第52話 黒い命令文
会議室の扉が開き、ひんやりした廊下の空気が流れ込んできた。
紙とインクの匂いに満ちた空間から一歩外へ出るだけで、肩に乗っていたものがほんの少しだけ軽くなる気がする。
アルド、エリシャ、エストファーネの三人が順に廊下へ出たところで、背後から軽い声が飛んできた。
「お疲れ様」
振り向けば、書類の束を脇に抱えたアリアが、冗談めかした笑みを浮かべていた。
「これで、うちの最強トリオが正式に誕生したってわけね」
「私はあくまでも監査役だ。このふたりとパーティーというのは、さすがに烏滸がましいものがある」
エストファーネが即座に眉を顰める。
その声音には謙遜半分、本気半分の硬さがあった。
「あら。でも、監査役がただの口実だっていうのはあなたもわかっているでしょう?」
「まあ、それはそうだが」
エストファーネは観念したように苦笑し、肩を竦める。
エリシャはというと、「最強トリオ」という単語がよほど嬉しかったのか、頬をうっすら染めてそわそわしていた。
口元がきゅっと結ばれているのに、目元だけがきらきらしている。
(……本当に、最強と呼べるかどうかは、これからだろうがな)
アルドは内心でぼやきながらも、その呼び名を完全には否定しなかった。
少なくとも、自分ひとりでは辿り着けなかった場所まで、このふたりとなら踏み込めたのは事実だ。
「じゃあ、私は受付に戻るわね。書類仕事が山積みだから」
アリアは軽く手を振り、踵を返す。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、アルドも歩き出そうと足を向けた。
「アルドさん、少しだけ」
しかしその時、背後から今度は遠慮がちな呼び止める声がした。
振り向くと、会議室の中からフィルが顔を出している。
先ほどまでの張り詰めた表情とは違い、どこか決意を固めたような、妙な真剣さが乗っていた。
「なんだ。追加の書類か?」
「いえ……書類、というよりは、補足資料ですね。学会の公式資料には載せられなかった部分です」
フィルは周囲を一度見回し、廊下を行き交う人の気配がないことを確かめると、懐に手を差し入れた。
取り出されたのは、薄い封筒ひとつ。
封蝋はないが、丁寧に折り目を揃えて封がしてある。
「ノア=ローアの〝封印核〟暴走の際に解析した命令層の記録で、〝黒い命令文〟 と、ノア=セリア側で見つかった同種のノイズの抜き出しです」
その言葉に、エリシャの肩がぴくりと動くのが見えた。
エストファーネも、さすがにただ事ではないと察したのか、視線を真剣に細める。
「ここで広げるのは目立ちすぎますから……窓のところで、少し」
フィルに促され、アルドたちは廊下の突き当たり──大きな窓のある場所へ移動した。
外の光が斜めから差し込み、床石の上に明るい四角形を描いている。
その光の中で、アルドは封筒を受け取った。
指先に伝わる紙の厚みは、ほんの数枚分。だが、その重さは見た目以上だった。
封を切り、中身を取り出す。
一枚目には、封印核の命令構造を模した簡易な図が描かれていた。神代語の断片を繋いだ命令文が層を成し、その一部に、墨を濃く塗り重ねたような「黒い線」が挿し込まれている。
それは、元の文体とは明らかに違っていた。神託めいた滑らかな線の流れに、別の筆致で荒々しく割り込んできた一筆。
図面上で見ても、その違和感は強烈だ。
「あなたが前に言っていた誰かが命令文に手を入れたという話。王都の解析班のログを洗い直してみたら、確かに本来の封印構造には存在しない文脈が見つかりました。しかも、ノア=セリア側の古い記録にも、よく似た構造があるんです」
フィルの説明を聞きながら、アルドは紙面に視線を貼り付けたまま、図の線をなぞった。
世界が自ら紡ぐ「神代の文体」と、そこに混じった異物。
(これは……)
ノア=セリアの壁面に浮かび上がったあの神託の文と、似ている部分もある。
だが、同じではなかった。世界が自ら語るときの、あの静かな確信めいたリズムが、ここにはない。
「これ……」
いつの間にか横に立っていたエリシャが、アルドの腕のあたりから図面を覗き込み、息を呑んだ。
「ノア=セリアの壁に浮かんだ神託と、少し似ていますよね。でも、何か違う気がします」
エリシャの声は、戸惑いと直感の中間で震えていた。
「ああ。文体が違うな」
アルドは静かに答える。
神託めいた文体は、世界が自分自身に向けて書きつけた備忘録のようなものだ。
それに対して、この黒い命令文は──まるで誰かが、そこに割り込んできた編集者のようだ。
書き手も意図も、異なっている。
「公式にはまだ誰にも言っていない話です」
フィルが、小声で念を押すように言う。
「これを王都の学会に出したら、間違いなく騒ぎになりますから。封印核に外部から干渉できる存在がいる──なんて、誰も認めたくないでしょう?」
「認めたくないし、認めたら最後、世界の見方を変えざるを得なくなるからな」
アルドはぼそりと呟きつつも、図面から視線を離せなかった。
