第59話 儀式開始
木箱に触れていた魔力の流れを、アルドはいったん細く絞った。
封印陣そのものに手を入れる前に、やるべきことがある。
「いや……まずは、復習しておくか」
独り言めいた声を落として、アルドはコートの内ポケットに指を滑り込ませた。
フィルから託された封筒とは別に、薄く折り畳まれた羊皮紙の束が出てくる。
「それ……フィルさんの?」
「ああ。ノア=セリアの儀式文だ。オリジナルの神代語と、過去の研究者たちがつけた注釈付きの写本を預かっている」
アルドは台座から一歩離れ、床の比較的平らな場所を選んでしゃがみ込んだ。
羊皮紙を丁寧に広げると、古いインクの匂いが、冷たい空気の中に微かに混じる。
薄茶色に焼けた紙面には、流麗な筆致で神代語の行が並んでいた。
その合間を縫うように、別の時代の書き手たちが書き加えた注釈が、細かい文字でびっしりと埋め尽くしている。
「先生、私も……」
エリシャがすっと傍らに膝をついた。
膝を揃えて座り、小さなノートを取り出す。
ぱらりと開かれた白紙のページの上に、ペン先がちょこんと構えられた。
「逐一書き取る気か」
「はい。帰ったら、全部写して整理したいので」
「物好きめ」
口では呆れたように言いつつ、アルドは少しだけ紙面をエリシャ側に寄せてやった。
天井の穴から差し込む光が、羊皮紙の上に淡く落ちる。
その光の帯の中で、神代語の行がゆらぎ、黒いインクがわずかに銀色を帯びて見えた。
「……さて。目的の確認からだ」
アルドは一本の行を指先でなぞり、その先に走る古い注釈へ視線を滑らせた。
「フィルの資料によれば、俺たちがやるべきことはひとつ」
指先が、神代語の文字列をとん、と軽く叩く。
「『封印核とノア=セリア本体の連結を復元すること』だ」
エリシャのペンが、さっそくその文言をノートに書き写す。
その横には、彼女なりの簡単な図がちょこんと描き足されていく。
「ただし――」
アルドは、その下に書かれた別の神代語行を指差した。
「『完全封印』ではない。ここに書いてあるのは、『結ぶ』の文だ」
「『結ぶ』……?」
エリシャが首を傾げる。
「学院で習う封印術の文例だと、この部分はたしか『縛る』でしたよね?」
「そう。だが、そこが問題だ」
アルドは、神代語の一文字を軽く叩いた。
「ここに使われている字形は、『縛る』ではない。『結ぶ』だ。似ているが、意味が違う」
神代語の世界で、「縛る」と「結ぶ」は似て非なるものだ。
前者は、対象の自由度を限りなくゼロに近づける行為。力任せに鎖で括り上げ、動きを封じるイメージに近い。後者は、ふたつ以上のものの関係性を定義し直す行為だ。
結び目を作ることで、「このふたつは一組だ」と世界に宣言する。
「この封印文の目的は、封印核を鎖で吊るすことじゃない。ノア=セリアそのものの『骨組み』と、封印核をもう一度『結び直す』ことだ」
エリシャのペンが、一拍遅れて止まる。
「……ええと、つまり?」
「簡単に言えば、こうだ」
アルドは指先にわずかに魔力を込め、羊皮紙とは離れた床の上に、小さな光の線を描き出した。
一本の縦線の上に、点を打つ。
「これがノア=セリア本体の命令文。世界の骨格に直結している『柱』だと思ってくれ」
次に、少し離れた場所に小さな光点を置く。
「これが封印核だ。今の状態だと、このふたつはほとんど繋がっていない。だから、核をいじっても本体には干渉しにくい」
縦線と光点の間に、細い線を一本結んでみせる。
「封印儀式でやるのは、本来ならここに『縛る』文を付け足して、この線を鉄鎖のように固くすることだ。核をがっちり縛りつけて、本体と一体化させてしまう」
「それが、『完全封印』……」
「そうだ。だが、フィルが設計したのはそれじゃない」
アルドは光線を一度消し、今度は少し弛んだ曲線で縦線と光点を繋いだ。
「彼が目指したのは、『結ぶ』方だ。完全に固めるのではなく、最低限の接続だけを復元する。弦楽器の弦のように、少しだけ張っておく程度にな」
「張る、けれど……張りすぎない?」
「ああ。全体の張力を意図的に落とす」
アルドは、羊皮紙の別の行に視線を移す。
