第5話 早速トラブル(ギルド編)
扉は想像よりも重かった。木と鉄で丁寧に組まれ、手のひらに冷えが伝わってくる。
押し開いた先は、乾いた酒と革と焚き木の匂いが渦を巻く広い空間。正面の梁からはギルドの看板──剣と杖の紋章──が吊られている。左手の壁一面に据え付けられた掲示板には羊皮紙がひしめき合い、討伐、護衛、調査の三種の紙が色分けされて大きな釘で留められていた。右手には長卓が並び、昼前にもかかわらず、半分の卓にはすでに酒が並んでいた。杯の当たる音と笑い声が絡み、床板を軽く震わせていた。
受付は奥。カウンターの前には短い列ができており、冒険者たちはそれぞれの装備と癖で、待ち時間を殺していた。剣の手入れをする者、地図を広げて依頼を吟味する者、ただ目を閉じている者。彼らの視線が、新顔を測るように一度だけこちらに流れて、すぐに戻っていく。
カウンター内側で帳面を繰っていた女が顔を上げた。赤毛が肩の下で柔らかく巻かれ、深い緑の瞳に仕事の速度と温度が同居している。年の頃は二十代半ばで、アルドと同じくらいだろうか。名札には、アリア=ガーネットと記載がある。
「あら、見ない顔ね。ご新規さん?」
アリアがにこりと笑顔を向けた。声を掛けるタイミングは迷いがなく、言葉は甘いが先端は丸くない。受付嬢の鏡みたいな人だった。
「そうだな。まずは登録から頼みたい」
アルドは頷いた。
自然と列が彼らを飲み込み、後ろに人の気配が積み重なっていった。
アリアは帳面を閉じ、二人を上から下まで一度で測った。肩の線、指の豆、靴底の減り、外套の縁。観察の精度は、戦場に立つ者のそれに近い。
「ふたりでの登録で間違いないかしら? 見たところ、ふたりとも魔導師のように見えるけれど」
目を細めるというより、焦点を合わせ直すように、視線がこちらへ寄った。
確かに、魔導師二人でパーティーというのは珍しい。前衛を立てずに依頼を受けるなど、無謀だと考える者も多そうだ。
「はい。私たち、師弟なんです」
隣でエリシャが少し恥ずかしそうに言った。
その師弟という語の響きが、ギルドの空気に輪紋を作る。すぐ近くの卓で笑いが止まり、耳がこちらへ向く気配があった。
「師弟?」
「魔導師だけで冒険者をやろうってのか?」
「そいつは無謀だろ。死ぬ気か?」
小さい声がちらほらと漏れた。驚きと茶化し、それから忠告にも似た嘲笑。どちらかといえば、嘲りの色が濃かった。
列が一歩詰まった、その時だった──横合いから硬い衝撃が肩に叩きつけられた。鉄で補強された肩当ての角だ。押し込む、ではない。ガン、と明確にぶつけるための角度。
アルドは半歩、床の目に沿って足を送って衝撃の行き場を逃がす。体勢を戻す前に、相手の顔が視界に入った。
「おいおい、俺様の後ろに並べよ。坊ちゃん坊やに小娘。学校じゃ先輩を優先させるってこと知らないのか?」
歯並びの悪い笑い。顎には短い髭、鼻は二度か三度は折っているのか、歪んでいた。肩幅は広く、筋肉に任せた動き。挑発の気配は、無駄に大きく、それを隠す気もなかった。
一気に周囲がざわついた。
「あーあ、また始まるぞ」
「ガロスに目をつけられるなんて、可哀想に」
「あいつはBランクだぞ。いい加減新人いびりなんてやめればいいのに」
周囲から漏れた小声が、彼の名と面倒の程度を同時に教えてくれた。
(なるほど。どこにでもいるんだな、こういう奴は)
アルドは小さく溜め息を漏らした。
研究棟でも似た類はいた。肩書や年次を盾に、入口で突く。ノリキンも、同じ性根を持つ男のひとりだった。
その時と同じく、侮蔑の表情を内部のどこか小さな引き出しから取り出し、視線に載せた。
「なんだぁ、その反抗的な目は。そっちの嬢ちゃんを一日貸してもらうだけで勘弁してやろうって思ったのによぉ」
舐めるような視線がエリシャを品定めするように這った。
下卑た熱を含んだそれは、彼女の肩より下を必要以上に長居した。
意図に気付いたエリシャが、すぐに顔を真っ赤にした。
「け、ケダモノッ! 誰があなたなんかに──」
「下がっていろ。こういう手合いは、言葉で言ってもわからんもんだ」
反射的に、彼女の前へ片手を差し出して制した。
手のひらをそっと開いた位置から、半歩ぶんだけ彼女の重心を後ろに戻す。
