第2話 身支度からの稲妻
その夜、研究棟の最上階は、風の通り道になっていた。塔を包む夜気が、煉瓦の目地の間から微かに鳴る。昼間の喧噪が嘘のように沈み、遠い回廊の灯だけが薄く脈打っていた。
「ううん……処分してくれと言われてもな」
自室兼研究室の扉を閉めた途端、アルドは思わず唸った。
壁一面の本棚。床にも、机にも、背の低い箱にも、綴じ糸のほつれた古書や革装の写本が折り重なるように積まれている。紙の匂いは乾いた土に似ていて、触れるたびに指先に薄い粉が乗った。
どれも手に取った記憶がある。註を入れ、線を引き、余白に疑問を書き留め、次の頁に仮説を飛ばした。積み上げれば、背丈の何倍にもなるだろう。
出ていくまでに「処分するか、他の生徒へ譲るなりしてほしい」と、事務方は穏当に言った。だが、ここに積まれたものは穏当に扱える類ではない。
貴重か否かの線引きは一冊ごとに異なる。紙の質や刊記、魔法語の世紀、翻訳者の系譜、脚注の付け方、余白の筆跡──ほんの数行の異同が、ある理論の根幹を支えていることもあった。
そして、ここにある多くが禁呪に関わるものだ。題簽にそれと記されていなくとも、禁忌に触れるものが多い。万が一どこかのバカのようにこれを読んで自前の詠唱を勝手に作りでもすれば、もっと大きな被害が出しかねなかった。
時間はない。逐一分別して寄贈の目録に載せる猶予は、どこにもなかった。
それに、貴重な頁はもう頭の中にある。閉じた瞼の裏に、一冊一冊の綴りが浮かんだ。語と語の間にあるはずのない継ぎ目。文と文の背後で噛み合う意味の歯車。詠唱という翻訳の殻を剥いだ後に残る、素の形。それらは紙としてではなく、理解として頭の中に定着してしまっている。ならば、紙を守ることにこだわる意味は、ほとんどなかった。
学院図書館に寄贈すれば、装丁は保たれる。だが禁呪に接続する論考を棚へ置けば、誰かが手を伸ばす可能性があった。意欲的な若者ほど、真っ直ぐ危ういところへ行くものだ。
今日の講堂を思い返してみれば早い。好奇心旺盛な若者は、制度からはみ出した者として切り落とされるだろう。その刃に、自分の本が寄与する未来は、見たくなかった。
「ええい、面倒臭い」
アルドは机から半歩退き、窓のほうへ手をかざした。鍵は掛けていない。だが、鍵を確かめる必要もなかった。
音もなく、窓がひとりでに開く。夜気が細長い刃のように滑り込み、紙の端をかすかに揺らした。
次の瞬間、本の山が一斉に羽ばたいた。
革の背が翼になり、頁が羽音を立て、糸綴じが軋む声を小さく上げる。背表紙は鳥腹のように膨らみ、題簽は尾羽に似てひらついた。棚から、床から、机上から、書物たちがふわりと浮き上がる。長年の埃が舞い、光の粒となって散り、外へ吸い出す風に乗った。
アルドは窓際まで歩き、外を見下ろした。
塔の外壁に沿って、無数の本が群れを作って旋回している。野鳥の群れが一斉に向きを変える時の、あの統率のない統率。頁が重なり合って夜目にも白く、群れの輪郭は刻々と形を変えた。空気がその中心にわずかな渦を作り、紙の匂いが庭の草の匂いと混ざる。
群れのただ中に、そっと視線を据えた。睫毛の影が頬に落ちる。目を細めることも、見開くこともなく、ただ見て念じるだけで、世界の奥の層に触れていく。
次の瞬間──ぱち、ぱち、と最初の火花が頁の端で咲いた。
続け様に、群れ全体へ火は移る。束の内側に潜む乾いた空気に熱が素早く沈み込み、頁の継ぎ目から光が溢れた。花火のように破裂するのではない。もっと、静かに、しかし徹底的に。紙は白い閃光を生んでは、すぐに煤へと変わった。薄い黒片が夜気に舞い、瞬く間に点となって遠ざかる。
いきなり空が明るくなったので、隣の寮の窓という窓が一斉に開いた。寝間着姿の一年、上衣を羽織った三年、髪を結び損ねた助手、巡回中の警備員。皆、空を見上げていた。
「おおー」
「なんだなんだ?」
「花火か?」
「綺麗ー!」
若い声が弾む。警備員は顔を顰めたが、槍の柄に手をかけ直しただけで、それ以上は何もしなかった。
アルケイン魔法学院では、こういった悪戯がよく行われる。今年だと、マーグ兄弟あたりが真っ先に疑われるだろうか。
誰かが指さし、誰かが笑い、誰かが拍手を一度だけした。夜空に、拍手の音が気持ちよく広がる。
