第65話 鎖竜との戦闘
鎖竜が最初の一歩を踏み出したのは、そんな配置が固まってから、ほんの数呼吸ののちだった。
石でできた前脚が、床を押し潰す。
ぎしり、と不快な音が広間いっぱいに響いた。鎖を何重にも巻き付けられた巨体が動く度、その重みで床石がひび割れ、細かな破片が周囲へ跳ね飛ぶ。
低く、喉の奥から唸り声が漏れた。石と金属が擦れ合う、混ざり合ったような響きだ。聞いているだけで、耳の奥が軋む。
やがて、その唇の裂け目に光が集まり始めた。
灰色がかった輝き──純粋な炎でも、冷気でもない。石粉と魔力が混じり合い、重たい霧の塊のようなものが口腔の内側で渦を巻いていくのが、魔力感覚越しに伝わってきた。
「来るぞ!」
エストファーネが短く叫んだ。
剣先をわずかに下げ、いつでも横薙ぎにできる高さに構え直す。
次の瞬間、鎖竜の口から灰色の奔流が吐き出された。
それは光線というより、押し寄せる暴風だった。
石粉と魔力の粒子が混ざり合った、重い風。ぶわりと広がる灰色の帯が、轟音とともに一直線にエストファーネへと襲い掛かる。
「ちぃッ……!」
エストファーネは、前に出るのではなく、一歩だけ斜めに滑った。
剣を振るう代わりに、右腕を突き出す。魔導金属で補強された篭手が、盾のように灰色の奔流を受け止めた。
ず、という、地面ごと削られるような感触が広間を揺るがす。
篭手に当たった灰色の風が軌道を逸らされ、エストファーネの脇を抜けて床に直撃した。
「……!?」
エストファーネが、思わず目を見開く。そこにあったはずの石が、一瞬で『砂』になっていたのだ。
削り取られた部分だけ、床が不自然に窪んでいた。
「これは……笑えないな」
苦笑いとともに、エストファーネが腕を引く。
篭手の表面には、細かな傷が何本も刻まれていた。防具ごと削り取ろうとする圧だったことが、そこからも見て取れる。
「ブレスというより……『削り取る風』か。食らえば、骨ごと持っていかれるな」
彼女の分析は、正確だ。
あれを直に浴びれば、肉も骨も形を保てないだろう。
アルドがそう見積もる間にも、灰色の余波が広間のあちこちにぶつかり、石壁の表面をざりざりと削っていった。
「我を守れ!」
すかさず、エリシャの声が走る。
彼女の足元の補助陣が、一瞬だけ強く光った。
薄い半球状の膜が、三人をまとめて包み込むように立ち上がる。灰色の霧の端がそこにぶつかり、じゅ、と音を立てて散った。
防御陣がなければ、飛沫だけでも肌を削られていただろう。
「エスト、下がってください!」
「問題ない。私を舐めてもらっては困るな」
エストファーネはそう言いながらも、アルドの方へ半歩だけ距離を詰める。
守りの線を崩さず、しかし前線を維持するための微妙な足運びだった。
防御を展開し終えるや否や、エリシャは次の詠唱に入っていた。
「氷よ、杭となれ!」
彼女の指先から、〈氷鎖杭〉が何本も撃ち出された。
単なる直線ではない。鎖竜の足元──石の脚と巻き付いた鎖の隙間を狙い、床へ打ち込まれるように軌道が制御されていた。
キン、と金属質な音が遺跡内に響く。鎖と石の接合部に氷杭が食い込み、瞬時に霜が広がっていった。鎖竜が一歩踏み出そうとした足が、わずかに鈍っている。
すかさず、エリシャは別方向からもう一本、鎖竜の関節にあたる部分へ釘を打つように、氷の束を撃ち込んだ。
(……もう言葉を削る感覚が身に付いているな)
アルドは、自分の足元で弾ける霧を払いながら、内心で感嘆の息を吐いた。
(無詠唱のほぼ一歩手前というところか。全く、天才というのは嫌になるな)
短縮詠唱は、言葉を削る技術だ。
意味に必要な最低限だけを残し、リズムと抑揚を再構成する。その感覚がここまで染み付くには、本来何年もかかるはずだった。
