第61話 見覚えのある文体と、誰かの視線
アルドの号令に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
エリシャはすぐに魔法陣の内側へ移動し、台座の少し手前、指定された位置に立つ。
エストファーネは出入口側から一歩だけ足を踏み入れ、ふたりの背中が視界に収まるぎりぎりの場所で止まった。剣の柄に添えた手を離さないまま、壁際と天井の穴、通路の闇を順繰りに見張っている。
中心に立ったアルドは、深く息を吸った。
「……まずは、現状の確認からだ。封印核の中身を、覗かせてもらう」
誰にともなくそう告げてから、台座の上の木箱に右手をかざす。
目を閉じ、言葉ではなく「意味」だけを組み立てる。
(姿を見せろ。命令文の層を、ここに引き出せ)
無詠唱の式が、静かに展開する。
空気の密度が、わずかに変わった。
次の瞬間――安置室の中央に、淡い光の線がふっと浮かび上がった。
それは一本の円から始まり、そこから枝分かれするように、無数の線が上下左右へ伸びていく。細い線と太い線が幾重にも重なり、天井近くまで及ぶ立体的な網を形作る。
「……わぁ」
エリシャが、小さく息を呑んだ。
白い線ではない。淡い青や金の光が、薄い霧のように空間を満たしている。円、螺旋、直線。複雑に絡み合ったそれらが、ゆっくりと脈打ちながら意味を送り合っているのがわかる。
アルドは視界の焦点を少しだけずらした。
物理的な部屋の輪郭が遠のき、代わりに『命令文の層』が、より鮮明に見えてくる。
「綺麗……何度見ても、これは魔法というより『文章』ですね」
彼女は見上げながら呟いた。
頭上に浮かぶ光の束に、思わず手を伸ばそうとして、それを途中で止める。その仕草に、子どものような純粋さと、研究者としての慎重さが同居していた。
「そうだ。世界を説得するための文書だな」
思わず、口元に笑みが浮かぶ。
この弟子は、本当に余計なところで本質を突く。
(魔力の流れではなく、「文体」として見るあたり、やはり向いているんだろうな)
命令層の可視化は、本来なら学院でも限られた講義でしか扱わない高度な技術だ。
魔力に敏感すぎる生徒に見せれば、それだけで酔ったように倒れることもある。
だが、エリシャは違う。眩しさに目を細めながらも、一語一句を読み取るかのように、光の線を追っている。
「さて、次は……む?」
全体の構造をざっと眺めてから、アルドは視線を外周へと滑らせた。その途中で、ふいに言葉が途切れる。
外環の一部──さきほど魔力を通した箇所だ。白墨で描いた新しい線と、石に刻まれた古い線。その上に、今は命令層の光が重なっている。
そこだけ、ほんの僅かに、光の揺れ方が違った。
(この線は……)
アルドは片手を上げ、空中の光の一部を指先で弾くように撫でた。
命令層を可視化している術式に、軽く手を加える。
「ここ」
アルドがそう囁くと、示した部分の光が他より濃くなり、色調がゆっくりと変化していく。
淡い青白だった線が、そこだけ薄い琥珀色に染まった。
「元の封印命令文とはリズムが違う」
その一言に、エリシャがはっと顔を上げる。
「リズム……ですか?」
「ああ」
アルドは琥珀色に染まった部分の周囲を、指先でぐるりとなぞった。
強調された線が、ひとつの輪郭を成して浮かび上がる。
神代語由来の命令文は、本来きわめて厳格な、対句構造を持つ。一本の鎖を作るとき、必ず「始まり」と「終わり」が対になり、その間の節も一定の間隔で並ぶように作られている。だが──。
「ここだけ、節の間隔が不自然に詰められている」
琥珀色の線の一部を軽く弾く。
その箇所だけ、光がぎゅっと凝縮するように集まり、負荷が一点に偏る様子が見て取れた。
「本来均等に分散されるはずの張力が、この節だけに集中するように組み替えられている。しかも……見覚えがある形だ」
脳裏に、あの時の光景がよぎる。
封印核が黒く染まり、周囲の命令文が黒い鎖となって踊り出した瞬間――その中に紛れていた、余計な命令構造。
あれもまた、こうして一点に負荷を集めるような、歪な作りをしていた。
「先生、ちょっと待ってください」
エリシャが慌ててノートを開く。
ぱらぱらとページをめくり、フィルから受け取った資料の写しがある箇所で指を止めた。
「ここです。前に先生が、封印核暴走時に見抜いた『外部からの命令文』のパターン、私、簡単に図にしておいたんですけど……」
彼女はノートを抱えたまま、命令層の光を見上げる。
視線を、何度もノートと光の線との間で往復させた。
「……これ、その命令文とかなり似てませんか?」
