第57話 新たな扉、出現
広間の空気が、かすかに震えた。
遺跡の奥から届いていた鼓動のリズムが、一拍ぶんだけずれたような感覚。石像の胸部から漏れる淡い光が、ふっと強まり、次いで沈んだ。
その揺らぎに、アルドは思わず顔を上げた。
石像を挟んだ向こう側、広間の最奥。暗がりに沈んでいた壁面に、細い何かが浮かんでいる。
最初は、目の錯覚かと思った。
光源から伸びたただの反射光──しかし、そう片付けるには、あまりにも輪郭が整いすぎている。
黒い石壁のど真ん中に、一本、縦に走る薄い光の筋。
それは、まるで闇に切り込まれた亀裂に、別の世界の光が滲み出ているかのようだった。
「おい……あんなもの、前はあったか?」
アルドは、視線をそこから離さないまま、エストファーネに声をかけた。
「いや、なかったな」
女騎士は即座にそう答え、顎で最奥を示す。エリシャも、自然とそちらへ意識を向けた。
石像の頭上をかすめるように、薄い光の筋が、静かに壁を縦に断ち割っている。最初は細い一本だったそれが、じわじわと幅を持ち始めた。
光は、真っ直ぐでありながら、どこか脈動している。
鼓動に合わせてわずかに明滅し、そのたびに輪郭が濃くなった。
(扉の……形、か)
近づくにつれ、アルドにはそれがただの線ではないことがはっきりしてきた。
一本の縦の筋の両脇に、さらに薄い光がじわじわと滲み出る。横にも短い光が伸び、四角形の枠を描き始めた。
壁一面に、縦長の「枠」が浮かび上がる。それはまるで、石そのものが自らの輪郭を描き直しているかのように。
「アルド殿」
エストファーネが半歩前に出かけてから、アルドの横顔を見て足を止めた。
「俺が見る。悪いが、ここで待っていてくれ」
アルドは短くそう告げた。
こういう未知のものに、複数人で一度に近づくのは危険だ。一人が触れて問題があれば、残りが退くなり対処なりをすればいい。
エストファーネは躊躇いがちに眉を寄せ、しかし最終的には頷いた。
「わかった。異常があれば、すぐに下がれ」
「そのつもりだ」
エリシャも木箱の側に立ったまま、不安そうにアルドを見上げた。
「先生、気を付けてくださいね……」
「ああ」
短く返し、アルドはゆっくりと光の枠へ近づいていった。
足元の文様を踏まないように、円陣の縁をなぞるように進む。石像の横を通り抜ける時、その巨体がほんの僅かに温度を帯びていることに気付いた。
(やはり……完全に止まっているわけではない、か)
守護獣の胸の陣から漏れる光と、最奥の『扉』の輪郭。
ほんの僅かだが、その明滅のタイミングは一致しているように見える。
近づいてみて、アルドは目を細めた。
そこは、本来なら一枚の岩壁で塞がれているはずの面だ。
前に来たときには、確かにただの石だった。削り跡も、ひび割れも、特に変哲のない古い壁だったように思う。
だが今、その中央に、半透明の板のようなものが埋め込まれていた。
透明ではない。
けれど、周囲の石よりもわずかに薄い色合いで、向こう側の闇が透けて見えているような、不思議な質感。
その表面を、細かい紋様の群れが、絶え間なく流れていた。
糸よりも細い線が絡まり合い、ほどけ、また別の形へと組み替わっていく。水面に落ちる雨の波紋を、延々と逆再生しているような、落ち着かない動きだった。
「先生……」
いつの間にか、エリシャもついてきていたらしい。
待っていろと言ったのに、と思いつつも、この好奇心旺盛な弟子が、未知の前に大人しく待っているわけがなかった。
彼女の息を呑む気配とともに、小さな声が広間に落ちる。
「これ……まるで遺跡そのものが、何かを起動したみたいじゃないですか?」
「もしかすると、俺が命令を書き換えたからかもしれんな」
アルドは視線を半透明の板から離さずに答えた。
石像の胸部に刻み込んだ、新しい命令文──『守れ』から『鎮まれ』へと変えた時、守護獣単体の命令だけでなく、この遺跡全体の管理文のどこかに手を入れた感触があった。