それを、彼女は、この短い期間でどんどんとぎすましていっている。
思わず、口元ににやりと笑みが浮かんだ。
感心してばかりもいられない。こちらも、相応の挨拶はしておくべきだろう。
アルドは片手を上げ、鎖竜へと掌を向けた。
言葉はいらない。世界に刻んである炎の文章から、必要な一節だけを引き出す。
手のひらの前に、小さな火球がふっと生まれた。
すぐに、二つ目がその隣に重なる。
それは単なる火球ではない。
重ねた魔力の層を何重にも圧縮し、内部に燃えるべき「酸素」まで詰め込んだ、上位の火。〈上位火球魔法〉だ。
意味を念じると同時に、二発の火が走った。
赤でも橙でもない、白に近い蒼炎の球体が、鎖竜の胸部へと飛ぶ。一発目が鎖ごと石の骨格を焼き、二発目が少し遅れて同じ箇所を貫いた。
轟、と遅れて爆ぜる音が遺跡内に響き渡る。鎖竜の巨体が、わずかに仰け反った。
その刹那、鎖竜の目に宿っていた黒い渦が、ぎょろりとこちらを向いた。
「……ちっ」
舌の奥で小さな疑問が漏れる間もなく、鎖竜は怒りの咆哮を上げた。
石壁が震え、天井の塵がばらばらと降ってくる。黒い命令文の断片が、目の窪みの中で激しく渦を巻いた。
その視線は、まっすぐアルドを射抜いている。
「ちょ、先生!? 先生はあいつの鎖の言葉を読んでください! 戦いは私たちでやりますから!」
すかさず、背後からエリシャの悲鳴まじりの叱責が飛んでくる。
弟子に叱られてしまった。
「……わかった」
口の端だけで苦笑しながら、アルドは一歩引いた。
その動きに合わせるように、エストファーネが前へ出る。前衛と後衛の線が、一呼吸のうちに入れ替わった。
「アルド殿は、案外見せたがりなのだな」
入れ替わる時に、エストファーネがそんな軽口を叩いた。
放っておけ。毎回弟子にいいところばかり見せられていたら、師匠の身としては焦るものがあるのだ。
(まあ、いい。俺の仕事をやろう)
再び視界の焦点をずらし、命令層へ潜った。
鎖竜の身体を走る鎖、その一つひとつに光る文字列が刻み込まれている。その上に、黒いインクのような命令文が後付けで貼り付いていた。
アルドは片手を軽く振り、鎖の一部へ無詠唱で冷気を送り込む。
氷の魔法を『言葉』からではなく、『概念』から直接引き出すのだ。鎖の一節だけが一気に白く凍り付き、石の骨格との接点でばきりと音を立てて割れた。
切断された鎖の端が床に落ち、重い音を立てる。
だが、すぐに周囲の鎖が収縮し、その役割を補おうとするように動いた。
(ふむ。局所的に凍らせて切り落とすくらいでは、全体の構造は崩れんか)
鎖竜が、怒りに任せたように頭を振る。
エストファーネが、その突進を読んで正面から剣で受け止めた。石と金属がぶつかる鈍い音が響き、彼女の足が床の上でずるりと押し込まれたように滑る。
「くっ……!」
それでも、エストファーネは崩れなかった。
彼女の腕力と技量が、なんとかその巨体の勢いを殺す。
その間にも、アルドは鎖を伝う命令層の流れを追った。
扉から鎖へ、鎖から竜の目の黒い渦へよ、命令文の供給源がどこにあるのかを探っていく。
「……扉から、黒い命令文が供給されているな。あれが奴の心臓か」
低く呟いた声は、自分自身に向けた確認でもあった。
黒い文字列が、扉の縁──先ほどまで膜が呼吸していた箇所から流れ出し、鎖を通じて鎖竜の全身へと送り込まれている。それは血液のように、絶えず循環していた。
(扉を叩き割るか、鎖全体の命令を書き換えるか。ただ、前者は最悪の手だな)
扉に直に手を出せば、何が飛び出してくるかわからない。それを避けたいからこその『門番』なのだとしたら、まず倒すべきは目の前の竜だ。
その時、命令層の流れに、別の『偏り』があることに気づいた。
(……ん?)
