第3話 最強と天才
白が、落ちてくる。
稲妻は目に映るより速い。詠唱していては、到底間に合わないだろう。しかも、〈神罰雷霆〉は雷系の魔法で最上位に位置する究極魔法でもある。半端な防御魔法では、障壁ごと焼き尽くされるのがオチだ。
アルドは視線だけを天へ向けた。唇は動かさず、思考だけが意味の階層を滑り降りる。
──〈魔法障壁〉。
六角形の紋が次々と重なり、空気が一段硬くなった。雷の白はそこで千の面に分解され、力は蜂の巣全体に均されていく。膜の縁を光が走り、衝撃のすべてが音を失って吸い込まれていった。
乾いた金属音が、遠くの屋根瓦を震わせる。地面には、焦げ跡ひとつ残っていない。ただ、夜の匂いに焦げた砂糖のような甘さが、一瞬だけ混じった。
アルドはゆっくりと肩の力を抜いた。白光の残像が瞳の裏を流れていく。咽にかかった熱を吐息で洗い流し、上体を少し回してから、声の主がいる方角へ振り返った。
「どういうつもりだ? お前から殺されるほどの恨みを買った覚えはないぞ。……エリシャ=リュミエール」
魔法を唱えた主の名を呼ぶ。
校門脇の影から、ひとりの少女が歩み出た。白銀の髪が灯りを撥ね返し、緑の瞳が静かな輝きを帯びている。
学院首席にして、百年にひとりの才。そして、先ほどアルドの学院追放をひとり反対してくれた人物でもあった。
「やっぱり、先生は〝無詠唱魔法〟の使い手だったんですね」
エリシャは嫣然と笑った。
今し方、人を炭に変えうる究極魔法を放った者とは思えない表情だ。
「うっ……」
舌の奥で短い声が漏れた。
しまった。咄嗟にいつもの癖で対処してしまった。虚を突かれて、詠唱を装う余裕すらなかったのは確かだ。
「お前、まさかそれを確かめるために奇襲を仕掛けたのか? 俺が無詠唱魔法の使い手でなければ、丸焦げになっていたぞ」
アルドは大きく溜め息を吐いた。
あの精度ならば、避けるのは不可能だ。対処するなら、詠唱では到底間に合わない。無詠唱で防御魔法を発現させる他に道はなかったのだ。
だが、よりによって究極魔法の〈神罰雷霆〉を選ぶとは。一応、威力は学院演習規定の上限内で致死域は削ってあるようだが、それにしても、と思う。
「いえ、昔から知ってました」
エリシャは、すっと首を横に振った。
「何だと?」
「私、昔アルド先生に命を救われたことがあるんです。もう十年くらい前になりますけど」
言葉の端に、懐かしさの湿り気が乗った。
エリシャ曰く、幼い頃に街外れの崩落事故に巻き込まれかけたという。落石が降り注ぐ中、咄嗟にアルドが放った無詠唱の重力制御魔法が彼女を包み、瓦礫の下敷きになるのを防いだらしい。
アルドは、その話を聞いてようやく記憶の底がかすかに動くのを感じた。
(そういえば、そんなこともあったな)
崩れ落ちる支柱の音、巻き上がる土煙。泣きじゃくる幼い声。粉塵の向こうで、小さな銀髪の子どもが必死に手を伸ばしていた。
考えるより先に、アルドは指先で重力の向きをねじ曲げ、瓦礫の軌道をねじ曲げていたのだ。
詠唱も構築もなかった。ただ、「助けなければ」と思った瞬間に、世界のほうが先に頷いてくれたのだ。
「お前が、あの時の子供だったのか……」
「はい。その節はありがとうございました」
エリシャは礼儀正しく、綺麗な角度で頭を下げた。
夜風が前髪を揺らし、耳元の小さな飾りがちり、と鳴る。
「それで?︎ 命の恩人に究極魔法をぶっ放すなんてのは、誰の教育だ?︎ ノリキンあたりか?」
「あんな三流魔導師と一緒にしないでください」
唇をわずかに尖らせ、エリシャが不服そうに言う。
その無遠慮さは、若さというより、的確さの産物だろう。仮にも教師を三流呼ばわりするのは褒められた態度ではないが、彼女の理解と手際は、そこらの学者の何段も上にある。言葉の無礼を差し引いても、正しいことを言っていた。
