第62話 覚悟と特別な想い
命令層の光が再び濃くなり、頭上に張り巡らされた『世界の文章』がはっきりと輪郭を取り戻したその時、アルドは静かに右手を下ろした。
「……一度、魔力の循環を整えようか」
短い一言とともに、彼は可視化の術式を解いた。
天井近くまで満ちていた淡い青と金の線が、すっと色を失い、霧が引くように空間から消えていく。
設置室は、たちまち現実の闇を取り戻した。封印陣の淡い光と、上方の穴から差し込む僅かな外光だけが、石の床をかろうじて照らしている。
急に静かになった空間で、自分たちの呼吸だけがやけに大きく響いた。
「……ふぅ」
エリシャが胸に手を当てて、ひとつ深く息を吐く。
命令層を直視し続けたせいで、彼女の頬は僅かに上気していた。
「少し休憩にしよう」
アルドはそう言って、魔法陣の外側の、一段高くなった石段に腰を下ろした。
長年の魔力の流れが削ったのか、角は丸く擦り減っている。冷たい石の感触が、衣の上からでも伝わってきた。
エリシャも少し遅れて隣に腰掛ける。
エストファーネはしばし周囲を警戒するように視線を巡らせていたが、やがてふたりから半歩ほど離れた位置に同じように腰を落とした。
それでも剣から手を離そうとはしない。柄に添えた指先は、いつでも抜ける角度を保ったままだ。
アルドは腰の水筒を外し、栓をひねった。
ひと口、喉を湿らせてから、無言でエリシャへ差し出す。
「ありがとうございます」
彼女は両手で受け取り、こくりと小さく飲んだ。
魔力を酷使した後の喉は、いつもより乾きやすい。ごくりと鳴る音が、妙に耳についた。
水筒はそのままエストファーネの方へと回る。
「ありがとう」
エストファーネは水をあおり、短く息を吐いた。
その横顔には、さっきまでとは別種の緊張や硬さが浮かんでいる。
しばしの沈黙。
三人の呼吸と、遠くから聞こえる遺跡の微かなうなりだけが、部屋を満たした。
「先生」
先に口を開いたのは、エリシャだった。
水筒を返し終え、胸の前で両手を重ねるようにしてから、少しだけアルドの方へ身を傾ける。
「先生、さっきの『誰かに見られているかもしれない』というのは……」
言いよどみながらも、瞳は真っ直ぐだった。
不安を打ち消したいからこそ、曖昧なままにはしておけない。そんな意志が、視線に滲んでいた。
「そのままの意味だ」
アルドは、水筒の栓を閉めながら、淡々と答えた。
「封印構造に細工をするというのは、世界の安定を壊す行為だ。普通の研究者なら、まず踏み越えない一線だろうな」
世界の骨組みに触れること自体、危うい。
そのうえ『壊れやすくする』など、本来なら口にすることさえ避けるべき領域だ。
「にもかかわらず、それをやる者がいる」
アルドは指先で石段を軽く叩いた。
自分自身も、その一線|のかなり手前をうろうろしている自覚はある。だが、さっき命令層に残っていた痕跡は、それとは違っていた。
「『何かを変えたい』か、『壊したい』か。どちらにせよ、明確な意図がなければできんことだ。……だからこそ、その意図を見極める必要がある」
興味本位で弄った、というだけの話では済まない。
さっき見つけた改変は、あまりに目的がはっきりしすぎていた。
「そのためには、この遺跡についてもっと深く知るしかないな」
アルドは視線を天井の穴へ向ける。
どれほど見上げても、そこから世界の骨格が覗けるわけではない。だが、あの奥に続いている命令文の層は、確かに存在している。
(興味本位だけなら、ここで引き返すべきだろうな)
心のどこかで、冷静な自分がそう呟く。
世界の奥に触れたいという欲求だけであれば、ギルドへの報告書に『危険性が高い』と一行書き足して、探索を中止にしてしまうのが一番賢いだろう。だが──。
