第4話 早速トラブル(宿屋編)
夜を裂く風は、ちぎれた雲の匂いを運んでくる。
アルドとエリシャは〈飛行魔法〉で雲脚のすぐ下を滑り、星の淡い川に沿うように進んだ。
俯くと、真夜中の街道は黒い糸のように一本、遠くの灯火を数珠つなぎにしていた。
学院の屋根が地平線の端に沈むまで、ほとんど一瞬だった。振り返れば、石造りの塔は暗い背骨のように並び、灯りはもうふたりに何も投げかけてはこない。
追放とは、制度から切り離されることだ。だが、切り離された分だけ空は広く、心は軽かった。
「高度を少し上げるぞ。市門の監視に引っかかると面倒だからな」
「承知しました!」
エリシャの返事は短く、息継ぎみたいに軽い。
上げた高度に従って夜気は薄さを増し、地面の温度は遠のいていく。
アルケイン魔法学院の近くにも、街はあった。だが、アルドは禁忌を侵して追放された教師で、エリシャはその教師について学院を辞めた生徒。他の学院生にとって決して良い影響を与えるとは考えにくく、遠く離れた場所に行ったほうがいいと考えたのだ。
やがて、東の空が薄く白む頃、交易都市リーヴェの外縁が現れた。城壁は低いが分厚く、街を囲む堀は朝霧を湛えて静かに煙っている。荷馬車の列が門前で順に並び、商人の声が小さく混じり合っていた。
ふたりは城壁外の雑木林に一旦着地し、外套に旅の埃を少し足してから、歩いて門へ向かった。こういう場所では、空から降り立つより地面を通るほうが余計な詮索が少ない。
市門に近づくほど、匂いは濃くなった。焼いた麦の香り、塩漬け肉の脂の匂い、馬の汗、樽の木香、香辛料の鼻先を刺す辛さ。門が大きく開かれ、朝の市がちょうど回り出すところだった。露店の布がばさりと広げられ、革紐で縛られた布包みが台の上に積まれていく。
「わあ……活気がありますね」
エリシャが目を丸くする。
門の内側はすでに人で満ち、呼び込みの声がこちら側まで跳ね返ってきた。果物を山にした店が、赤と橙の小さな太陽の群れのように路地を染める。車輪の軋みが低く重なり、荷台の樽を叩く音がリズムを作った。
「リーヴェは初めてか?」
「はい。私は長期休暇も帰省しなかったので、入学してからはずっと学院に篭もりっぱなしだったんです。だから、全然街のこととかも知らなくて」
「そうか」
帰省しなかった、という一点が、アルドの耳のどこかに引っかかった。
理由を訊こうかと思ったが、すぐに思い留まった。
アルケイン魔法学院は全寮制で、大体の生徒は長期休暇中に家に帰って家族と過ごす。それをしないということは、何かしらワケありだと考えたのだ。いずれ、彼女が話したくなった時に聞けばいい。
「なら、外の世界も知るといい。思わぬところで魔法学と結びつく時があるからな」
「心しますっ」
元気に頷いた首に、銀の髪が軽く跳ねる。
そんな彼女を見ていると、アルドは自然と笑みが漏れた。自分の言葉を真っ直ぐ吸収してくれる相手と話すのは、思っているより心地が良い。
「さて、と」
門を抜けて最初の広場で立ち止まり、アルドは街を見回した。
城壁に沿って幹線が走り、縦横へと枝道が伸びている。中心へ向かうほど建物は背を高くし、帆布張りの露台と木組みの影が重なっていた。朝のうちから開く酒場もあれば、昨夜から閉じていない屋台もある。喧噪は上へ抜けて、空に薄い膜を作るようだった。
当面の目的は二つ。仕事口と、安宿の確保だ。数日分の部屋を確保する程度の金はあるが食費や日用品、エリシャの旅装を整える費用も考えれば、余裕はあまりない。金が尽きれば、学問も旅も、上等の理想から順に足を切られていく。
幸い、ここリーヴェは栄えている。魔導師二人組ならば、仕事に困ることはないだろう。
「よし、あそこにしようか」
通りの角、看板に麦束の印が描かれた宿屋が目に留まった。
看板を見ると値段は安めで、客層は労働者が中心らしい。対応は手早そうだ。何より、隣が浴場の暖簾を掲げているのが良い。旅の最初の宿に求める条件としては、十分だ。
扉を押すと、油の差された蝶番が素直に鳴り、カウンターにいた女将がぱっと顔を上げた。丸顔で、腕は粉と湯気の色をしている。