「私は……先生に憧れたからこの学院に入学して、ずっと先生の背中を追い掛けてきました。それで、いつか先生に認めてもたえたらって。それだけのために、これまで魔法を学んできたんです」
その声音に、一切の誇張はない。講義後の廊下で、彼女が差し出してきた質問はいつも二種類あった。ひとつは教科書の範囲。もうひとつは、教科書が触れない境界線の、さらに向こう側。貪欲というより、素直。素直さが、層の深部にまで届いていた。
(……この子なら、もしかして)
自分と同じ場所に届くかもしれない、という期待を何度も抱いた。
言葉の殻を剥いだ先にある「意味の素形」へ、指をかけられる素質。いや、彼女ならばもっと先に行けるのかもしれない。ここを去ると決めた時、唯一残った未練がそれだったのだが──。
「だから私、辞めてきました」
「は?」
「先ほど退学届を叩き付けてきました。学院長は、顎が外れそうなくらい口を空けてましたけど」
「はあああああ!?」
アルドも学院長と同じくらい顎が外れそうな勢いで口を開けてしまった。
喉の奥の理性が乾いた音を立てて、言葉が数歩よろける。夜風が、妙に冷たかった。
(何を言ってるんだ、この娘は!)
思わず素で出る。これは嘆息でも叱責でもない、ほとんど悲鳴に近いものだった。
魔導師として学院を自主退学するなど、有り得ない。実際に権威主義が蔓延る業界だ。退学などしてしまえば、研究者としての未来は絶たれてしまう。
「バカか、お前は! 君はとても優秀で将来有望な魔導師だ。きっと、俺なんかよりも遥かに高みを目指せる。今からでも遅くない。冗談だとか俺に脅されてやったとか言ってでもいいから──」
「いいんです」
エリシャは柔らかく微笑み、静かに首を横に振った。瞳の色が、決意の温度で少しだけ濃くなる。
「私は先生の魔法で救われました。これからもずっと、先生のもとで魔法を学びたいと思っています。だから、先生……どうか、私も一緒に連れて行ってくださいませんか?」
言い終えて、彼女はもう一度深くお辞儀をした。夜に落ちる影が真っ直ぐで、それは一切揺れない。
本気だった。彼女が自分で選んでここに立っていることが、声からも姿勢からも伝わってくる。学院の肩書きや用意された安定もあっさり手放してしまえるほど、彼女にとって「学び」とは大切なものだったのだ。
アルドは頭を掻いた。考えるより先に、現実の算盤が頭の内側で回る。
「……言っとくが、退職金は出てないからな。ほとんど文無し同然で、生活は苦しいぞ」
「え?」
「いい宿に泊めてやれないし、仕事だってしないといけない……それでも、ついてくるか?」
エリシャの顔に、驚きとすぐさまそれを呑み込む様が一瞬にして走った。『信じられない』とでも書いてありそうな瞳に、すぐさま膜を張っていく。
「……はい。どこまでも御一緒いたします。アルド先生」
彼女の笑顔に、涙が伝った。騒がしい種類の喜びではなく、胸の奥に静かに灯る、感動と感謝。そんなものを、感じた。
アルドは息をひとつ吐き、空を仰いだ。さっきまで雷の白に満たされていた場所は、何事もなかったような湿った闇に戻っていた。
研究室で拾いきれなかった偶然は、こうして向こうから歩いてくることもあるらしい。
「なら、まずは宿探しだ。〈飛行魔法〉は使えるな?」
「はいっ!」
弾んだ返事が返ってきた。エリシャの足取りは軽い。校門の外で風が向きを変え、外套の裾がひるがえる。石畳にふたり分の足音が並び、その間に、さっきまでの雷の残響とは違う新しい拍動が生まれた。
ふたりは同時に宙に浮き、夜空の彼方へと消えていく。
こうして、学院を追放されたその夜、アルドに初めての弟子ができた。
最強の無詠唱魔導師と天才魔法少女の冒険は、ここから始まったのだった