(もう、それだけの話じゃない)
今のこれは、アルドとエリシャだけの『研究』ではない。
ギルドが非常事態として動き、学会も保身混じりとはいえ本腰を入れ始めている。前回の暴走では、街そのものが一歩間違えば消し飛んでいてもおかしくなかった。
ここで目を逸らすことは、単に好奇心を抑えるかどうかの問題ではない。引くに引けないところまで、とうの昔に来てしまっていたのだ。
そんなアルドの沈黙を計るように、一拍おいてから、エストファーネが口を開いた。
「私は学者でも魔導師でもないから、封印だの詠唱だのといった詳しいことはわからない。だが、前回の暴走で街がどうなりかけたかは、この目で見た」
低く、よく通る声だった。
彼女の視線は、アルドを真っ直ぐに捉えて離さない。
「もし誰かが意図的に封印を壊そうとしているなら、知らないままの方が余程怖い」
安易な勇ましさではない。
わからないからこそ放っておけない、という数多の戦いを経験したからこそ出てくる騎士の言葉だった。
「……引いてもいいぞ。お前は俺たちの我儘に付き合わされているだけだからな」
アルドは、あえてそう告げた。
ここから先は、研究や依頼を越えて、賭けに近くなっていく。学会連中のお守りが嫌だという理由で護衛兼監査として連れてきた相手にまで、その責任を押し付けるわけにはいかなかった。
だがエストファーネは、ふっと鼻で笑っただけだった。
「バカを言うな。だからこそ、私はあなたたちに付き合うと言っているんだ。危険があるのに見てみぬふりをするなど、騎士の名折れだろう?」
その言い草に、アルドは思わず肩の力を抜いた。
隣でエリシャも、ほっとしたように微笑を浮かべる。
三人の視線が、短い時間だけ重なった。
それだけのことなのに、不思議と胸の内側に、ひとつ共有された火が灯るような感覚があった。
同じ危険を引き受ける、と言ってくれる者がいる。
それが、どれほど稀有なことか。
学院で過ごした年月の中で、アルドは嫌というほど思い知らされている。
「……ありがとうございます、エスト」
エリシャが、素直な礼を口にした。
その声には、友人への信頼と、同じ場に立つ仲間としての敬意が込められているように思えた。
その流れのまま、エリシャは一度だけ膝の上で拳を握り締めてから、改めてアルドの方を向いた。
「私は……先生が進むなら、どこまでも一緒に行きます」
彼女の声音は、いつもより少しだけ低かった。
震えはない。迷いもない。ただ、自分の意志を置くだけの調子だ。
「封印を緩めるのが世界への『罪』だとしても……その罪を、先生ひとりに背負わせるつもりはありません」
その一文が落ちた瞬間、アルドの胸の奥で、何かがきゅっと締めつけられた。
弟子としての忠誠──それだけでは説明がつかない重さが、彼女の言葉にはある。『師だから守る』ではなく、『あなたがやると言うから、一緒に背負う』という質のものだ。
(……危ないな)
思わず、視線を逸らす。
冷えた石壁と、磨耗した床の模様を意味もなく眺めて、呼吸を整えた。
ほんの刹那、エリシャを「弟子以上」の何かとして意識してしまった自分がいた。
それがどういう感情なのか、名前を付けようとすれば、きっとろくなことにならない。いや、もしかすると、もっと前からその感情を持っていた。以前の封印刻の暴走の時に、それを嫌という程感じた。
(……今考えるべきことじゃないか)
アルドは、自分自身に言い聞かせるように目を閉じた。
やるべきことはひとつだ。世界の骨格に刻まれた歪みを見つけ、正しく扱う。そのために必要なのは、感傷ではなく、冷静さと技術だけ。
胸の奥に生まれかけた余計な色を、ひとつひとつ丁寧に押し込めていく。
封印陣の淡い光が、まぶた越しに静かに揺れていた。