「いらっしゃい。夕食付きなら一人三十ナール、無しなら二十五。どうする?」
値段は相場より少し安い。こういう宿の女将は、鼻で客を見分ける。気配りと商売っ気が同居している顔だ。
「夕食は……まずはいい。とりあえず、二部屋確保してほしいんだが、空いてるか?」
アルドは宿の中を見渡した。
結構、旅客が目立つ。もしかしたら、空いていないかもしれない。
女将は即座に帳面をめくり、指で空きをなぞった。
「あー、すみませんねぇ、お客さん。今夜は部屋が一杯で……一部屋なら空いてるんだけどねぇ」
「ひ、一部屋だと!?」
思わず声が裏返ったのは、寝不足のせいだけではない。
師弟とはいえ、男女がふたりで一部屋。それは色々まずい気がするのだ。しかも、昨日まで教師と生徒だった関係で、エリシャはまだ十七。まだ旅が始まったばかりだというのに、火種を自ら抱える理由はない。
口を開いて断りを入れようとしたとき、袖がちいさく揺れた。
「あの、先生。先生さえ良ければ、私は大丈夫ですから……」
エリシャが、おずおずと顔を赤くしながら言う。視線は遠慮がちに落ち、床板の節目を追っている。
女将は一瞬で何かを察し、売り口上の調子で押してくる。
「大丈夫だよ、お客さん。うちには男女別の大浴場があるし、ベッドもちゃんと二つあるからね。明日か明後日には二部屋空くと思うから、空き次第、優先で振り替えてあげるわ」
「ううむ……明日か明後日か」
アルドは唸った。
ここで突っぱねれば、別の宿を探すことになる。その間に空きが埋まれば、条件はさらに落ちるだろう。足を休める場所があるかどうかは、旅の始まりにおいて致命的な差になる。
「……わかった。今夜は一部屋で頼む」
「はいよ、鍵はこれ。チェックインは昼の鐘の後からだから、それまで街を見ておいで」
エリシャが両手で鍵を受け取り、小さく「ありがとうございます」と頭を下げた。
女将は目尻を下げたまま、仕事に戻っていった。
宿の外へ出ると、朝はすでに昼の端へ滑っていた。陽は高くないが、通りの熱は人の熱で十分に温まっている。
「先生、次はどうしましょう?」
「どこかで昼飯を食ってもいいが、その前に職探しだな。冒険者ギルドにでも行ってみるか」
「冒険者……!︎ 聞いたことがあります。学院を卒業された先輩方もなられていますよね?」
「まあな」
アルドは苦笑を漏らした。
学院を出た魔導師が冒険者になるのは、一般的には良い選択とは言い難い。研究職に就けなかった者、戦闘に飢えた者、財布の底が見えている者、或いは英雄譚に自分の名をねじ込みたい者。いずれも魔法学という体系の外側で、魔法を使う道だ。
もっとも、今の自分たちは「財布の底が見えている者」に該当する。旅をしながら適度に金を得られる仕事としては、冒険者は悪くない。
「冒険者ギルドは……あっちか」
案内板に従って、市の中心部へ向かった。石畳は目地が深く、荷車の鉄輪がそこに引っかかる度に澄んだ高音を立てていた。
露店の列はやがて定住商の店に替わり、看板の字が整い、扉の金具が重くなる。建物の階数が増えて、人の流れは自然と分岐し、ふたりは人流の縁を選んで歩いた。
通りの角で、エリシャの視線が飴屋に吸い込まれるのを横目で見た。色硝子のような糖菓が串に刺さり、陽光を受けて溶けそうに光っている。
エリシャは小さく唇を結び、首を左右に振って視線を戻した。何かを我慢する仕草は、不器用で真面目だ。
「後で買ってやろうか?」
「い、いえ! 全然、大丈夫です」
エリシャが顔を赤くして、ぶんぶんと首を横に振った。
飴菓子くらいなら別に買えるのだが、遠慮させてしまったか。まあ、帰りにでも買えばいい。
中央通りを抜けると、建物の影は少し低くなり、道幅が広がった。角を右へ折れると、通りの突き当たりに分厚い木扉と槍の紋章を掲げた建物が見えてくる。
軒先には掲示板があり、羊皮紙が貼られ、風に鳴っていた。冒険者ギルドだ。
ギルドの扉の前で、エリシャが息を整えた。どうやら、緊張しているらしい。未知へ踏み込む前は、必ず緊張するものだ。その経験も、きっと彼女の成長に繋がるだろう。
そんなことを考えながら、アルドは扉の取っ手に手を掛け、扉を押し開いた。