アルドはそれを見て、柔らかく笑った。
胸の奥で、何かがひとつ音を立てて外れた気がする。焦燥でも後悔でもなく、もっと小さな、しかし重心を移す種類の音。
本を燃やすのは、心が痛む。中には複製されていない貴重な本もあったはずだ。だが、誰かの手に渡り、いつか今日のような場に別の誰かを立たせるくらいなら……消えてしまった方がいい。
火の尾は、夜空でほどけていった。感嘆の声のいくつかは、明日の朝には忘れられるだろう。
だが、何人かの心には、この夜に咲いた花の光が残るはずだ。紙が灰になるときに立ちのぼった、ごく薄い甘い匂い。そういうものは、時に進路を変える。それでいい。
群れの最後の欠片が風に溶け、窓の外はいつもの夜になった。
「これで空っぽになったな」
アルドはくるりと踵を返し、部屋を見渡した。
本棚は箱舟から板を抜いた後のように心許なく、床がやけに広く見えた。机の上にも、もうほとんど何もない。細い金属製のペン先がひとつ、ころりと転がっているのに気づき、指先で摘まみ上げた。窓から放るには軽すぎるものだ。ペン先は内ポケットに入れた。
引き出しを順に開ける。空。空。封蝋。空。紙縒り。古びた鍵。鍵はどこのものだったか思い出せず、手のひらの上でひと呼吸だけ迷ってから、机に置いた。
「さて、ここともお別れか」
声に出すと、思いのほか軽かった。
五年前、最年少で教師の座に就いた時、ここはとても広く見えたものだ。希望と恐れが混じり、何を触っても新しかった。その新しさは、時間とともに研究の密度に変わり、更なる場所を求めている。
扉を開け、廊下に出た。魔石灯が等間隔に灯り、深夜の空気は澄んでいて、誰ともすれ違わない。階段を降り、回廊を渡り、職員寮へ向かった。
寮の自室の扉は、手を近づけた瞬間に内側から錠が外れた。アルドは小さく苦笑する。最後の夜ぐらい、手順を省かずともよかったが、魔力は習慣に従って動く。
荷造りは一瞬で終わった。棚に並んだ衣類は折り目を崩さず鞄へ滑り込み、洗面器の水は球のまま空中を移って窓外へ捨てられ、乾いたタオルは風で自ら畳まれて袋へ入る。靴は勝手に並び直し、不要な紙片は端から白煙になって消えた。
実体のあるものは少ない。外套に、替えのシャツや下着が数枚、タオル、硬貨の袋、予備の筆記具、それに薄い手帳。最後にベッドカバーを軽く撫で、部屋を見渡した。
「これでよし、と」
もはや部屋の中にあるのは、残していっても誰も困らないものだけだ。
アルドは小さく息を吐いて、寮を出た。
夜の学院は昼よりもずっと広く、足音でその広さを測れるほどだ。こつこつ、と踏むたびに、距離が返ってきた。
正門の前に立つと、鉄の格子は開いていた。番人の詰所に灯りはあるが、中に人影はない。時刻を見れば、ちょうど交代の狭間だった。運が良いのか、悪いのか。
門の外を見やると、石畳が街へと続き、遠くに屋根の影が並んでいた。今夜はとりあえずどこかで宿を取って、明日からどうするかはのんびりと考えよう。きっと、これはこれで、研究室に籠っていては拾えない種類の偶然と出会えるはずだ。
──そう思っていた時。
とんでもない魔力が、空を覆った。上から下へ、布で覆われたように、世界の明度そのものが変わっていく。
「ほう……?」
実験魔法にはない、あからさまな敵意のある魔力。そして、その矛先は自分に向けられているに違いなかった。
肌の表面に、極小の針が一斉に立つ。空気の水分子が、未知の秩序に従って整列していく気配。遠雷のような低い唸りが、骨の内側でかすかに震えた。
遅れて、女の声が届く。訓練された詠唱の響きが、そこにはあった。アルドはその声の主を知っていた。
「天に座す神よ、その怒りを解き放ちたまえ。罪深き者に、裁きの雷を! ──〈神罰雷霆〉!!」
詠唱の意味構造が、言葉と同時に落ちてくる。語順の形式、神格の呼称、罪科の指定、執行の指示。翻訳としては正確で、律動が美しい。その美しさとは即ち、世界を説得する力だ。
次の瞬間、夜空の一点が白く裂けた。裂け目は閃光の柱へと変わり、〈神罰雷霆〉の名に相応しい神の雷が、アルド目掛けて一直線に落ちてくる。
そして、雷の白が、世界を満たした──。