そこには、古い時代の研究者の注釈が、かすれた文字で書き込まれていた。
──封印を弱め、内部調査の便を図るための仮接続儀式。
「もともとこの儀式は、封印核を設置して封印を弱め、学会が遺跡内部の調査をやりやすくするためのものだ。だからこそ、遠いところからわざわざこちらに運んできたのだからな」
だが、持ち込む過程で問題が起こった。それが、この前の暴走事故だ。
暴走事故のあとで開かれた会議では、封印核の保管方法についてもさんざん議論がなされたようだ。封印核を遺跡から切り離し、街の近くで保管しておくやり方こそが、もっとも危うい――というのが、最終的な結論だったらしい。……もっとも、それでも調査そのものをやめるという発想には、誰ひとりとして至らなかったようだが。
「完全に閉じた箱では、中身を覗けない。だから、ほんの少しだけ蓋をずらす。……本来なら、その『ほんの少し』を守るために、何十枚もの安全装置が重ねてあるはずなんだがな」
エリシャは、ペン先を止めて息を呑んだ。
「封印を弱めた先に、さっきの……下層への道があるんですよね?」
「おそらくな」
アルドは短く頷き、羊皮紙の別の箇所を指し示す。
「ここの神代語の塊、読めるか?」
「えっと……『下に道を』ですか?」
「惜しい。最後の字形は『道』じゃない。『式』だ」
彼は、文字の一画をなぞる。
「『下面へ通じる式を、一時的に有効化する』。そう書いてある」
エリシャの瞳が丸くなる。
「つまり……」
「儀式が成功すれば、さっきの扉は完全に形を成す。その向こうにある『下層』への経路が、開くということだ」
言葉にしてみると、あまりにもあっけない。
世界の深層──命令文の原盤に、今よりもう一歩近づく道が開く。
研究者としてなら、胸が躍る話だ。
だが、それだけでは済まない。
「アルド殿」
出入口のところで警戒していたエストファーネが、低い声で呼びかけてきた。
部屋の隅々まで視線を巡らせたまま、こちらを一瞥する。
「悪いが、私は話の半分も理解できてはいない。だからこそ、ひとつだけ確認したい」
「なんだ」
「要するに、この儀式とやらをやれば、封印が弱まり、『下』が開く。だが、封印を弱めるということは、それだけ危険も増す、ということか?」
核心を突いた問いだ。
アルドは羊皮紙から視線を上げ、エストファーネを真っ直ぐ見た。
「それはやってみないことには何とも言えん。ただ、一応学会側はそうはならないと踏んでいる、とだけは言っておこう」
「……あの暴走を見てからだと、何とも心許ない見解だな」
エストファーネは短く息を吐いた。
「言いたいことはわかるが、そういう依頼だからな。何も起こらないことを、祈っておいてくれ」
「わかった。私は君たちの護衛だからな。いざと言う時は、また盾にでもなるさ」
それだけ言って、エストファーネは再び視線を廊下へ戻した。
剣を抜くでもなく、しかしいつでも抜ける位置に手を置いたまま、遺跡の息づかいを全身で聞いている。
彼女の背中を一瞬だけ見つめ、それからアルドは再び羊皮紙へ視線を落とした。
「……続けよう」
神代語の行と、現代語の注釈。
過去の研究者たちが、どこで間違え、どこで正しく読み取ったか。それを一つひとつ吟味しながら、アルドは指先で文字を追っていく。
「ここ。『縛る』じゃない、『結ぶ』だと言った箇所の続きだが……」
指が、ある一文の上で止まった。
「この補注を書いたやつは、『結ぶ(ゆるく)』と補っている。……わざわざ括弧書きまでしているあたり、よほど慎重だったらしい」
「ゆるく……?」
エリシャはその語をノートに大きめの字で書き、その横に丸で囲った。
「ここからここまでが、『結び直し』の文。で、ここの一文だけが、フィルの命令文と食い違っている」
アルドは、羊皮紙の端、比較的新しいインクで書き足された部分を指し示した。
そこには、フィルの癖のある筆致で、短い一文が加えられている。
──『ここだけ、原文ではなく再解釈。安全弁として挿入』。
「安全弁?」