鎖竜の視線が、いつの間にかエリシャの方へと僅かにずれていた。
エストファーネと剣を打ち合わせながらも、その目の黒い渦が、隙あらばエリシャの位置を確認しようとしている。命令層の中にも、それをなぞるような一節が刻まれていた。
優先排除対象。
その後に続く言葉は、古い神代語の言い回しを無理やり翻訳したような、ぎこちない表現だったが──そこに込められている意味は、はっきりとしていた。
(……エリシャを優先しているのか?)
同調者。封印核と魔力を共鳴させた存在を、そう識別しているのだとしたら。
(封印核と共鳴した記録を、どこかで拾われていた、とか?)
理解と同時に、嫌な予感が、背中に冷たい汗を滲ませる。
「エリシャ!」
呼びかけようとした瞬間――鎖竜が、体を捻った。
ぎちぎちと鎖が鳴り、エストファーネとの鍔迫り合いをほんの一瞬だけ強引に振り切った。その巨体を横回転させ、向かった先は……やはりエリシャだった。
「――ッ!?」
エリシャの瞳が見開かれる。
鎖竜の胴を巻いていた鎖の一部が、鞭のようにほどけ、蛇のようにうねりながら彼女へと伸びてきた。
「我を守──」
彼女も反射的に防御陣を展開しようとする。
だが、僅かに間に合わない。鎖の速度が、その一歩先を行っていた。
鞭のようにしなった鎖が、エリシャの上半身を絡め取ろうと振り下ろされる。
しかし、その直前──アルドは考えるより先に、手を出していた。
エリシャの前に六角形の紋様が次々と重なり、鎖を弾く。
言葉を発することなく、「そうあれ」という意味だけを叩きつけて、〈魔法障壁〉を発現させたのだ。
金属が硬い板を打つような音とともに、火花に似た魔力の粒子が四散した。
防御障壁が、きしりと悲鳴を上げる。だが、もちろん破れない。アルドの〈魔法障壁〉が、この程度の鎖に負けるはずがなかった。
「下がれ、エリシャ!」
アルドは、ほとんど怒鳴るような声で命じた。
「ッ……す、すみません!」
エリシャは、驚きに目を丸くしながらも、すぐに踵を返した。
補助陣の範囲ギリギリまで後退し、再び両手を構える。その足取りに乱れはなかった。
代わりに、アルドが前へ出る。
鞭のように撥ね返った鎖が、再びこちらへ向き直った。
アルドはそれを迎え撃つように、いくつかの攻撃魔法を連続で放った。
圧縮した風の刃、骨ごと砕く衝撃の槍、鎖の関節だけを狙って凍結させる冷気。
どれも、本来ならひとつひとつ詠唱するべき上位の魔法だ。それを、意味だけを組み替える無詠唱で、数呼吸のうちに畳み掛ける。
切り裂かれた鎖の節が、床に落ちて弾む。砕けた石片が宙を舞い、鎖竜の動きが一瞬だけ鈍った。
その隙に、エリシャは距離を取りながら新たな防御陣を兼ねた陣形を整え、エストファーネも再び横合いから竜の足を狙って斬り込んだ。
(黒い命令文が、エリシャを〝鍵穴〟として認識している……?)
鎖の一部を凍らせ、切り落としながら、アルドはなおも命令層の流れを追う。
優先排除対象。
同調者。
門を開く可能性を持つ鍵。
(どういうことだ? 封印核と共鳴しただけの存在を、〝鍵穴〟として扱っている? それとも、エリシャには特別な力があるのか?)
そこまで思考が進んだところで、鎖竜が再び咆哮した。
灰色の風が渦を巻き、鎖が音を立ててうねる。
エストファーネの剣が火花を散らし、エリシャの防御陣が光を弾き返した。
答えを出すには、まだ材料が足りない。
だが一つだけ確かなのは──この黒い命令文の書き手が、エリシャを単なる通行人とは見ていない、ということは間違いなかった。
(狙われている、という自覚を持って動かせるしかないな)
アルドは歯を食いしばり、次の無詠唱の構文を組み上げた。
鎖竜の足元で氷が弾け、エストファーネの剣が鎖を断ち、エリシャの魔法陣が光を編む。
扉の前の広間で、人と竜と鎖とが入り乱れ、魔力と石粉の嵐が渦を巻いていた。
戦いは、まだ始まったばかりだった。




