第63話 新たな扉
どれくらいそうしていただろうか。
胸の奥に渦を巻きかけていた感情の色が、ようやく沈静してきたところで、アルドはゆっくりと瞼を開いた。
「よし」
小さく息を吐き、石段に両手をついて立ち上がった。
座ったままでは、いつまでも考えに沈み込んでしまう。足に力を込めて、自分自身を現実の重さへと引き戻した。
立ち上がったアルドを、エリシャとエストファーネが見上げる。
封印陣の淡い光が、二人の瞳に小さく揺れていた。
「確認しておきたいことがある」
アルドは、石段の縁に片手を置いたまま、静かに口を開いた。
ふたりを見下ろす位置から視線を巡らせる。そこに、迷いはあってもよかった。だが、決断の方向だけは曖昧にしてはならない。
「封印を緩めれば、下層が開くかもしれない。同時に、あの封印核をいじくった奴も何かしら動いてくる可能性もある。それでも行く、ということでいいな?」
設置室の空気が、再びわずかに張り詰める。
問いかけというより、最後の猶予の提示だった。ここで誰かが「やめよう」と言えば、それを理由に一歩退くこともできる。アルドが現場責任者として責任を負い、『依頼失敗』の烙印を押されても構わなかった。
「もとより、そのつもりだ」
先に応じたのは、エストファーネだ。彼女はそう言って、剣の柄に添えていた手に少しだけ力を込めた。
立ち上がり、鞘を軽く鳴らしながら一歩、前へ出る。
「下層が何であれ、ここまで降りてきた時点で、既に危険のど真ん中なのだろう? ならば、せめて何が起きているのかぐらいは見届けたい」
その言葉に、アルドは短く頷いた。
戦場の人間らしい、単純でいて揺るがない理屈だ。
「エリシャは?」
視線だけを隣へ送る。
呼びかけられたエリシャは、一瞬だけ胸の前で手を握り、すぐに開いた。
「はい」
迷いのない返事だった。
彼女は石段から立ち上がり、ためらうことなくアルドの隣まで歩み寄る。
封印陣の縁を踏まないよう注意しながら、肩が並ぶ位置まで近づいた、そのときだった。
僅かに歩幅を読み違えたのか、エリシャの手の甲が、アルドの指先に触れた。
「……っ」
僅かに掠っただけのはずなのに、そこに集中していた神経が、思わず身を固くさせる。
エリシャも、はっとしたように微かに肩を震わせた。
触れていたのは、一瞬。互いに反射的に手を引き、何事もなかったように距離を保つ。
何も言わない。
言葉にすれば、余計な意味が生まれてしまうからだ。
(落ち着け)
内心で自分を叱咤しながら、アルドは意識を前へ向け直した。
視線の先には、台座と、その上に据えられた木箱。そして、床一面に描かれた封印陣がある。
「位置につけ」
「は、はい」
頷くと、エリシャは先ほどと同じ位置へと移動する。
エストファーネは出入口側から一歩だけ踏み込み、ふたりの背中が視界に収まるぎりぎりの位置で止まった。剣の柄に置いた右手は、そのまま。左手は壁際と天井の穴、通路の暗がりへと視線を滑らせる。
アルドは中心へと戻り、台座の真正面に立った。
足元の線を一つひとつ確かめるように視線でなぞり、外環の符号、安全弁として刻んだ一文の位置を改めて確認する。
逃げ道は確保した。安全弁も、可能な限りのものは挿入している。それでもなお、これから行うことが「無傷で終わる」という保証は、どこにもなかった。それでも──。
「始めるぞ」
小さく息を吸い込み、右手を木箱の上へとかざす。
掌の下で、封印核が、微かな鼓動を返してきたような気がした。
目を閉じ、言葉ではなく『意味』を組み立てる。
さきほどは中身を覗き込むための可視化だった。これから紡ぐのは、その命令層に干渉し、『張力』を調整するための起動の一節だ。
(現状を保ったまま、張力を落とせ。結び目を保ち、弦だけを緩めろ)
世界に向けて、静かに、しかし確かに告げる。
無詠唱の式が、再び設置室の空間へと広がっていった。
足元の封印陣が、最初は弱く、やがてはっきりとした光を帯び始める。外環を走る符号がひとつずつ火を灯し、台座の縁に刻まれた神代語の字形が、薄く金色に浮かび上がった。
「……来るぞ」
エストファーネの低い囁きが、背後から届いた。
彼女の視線の先ではなく、空気そのものが、じわりと熱を帯びていくのがわかる。
エリシャは胸の前で両手を組み、深く息を整えていた。
アルドの無詠唱と同期させるために削り、再配置した楽句が、今か今かと舌の裏で待機させているのだろう。
封印核の脈動が、ゆっくりと高まっていく。
最初は、心臓の鼓動と見分けがつかないほど小さな振動だった。やがて、台座そのものが呼吸しているかのように、ごく僅かに上下し始める。
(まだだ。ここで一気に力をかけるな)
アルドは手のひらに込める魔力量を微調整した。
封印を管理する命令文に、いきなり圧をかければ、さきほど見つけた歪な部分にも同じように負荷がかかる。細く削られた脚から折れてしまえば、すべてが水泡に帰してしまうだろう。
だからこそ、慎重におこなわなけれならなかった。封印全体の『循環』を整えるように、魔力の流れを撫でていく。
安置室の壁と床が、低い振動音とともに微かに揺れた。
壁の継ぎ目に詰められた砂粒が、さらさらとこすれ合うような音を立てる。
天井の穴から落ちてきた細かな塵が、空中で震え、ゆっくりと舞い落ちた。
「揺れ……?」
エリシャが、思わず足元を見下ろす。
外環に描いた線が、震えの中でも乱れずに光を保っているのを確認して、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
アルドは、耳を澄ませた。
この揺れは、単なる魔力の偏りだけではない。封印構造そのものが、内部で姿勢を変えようとしている時の、特有のうなりだった。
「……聞こえるか?」
自分の声が、思ったよりも低く響いた。
アルド自身が問いながら、確かめるように天井の奥へと目を向ける。
遠く、守護獣の間のさらに奥。
あの光の扉があった方向から、鈍い鐘のような音が、かすかに伝わってきていた。
一度。し間を置いて、二度。
重たい扉に内側から拳を押し当てたような、鈍い衝突音が、石壁を通じてここまで届いてくる。
「扉が……応えてる?」
エリシャが、震える息を吐いた。
恐怖だけではない。未知へ手を伸ばしたとき、向こう側からも手が伸びてくる、その瞬間特有の戦慄だ。
アルドは木箱の上にかざした手のひらを、さらに少しだけ押し下げた。
張力を落とす方向へと、世界に告げた命令を強めていく。
(ここから先は、もう後戻りはできんぞ)
そんな内心の声を、意図的に無視する。
やると決めた以上、いま考えるべきは後悔ではなく、どうやって生きて抜けるかだけだ。
再び、鈍い鐘の音。
今度は、さっきよりもわずかに近く、大きく聞こえた。
新たな扉が、こちらの決断に応えるように──静かに目を開こうとしていた。




