。世界が、硬く冷えていく。エリシャの周囲だけ、まるで北国のように雪を纏っていた。
(ほう。氷結魔法か)
雷に頼らないのは好ましい。手札を試す気概は、伸びる者の習性だ。
「先生、いきます!」
エリシャがこちらに声を掛け、そのタイミングでアルドは後方に跳ねて間を空けた。
ワーウルフ・ロードの注意が僅かに逸れて、背後で詠唱する少女へ向いた。
「静寂なる零度の帳よ、地に満ちよ。凍土に刻まれし白銀の陣──弾けよ!︎〈氷葬凍土〉!」
森が息を止めた。
ワーウルフ・ロードの足元から、幾何学模様の雪花が一斉に咲き広がる。氷の紋が輪を重ね、陣そのものが生き物のように隆起し、獣を喰らった。
次の瞬間、白が弾けた。音は小さく、密度が高い。砕けるのは氷だけではなかった。筋、骨、咆哮の残響すら、きめ細かく粉へと挽かれて静寂に沈んでいく。
砕氷の欠片が風に鳴り、遅れて木の葉がざわりと震えた。残ったのは、風の音だけだ。
白い霧が晴れ、氷塵の雲に穴が空く。中心には、凍り付いたまま粉砕された親玉の欠片。右耳だけは細かくならないように、形を残していた。制御の利いた出力だった。
エリシャは肩でひとつ息を吐く。視線がこちらを探し、目が合えばぱっと綻ぶ。
実に見事。ケチのつけようがない。ないのだが──それでは、ためにならない。
アルドは歩み寄り、淡々と講評を置いた。
「〈氷葬凍土〉か。悪くない選択だ。ただ、このレベルの魔物には少々過剰な威力とも言える。もう一段階弱い魔法にして、発動速度を優先させてもいいだろう。実戦では強大さよりも速さの方が役立つ時が多いからな」
「先生……はいっ、ご指導ありがとうございます!」
瞳が露のように輝き、一礼。
真面目に喜ばれると、少しばかり居心地がくすぐったい。一応ダメ出しのつもりだったのだが、ダメ出しで喜ばれては、何も言えなくなってしまいそうだ。
アルドは腰の小袋をふっと浮かせると、魔法で倒れたワーウルフたちの右耳を切り取り、小袋へ順に収めていく。ワーウルフ・ロードの右耳は最初から氷塵と分かれて残っていたため、切り取る手間は要らなかった。
商人のひとりが恐る恐る近づき、震える声で言う。
「た、助かりました! 冒険者の方ですか?」
「ああ。仕事でやっただけだ。気にするな」
短く返す。礼に応じる時間も方法も、今は要らない。日が傾く前に街へ戻り、討伐証を出すのが先だ。
(そういえば、素材は別口で査定だったな。核と牙も入れておくか)
氷で割った分、査定は微妙そうだが、飯代くらいにはなるだろう。核と牙も回収し、袋に分けて収めた。
右耳の入った革袋と素材袋をそれぞれ〈異界収納〉に放り込むと、エリシャの方を向き直った。〈異界収納〉は携行品一式を収めた異空間の箱だ。着替えの鞄もそこに入れてある。
商人たちが恭しく頭を下げた。
「本当にありがとうございました! どうか、ご武運を」
「こちらこそ、ありがとうございます。道中、気を付けてくださいね」
エリシャは商人たちに深く一礼してから微笑み掛けると、すぐに踵を返してアルドの半歩後ろへ戻ってきた。
頬にはうっすらと紅。初めての手応えが、しっかりと残っているようだ。
森を抜ける風が、戦いの匂いを薄めていく。木漏れ日の粒が道に落ち、足音が二つ、軽く揃った。
アルドは空を一度だけ見上げてから、隣の少女へと視線を向ける。彼女はにこりと笑みを浮かべて、小首を傾げてみせた。
こうして、ふたりの初の討伐依頼は終わった。