それがすぐには表に出てこなかっただけで、時間をかけて遺跡全体に波及し、今ようやく『扉』という形を取って現れているのかもしれない。
「エストファーネ。前に来た時、ここはどう見えていた?」
振り返りもせずに問うと、騎士の声が少しだけ響きを変えて返ってくる。
「ただの壁だった。文様が刻まれてはいたが、こんなものはなかったと断言できる。さすがに、あれば気付くからな」
「だろうな。俺もそうだ」
アルドは改めて『扉』を見据えた。
半透明の板の縁を形作る光の枠は、すでに明確だ。
縦長の直方体。木箱が通れるくらいの幅はある。
表面を流れる紋様の一部が、微かに形を結び始めていた。
(神代語……であることは間違いないが)
読める、とは言い難い。
だが、意味の断片や、文の構造は、以前よりも鮮明に感じ取れるようになっていた。
あの石像の胸に手を突っ込み、命令文を書き換えた時、世界の深層に染み込んでいる言葉の『匂い』が、手から腕へ、そして脳へと逆流してきた。
(あれ以来、こういう『文』の気配がやけに馴染む)
それを成長と呼ぶべきなのか、汚染と呼ぶべきなのかは、まだ判断を保留しておきたいところだった。
「先生、どうします? 触ってみますか?」
「そうだな……その前に、少しだけ」
エリシャの声に、アルドは軽く顎を引いた。
右手を上げ、扉の前の空気を撫でるように魔力を流した。
薄い膜のような抵抗が、指先に触れる。
(開閉機構に直結している結界ではない。……触れた瞬間に吹き飛ぶ、という類の罠でもなさそうだ)
とはいえ、遺跡そのものの防御反応がどれほどのものか、試してみるわけにもいかない。
「そこから先は、私が──」
エストファーネが立ち上がる気配を見せたので、アルドはそれを手で制した。
「必要ない。ここは『扉』だ。剣の出番ではない」
「……そうか」
彼女は渋々といった様子で腰を落ち着ける。
アルドは、自分の呼吸のリズムを整えた。
右手を、ゆっくりと扉の表面へ近づけていく。
半透明の板に指先が触れようとした、その刹那。
低い唸りのような振動が、扉の奥から響いた。
「──ッ!」
石そのものが鳴っているわけではない。もっと深いところで、何かが共鳴していた。扉の表面を流れていた紋様が、一瞬だけ動きを止めたかと思うと、すぐに逆方向へ流れ出す。
それは、まるでこちらの介入を拒むような、反射的な防御のようでもあった。
アルドは、指先を板から僅かに引いた。
それだけで、振動は少し弱まる。
「先生!?」
「大丈夫だ。触れてはいない」
扉の板を通して伝わってきたのは、『まだだ』という意思にも似ていた。
勝手に踏み込むな──そう言われているような感覚。
アルドは扉から一歩退き、全体を見渡した。
石像の胸の光、床の陣、壁の文様。
そのすべてが、今やこの半透明の板に向かって、微かに流れをつくっている。
(封印核本体と、この扉は同じ系統の命令文で繋がっている。今見えているのは、その『枠』だけか)
核が本来の位置に戻れば、ここに書き込まれている文は、完全な形を取る。
その時、扉は真に「扉」として機能し始めるだろう。
「封印核を本来の位置へ置けば、この扉も開くだろうな。問題は……その先に、何が待っているかだが」
思考が言葉となって、ぽつりと漏れた瞬間。扉の表面を流れていた紋様の一部が、ふいに結び目を作った。
揺らめく線が、ほんの一瞬だけ、意味のある字形を象る。それは階段を表す象形のようであり、また「下」を指し示す矢印のようでもあった。
すぐにその紋様はほどけて流れ出したが、アルドの目にははっきりと焼き付いていた。
──この扉の向こうは、『下層』だ。
もっと深く、もっと暗く、世界の命令文に近い場所へと続いている。
扉の板は、何事もなかったかのように、ただ静かに脈動を続けていた。