「そうだ。封印核を設置して封印を弱める――それ自体は、原初の儀式にも含まれている。だが、学会が使っていたバージョンでは、安全装置がさらに何重にも追加されていたらしい」
アルドは、フィルの書き込みをなぞる。
「この一文を入れることで、封印全体の張力が一定値以下に落ちた場合、自動的に『元に戻る』ようになっている」
「どういう意味ですか?」
「つまり、過度に封印を弱めた場合、遺跡が自分で『締め直す』。ゴム紐を伸ばしても、限界まで引っぱりすぎると、ぱちんと戻ってくるだろう?」
「なるほど……わかりやすいです!」
エリシャは頷きながら、ノートに『安全弁』『自己修復』などと走り書きしている。
「ただ、問題は――」
アルドは視線を扉の方向へ泳がせた。
「この安全弁が、さっきの『下層への道』にも同じように働くかどうかわからない、ということだ」
「……下層の扉は、一度開いたら勝手には閉じてくれないかもしれない、ってことですか?」
「少なくとも、ここには『扉は自動で閉じる』とは書いていないからな」
羊皮紙をぱらりとめくる。
どこを探しても、「自動閉鎖」の一文は見当たらない。あるのは、「一時的な有効化」と、「上層の張力を再調整する」旨の文だけだ。だか、それも仕方ない。そもそも、あの下層への扉を初めて見たのはアルドたちだ。学会は存在すら認知していない。
「……先生」
エリシャが、不安と期待が混じった声で呼びかけた。
「もし、誰かが昔、この儀式を完璧に成功させていたとしたら……もう一度、同じことが起きるってことですよね」
「そういうことになる」
世界の骨格に刻まれた鎖を、一度ゆるめれば、その経験はどこかに残る。
神代語の命令文は、上書きではなく追記の形で世界に刻まれることが多い。
同じ手順を踏めば、同じ結果が呼び出される可能性が高い。
「だからこそ、細部を間違えるわけにはいかん」
アルドは、エリシャのノートに視線を落とした。
そこには、先程からのやり取りがびっしりと詰まっている。
神代語の字形のメモ、現代語の意訳、自分なりの図解。
「エリシャ。ここの『結ぶ』の字形と、石像の胸部に刻まれていた命令文の一部、似ていると思わなかったか?」
「あ……」
エリシャが目を見開く。
「『守れ』を『鎮まれ』に書き換えた時の……あの、最後の一文、ですよね」
「そうだ。あの時も、俺は『縛る』ような文を避けて、『結ぶ』に近い文を選んだ。遺跡そのものを鎖で押さえつけるのではなく、『静けさ』と『ここ』を結びつける道を増やした」
守護獣の胸に手を突っ込んだ時の感覚が、指先に蘇る。
冷たい石の向こう側で、世界の命令文がざわりと動いた手応えが、確かにあった。
「今やろうとしているのも、それに近い。封印核とノア=セリア本体の間に、『緩い結び目』を作る。その結果として、全体の張力を落とし、封印の効力を弱める」
「そう聞くと……何だか、すごく綺麗な仕組みに聞こえます」
「紙の上ではな」
アルドは肩をすくめた。
「問題は、紙の上で綺麗に見える仕組みほど、現実ではろくでもないことになりやすいという点だ」
エリシャが苦笑する。
「でも、先生はわざわざそのろくでもないことをやりにきたんですよね」
「否定はしない」
研究者としての自分と、魔導士としての自分。
その両方が、今この場で同じ方向を指し示している。
フィルが残した命令文。
ノア=セリアの奥に眠る『誰か』の痕跡。
そして、世界の仕様書そのものに手を伸ばす、稀有な機会。
(まったく……)
アルドは、羊皮紙の端を丁寧に揃えながら、内心で呟いた。
「世界の骨格に刻まれた鎖を、一時的にゆるめる行為だ」
ぽつりと口をついて出た言葉が、石の部屋に小さく反響する。
「研究者としては垂涎の機会だが――冒険者としては、かなり質の悪い賭けでもある。どうなるか、さっぱり見当がつかんのだからな」
アルドは苦い笑みを浮かべてみせた。
エリシャは、その言葉をそのままノートに書き写し、そっと蓋を閉じる。
台座の上では、まだ封印を解かれていない木箱が、静かに沈黙を保っている。その下で、封印核とノア=セリア本体とを結ぶ鎖が、遠いところで微かに震えているような気がした。