紙の上の黒い線が、じわりと目に焼き付いていく。
ノア=ローアの暴走時、アルドはたしかに感じた。世界の命令文に、自分以外の「指」が触れた気配を。
「……やはり、いるのか。世界の言葉に手を入れられる者が、俺以外にも」
低く漏れた独白は、自分自身に向けた確認のようでもあった。
その言葉を聞いたエリシャが、はっとしたようにこちらを見る。
不安と興奮と、ほんの少しの──言葉にしがたい棘のようなものが混じった視線だった。
師匠と同じ場所に立てるかもしれない、と思ったあの夜。
その「先生の特別な場所」に、見知らぬ誰かがもう片足を突っ込んでいるのかもしれない。そう考えたとしても、不思議ではない。
(……あまり余計な想像をさせたくはないな)
アルドは内心で小さく舌打ちし、とりあえず図面をもう一度畳んだ。
そもそも、そこまで深くまだ考える必要もない。無詠唱が他にも存在するのか、それともこれは人間ですらない何者かなのかまで、答えが出せないのだから。
「ノア=セリアで封印を弱める時、この構造がまた顔を出すかもしれません」
フィルは、視線を真っ直ぐアルドに向けた。
「その時は、現場でのあなたの判断がすべてです。僕にはそこまでついて行く度胸はありませんからね」
半分冗談のように笑ってみせるが、その目の奥には本気の色があった。
自分にはそこまで踏み込む資格も力量もない。だからこそ、託すのだ、と。
「……借りが増えたな」
アルドは封筒をきちんと折り畳み、コートの内ポケットに滑り込ませる。
「じゃあ、無事に帰ってきてくださいよ。それで帳消しです」
フィルはそう言って、今度こそ本当に冗談めかした笑みを残して去っていった。
会議室の方へと戻っていく背中が角を曲がって見えなくなるまで見届けてから、アルドはようやく息を吐き出す。
ポケット越しに感じる紙の存在が、胸の内側を冷たく撫でていくようだった。
「……行くか」
独り言のように呟いて、階段の方へと歩き出す。
エリシャとエストファーネも、自然とその後ろに続いた。
石造りの階段を下り始めたところで、背後からエストファーネの低い声がかかる。
「私が思っていた以上に大事のようだな」
「街が吹き飛びかけたんだ。最初から大事だろう?」
「……そうだった」
アルドが言うと、エストファーネは苦い笑みを零した。
階段に落ちる光と影の間を、彼女の金髪がゆらりと揺れる。
エリシャはというと、さっき見た図面のことが頭から離れないのか、いつものようにちょこちょこと喋ることもなく、黙って段差を数えていた。
時折、アルドの胸元──封筒を仕舞ったあたりへ視線が吸い寄せられては、慌てて逸らす。
(……まあ、気になるのはわかるが)
完全に隠しておくつもりはない。
だが、今のうちから余計な恐怖や焦りを煽っても意味はないだろう。
見せるタイミングと見せ方くらいは、師匠として選びたいところだった。
「エリシャ」
階段の途中で、エストファーネがふいに立ち止まった。
「はい、なんでしょう?」
呼びかけられたエリシャも足を止め、慌てて顔を上げる。
「出発前に、訓練に付き合ってくれないか? 私は魔法戦にまだそこまで慣れていない。魔物相手なら兎も角、あの守護獣のような連中を相手にするなら、もう少し魔法戦に慣れておく必要がある」
その言い方は淡々としているが、そこに乗るのは純然たる自己評価だ。
自分が不得手な領域を、きちんと認めた上で補おうとする強さがあった。
「はいっ、もちろんです! 私もまだ本調子ではないので、助かります」
エリシャの顔に、ようやくいつもの明るさが戻る。
さっきまで頭の中でぐるぐるしていた黒い命令文の影が、少しだけ薄れたように見えた。
「では、後日改めて時間を取ろう。屋外の訓練場を借りられるだろうか?」
「アリアさんに相談してみますね!」
ふたりが階段の踊り場で向き合い、小さく笑い合う。
アルドはひと足先に段を降り、下から見上げる格好になった。
逆光の中、騎士と魔法少女のシルエットが並んでいる。
(全く、女どもが頼もしいな。俺ももう少し気合を入れねばな)
そんな感想が、自然と胸の奥から浮かび上がる。
世界の命令文に触れる者たちを前にしても、彼女たちはそれぞれのやり方で前を見ている。
階段を下りきると、ギルドの広いロビーを横切り、正面の大扉へと向かう。
行き交う冒険者たちのざわめきが背中に流れていき、受付カウンターの向こうからはアリアの声が、いつもの調子で誰かを叱り飛ばしていた。
重い扉の取っ手に手をかける。
押し開くと、外の光が一気に流れ込んできた。
昼下がりの陽光が石畳を照らし、街の喧騒が柔らかなざわめきとなって耳をくすぐる。
アルド、エリシャ、エストファーネの三人の影が、並んでギルドの前に伸びた。
(封印核とノア=セリア、黒い命令文、そして神代の声。その答えは、あそこにあるのだろうか?)
ポケットの中の封筒が、微かな重みでその事実を思い出させてくる。
(まあ……行けばわかるさ)
アルドは小さく息を吸い込み、前へと歩き出した。