エリシャの声には、興奮と、僅かな戦慄が混じっていた。
アルドは小さく息を吐き、琥珀色の線をさらに拡大する。文字列に相当する細かな揺らぎが、よりはっきりと見えるようになった。
古い神代語の節が、いくつも連なっている。
ただ、その間に挟まれたごく短い一節だけが――。
「……ああ。ここだけ文体が違うな」
そこにあるのは、原初の書き手が残した厳格な文ではない。
あとから誰かが、現代人の感覚で「それっぽく」書き足したような、微妙な歪さだった。
アルドが呟くと、背後から低い声が飛んできた。
「つまり、これは……誰かが封印を壊れやすくした痕跡、ということか?」
エストファーネだった。
彼女は出入口のところから一歩だけ踏み出し、頭上の命令層を見上げている。剣の柄を握る指先に、僅かに力が籠っていた。
「ああ」
アルドは短く頷いた。
「本来なら均等に荷重を分散させるはずの命令文を、わざと特定の節に重く載せている。封印核で言えば、四本ある脚のうち一本だけを細く削って、全体の重さをそこに集中させているようなものだ」
指先で、琥珀色に染まった線をもう一度なぞる。
そこだけ鎖の輪が痩せ、軋む音が聞こえてきそうな細さになっていた。
「少しでも外部から魔力をぶつければ、簡単に暴走側へ傾くような設計だ。封印を強くするための補強じゃない。壊すための、細工だな」
「やっぱり……先生以外にも、世界の言葉に触れられる存在がいると過程した方がいいですね」
隣で、エリシャが小さく息を呑んだ。
アルドは横目で弟子を見やり、肩をすくめる。
「ああ。ただしこれは、完全な神代語の筆致ではない」
「え?」
「元の封印文を書いた連中と同格、とは言い難い。原文を読めるだけの素養を持った誰かが、あとから拙い手つきで改変したように見える」
古い層は、芯の通った筆致をしている。
リズムも対句も、どれだけ負荷をかけても壊れないよう計算され尽くしていた。
だが、その上から乗せられた一節だけが、どこか辿々しい。
(文法だけは外していないが、呼吸が合っていない……そんなところか)
アルドが内心で評しながら黙っていると、エリシャは既にノートを開いていた。
命令層の光のうち、該当部分だけを視界に固定し、素早くペンを走らせていく。
「この改変部分だけ、写し取っておきますね」
短い一節を、何度も確認しながら書き写す。
神代語の字形を崩さずに記録するため、ペン先の動きはいつになく慎重だった。
「リーヴェに戻ったら、フィルさんにも見てもらいましょう。……先生? どうかしましたか?」
ふと顔を上げたエリシャが、怪訝そうに首を傾げる。
アルドがいつの間にか眉間に深い皺を寄せて、命令層を睨み上げていたからだ。
「いや……」
言い淀み、額に触れていた指をそっと下ろす。
「封印に手を入れられる者がいるなら、封印をゆるめるこの儀式も、どこかで見られている可能性があると思ってな」
頭上の光の網は、こちらが覗き込んでいるはずなのに、逆に見下ろされているような感覚を伴っていた。
世界の骨格に刻まれた文書は、本来なら誰の意志も介在しない「背景」だ。だが、そこに他人の筆跡が紛れ込んでいるとなれば、話は違ってくる。
「じゃあ、今この瞬間も……?」
エリシャが、小さく身震いした。
視線が、反射的に天井の小さな穴や、暗い通路の奥をさまよう。
「今ここにいるのが人間かどうかはともかくとして、だ」
アルドは冗談めかす余裕もなく、乾いた息を吐く。
「命令文の層に手を入れたことがあるなら、同じ層で起きている変化にも気づきやすい。俺たちがこれからやることも、どこかで『観測』されている可能性はある」
「……あまり、気持ちのいい話ではないな」
出入口の方で、金属がかすかに鳴った。
エストファーネが剣の柄を握り直し、足幅をわずかに広げる。
「見られているならなおさら、こちらも覚悟を決めておいたほうがよさそうだ」
彼女の横顔には、恐怖よりも、戦場に立つ者の静かな決意が浮かんでいた。
誰に見られていようと、自分のやるべきことは変わらない──そう言っているようだった。
(……そうだな)
アルドは命令層の光を見上げたまま、喉の奥で小さく笑った。
世界の骨格に細工をする者と、アルドたち。どちらが先に『全体像』へ辿り着くか──それは、時間との勝負でもある
その考えに応じるように、頭上の命令層がふっと明度を落とした。
一瞬だけ、光の線が細くしぼみ、部屋の空気が重く沈む。そして、再びゆっくりと明るさを増していった。
淡い青と金の線が、今度はさっきよりもわずかにくっきりと、部屋の中心に『世界の文章』を描き出していた。




