第10話 朝から狼狽する師弟
朝の食堂は、昨夜の煮込みの名残りと焼き立てのパンの匂いで、胃の底をやさしく掴んでくる。
窓辺は淡い雲色で、羊歯の影が卓に細い揺れを落としていた。客はまばらで、夜通し働いたらしい荷運びの若者が湯気の立つスープに顔を近づけ、旅芸人風のふたり組が静かに弦の調律をしている。
アルドは壁側の席を選び、背を板壁に凭れた。外への視界と入口への視界の両方が取れるからだ。
卓上に運ばれてきたのは質素だが手堅い朝食だった。厚切りの黒パン、ハーブを刻んだ卵の炒めもの、塩気の強い燻製肉、それからぬるいミルク。
向かいに座ったエリシャは、パンを小さくちぎりながら、どこか悩ましげな顔をしていた。眉尻は下がり、視線は皿の縁を泳ぐ。何かを言いたげなのに、言葉を拾う手前で躊躇している顔だ。
そんな顔をされてしまうと、こちらが落ち着かない。居心地の悪さに、結局アルドの方が我慢できなくなった。
「さっきからどうした?」
声をかけると、エリシャはぱちりと瞬きをして、湯気越しに、おずおずとこちらを見上げた。
「あ、えっと……その。昨夜のことなんですけど」
「ん?」
「私、お風呂を上がってからの記憶があまりなくて。先生に髪を乾かしてもらったのはうっすらと覚えてるんですけど……その後って、どうなったんですか?」
何故か、頬がゆっくり赤くなる。湯上がりの名残りというより、内側から照れや恥ずかしさからくる色だった。
アルドは、短く嘆息した。
「その髪を乾かしてもらっている最中に、舟を漕ぎ始めていたぞ」
「えっ……ってことはやっぱり私、寝ちゃってたんですか!?」
椅子から立ち上がらんばかりの勢いで、彼女が困惑の色を見せた。
「ん? そうだが」
「ああッ、あうううあああ~~~~ッ!」
エリシャはパンを握ったまま、両肘を卓に置いて頭を抱えた。銀の前髪がさらりと落ち、耳まで赤い。
意味がわからなかった。少なくとも、これほど狼狽している彼女をこれまで見たことがない。
「なんだ、どうした?」
「い、いえ。何でも、ありません……」
全く何でもない様子ではないのだが。
一体どうしたものかと悩んでいると、彼女は泣きそうな顔でおそるおそる尋ねた。
「あの、先生。もうひとつ訊いてもいいですか?」
頷いて、促す。
「私、起きたらベッドで寝てたんですけど……それも、もしかして……?」
「ああ。俺が運んだぞ」
ガン、と乾いた音が卓に落ちた。エリシャが頭突きをかます勢いで突っ伏したのだ。
周囲の客が一瞬こちらを見て、すぐに興味を引っ込める。彼女は両拳を握りしめ、肩を小さく震わせた。
「私、どれだけバカなんですか……せっかくのチャンスだったのに」
「チャンス? もしかして、復習でもするつもりだったのか? まあ、昨日は徹夜明けだったわけだし、無理は──」
「そういうことじゃないんです!」
不意に顔を上げ、声を鋭く立てる。次の瞬間には「あっ」と自分で音量に驚き、また小さくなった。
その頬は、羞恥と苛立ちと、言葉にし損ねた何かの色で染まっていた。こちらとしては、何のチャンスなのかさっぱり要領を得ないのだが、どうしてくれよう。想像を働かせてみるが、全くわからなかった。
(……いや、深入りはやめておこう。何だか機嫌が悪そうだし)
どれだけ学問と向き合っても、この女心というものはさっぱりわからないものだ。ある意味、古来の神秘よりも難しいものなのかもしれない。
そこへ、湯気をまとったスープが運ばれてきた。女将が器用に二杯を片手で捌き、卓に置く。匙で口に運べば、昨夜の骨と根菜の出汁が、喉の奥から身体の中心に火を灯すみたいに染みていった。
温度と塩と油が、沈んでいた空気をほどく。パンを噛み、卵を木匙で切る。口に運ぶごとにエリシャの耳の赤みが引いていくのが見て取れた。
「落ち着いたか?」
「はい……すみません」
落ち着きは取り戻したようだが、落胆の色は変わっていなかった。
すると、ようやく肩の力を抜いたように、柔らかく彼女が笑みを浮かべた。
「ここの朝食、美味しいですね」
「ああ。この値段で朝食付きはありがたいな」
図書館やギルドにも通いやすい距離だし、昨夜の風呂と寝床の質を思えば、暫くはこの安宿を拠点にするのも悪くない。
そんな計算を内側で進めていると、食堂の奥からざわめきがせり上がってきた。最初は二、三の席で小声だったものが、ほどなく波の背が増して、全体に広がる。人の視線が一点に揃ったときの、独特の圧。
女将が通りかかったので、袖を軽く引いて呼び止める。
「女将。何かあったのか?」
「ああ、あんたかい。城壁の方でワイバーンが出たってんで、朝から大騒ぎなのさ」
手拭いで手を拭いながら、女将は眉を上げてみせた。
「ワイバーン……翼竜の魔物ですね」
エリシャが小声で言った。きっと、この瞬間にはもうワイバーンの特徴を全て脳内の図鑑で捉えているのだろう。
「ああ。城壁が無意味になるな」
城壁は大地からの脅威に対する装置であって、天空からの襲撃には無力だ。塔の警鐘、弓兵の配置、魔導師の予備役をどこまで動かせるか。
ギルドの方でも、運悪く朝から騒ぎになっているのかもしれない。朝一番で行って、情報を拾っておくべきだろう。依頼の取消や差し替えが出る可能性もある。
などと考えていると、女将がぐっと顔を寄せ、声を潜めた。
「それより、あんた。昨夜はどうだったんだい?」
「どうって、何が」
「あんな可愛い娘さんと一晩一緒だったんだ。当然、何 か《・》進展はあったんだろうね?」
視線が、ちらりとエリシャの方へ滑る。
意味の理解が胸の真ん中に落ち、アルドの背筋を冷たいものが走った。
「ななななッ!? 何を言っている!? そそ、そんな真似はッ」
「はあ、やれやれ。最近の男はヘタレだねぇ」
女将は大袈裟にため息をつき、エリシャに向けて同情の色を含んだ視線を送る。それから肩を竦め、盆を持って他の客の方へ行ってしまった。置いていかれた空気が妙な温度を帯びる。
当のエリシャはといえば、きょとんと首を傾げていた。
「……?︎どうかしたんですか、先生?」
「な、なんでもない!」
必要以上に強い声になってしまった。彼女の皿へパンをもう一切れ押しやり、スープを飲み干すよう促す。女将の言葉がこの場に残らないうちに、席を立ち、外の空気に切り替えるのが賢明だ。
銀貨を数枚盆に置き、礼を言って食堂を出る。階段を下りる足が少し速い。踵にかかる重さを意識して、速度を落とす。扉を開けると、朝の光はもう角度を変えて、通りの影を短くしていた。人の往来はいつもの倍の速さに見える。城壁の方向からは、警鐘が間を置いて二度、低く響いた。
通りの空は、朝の色から午前の白へ滑りつつあった。鐘楼の鳩が一斉に飛び、屋根と屋根の間を切る風が、どこか鉄の匂いを含む。城壁の方角を見れば、遠くの塔の上で旗が強くはためいている。
隣を歩く弟子は、昨夜より一段、足取りが軽い。眠りと食事で充填されたのだろう。今日もいい働きをしてくれそうだ。
ふたりは、そのままギルドへ直行した。