腕と肩が触れた一瞬、彼女の体温が温く、その温度がまっすぐに体の奥に沁みた。
「先生……」
短い呼気。こちらを見る目の中心が、きゅっと細くなる。
「おお、なんだぁ? 魔導師のくせに、ナイト気取りか?」
「何を言っている? 魔導師は魔導師だろう。学がないと、そんなこともわからないのか?」
言葉は淡々と、しかし刃は鈍くない。笑いを誘う調子は混ぜず、皮下だけを切る角度で置く。
ガロスの肩が一度だけ跳ね、口元が歪んだ。
「て、テメェッ、ナメんなぁ! そのほっせぇ身体へし折ってその女で一晩中楽しんでやる!!」
ガロスが雄叫びとともに、こちらへ深く踏み込みこんできた。
右足が外側から半円を描き、腕の大振りが振り下ろされる。肩、肘、手首──力の流れは直線的で素直だ。重さはあるが、読みやすい。
音が遠のいた。アルドの内側で、時間が一段、ゆっくりになる。相手の重心は右に乗りすぎており、腰は流れている。呼吸は吐き、背中の筋が先に固くなっていた。
詠唱は必要ない。魔力は声ではなく想いで理に置く。
〈筋力強化魔法〉
〈身体硬化魔法〉
即座にふたつの魔法を無詠唱で自身にかけて、右足を半歩送り、ガロスの足の外側へ自分の足首を差し込む。
膝下を払う角度は浅く、しかし確実に重心から外した。同時に、振り下ろされる腕の肘裏へ軽い手刀を入れ、腱の張りを一瞬だけ弛めさせる。力の流れを断ち切るように、鎖骨の少し下、胸骨柄の脇へ掌底を打ち込んだ。
空気が、ひゅ、と鳴いた。巨体が軽くなり、数メルト吹っ飛んでいく。受け身を取れず、床板が鳴って、男はそのまま仰向けに倒れた。
大きな怪我はないはずだ。骨も折っていないし、気道も確保されている。立ち上がるには、十分すぎるほどの間が要る。
「……は?」
観衆の誰かの喉から漏れた音が、沈黙を裂く針のように響いた。
遅れてざわめきがわっと広がる。
「今、何を……?」
「魔法か? でも、詠唱がなかったぞ?」
アルドは袖口についた埃を軽く払った。
袖の糸一本、乱れていないことを確かめる。掌底の感覚は骨の上に薄く残り、すぐに消えた。
エリシャが慌ただしく駆けつけてきた。
「先生、お怪我はありませんか!?」
「あるわけないだろう」
アルドから苦笑が零れた。彼女は胸に手を当て、こちらを見上げる瞳をきらきらと輝かせた。
まるで、憧れの英雄を目の当たりにしているかのような輝きだ。
周囲の冒険者たちが距離を取り直す。二~三人が、さっきの動きを真似るように手を振り、首を傾げた。
「素手で落としたぞ」
「杖も持っていないし」
「格闘技か?」
そんな囁きが空気に薄く混じる。そこで、雑魚絡みは、ぴたりと止んだ。
空気の密度が変わる。「やべえのが来た」という共有された理解が、場のどこかで合意に達した。
奥から白衣の治療係が駆けてきて、ガロスの脈をみる。舌打ちではなく、感嘆に近い短い息が零れた。
意識がないので、そのまま担架に乗せた。ガロスは運ばれていき、ざわめきもまた運ばれていった。
「……あなた、本当に魔導師なの? ああ見えてガロスはBランクの冒険者よ? それを素手で瞬殺だなんて、有り得ないわ」
カウンター越しに、アリアが近づいてくる。目は笑っていないが、敵意もない。確認と評価の目だ。
「魔導師だって、近接戦ができないわけじゃない。あいつが油断していただけさ」
表面に置く答えとしては、これで足りる。
無詠唱のことも、身体強化のことも、今は余計な情報だ。隣のエリシャは、なぜか誇らしげに胸を張っていた。
「まあ、いいわ。でも、本来ギルド内での死闘は禁止だからね? 今回はガロスから仕掛けたから、見て見ぬふりをするけど」
「わかったわかった。もう少し躾ておいてくれ」
「ええ、それもわかってるわよ」
アリアの口元に、わずかな苦笑が浮かんだ。
彼女はこの手の騒ぎの後始末に慣れているのだろう。人を見て、必要な温度で必要な言葉を置けるタイプだ。
「それじゃあ、先に登録を済ませてしまいましょうか。魔導師の師弟パーティーさん?」
「は、はい! 宜しくお願いいたします!」
エリシャが礼儀正しく一礼し、アルドもそれに続いた。
アリアはカウンターへ戻り、手早く羊皮紙を二枚引き出す。羽根ペンの先を確かめ、砂の入った小瓶を寄せた。
こうして、アルドとエリシャの冒険者としての日々が始まろうとしていた。




