第1話 学院追放
「アルド=グラン。学院長の名において、汝を追放する!」
学院長の言葉が、光の魔石に満たされた大講堂の天井を打って、静かに反響した。
ざわめきが遅れて波のように押し寄せ、木製の長椅子が微かに軋む。壇上には学院長と査問官たち。その前に、円環の床紋で区切られた中央──そこにアルドは立っていた。
淡い光は均等に降り注いでいるのに、視界の輪郭だけが冷たく硬かった。法廷めいた空気、裁きのためだけに研ぎ澄まされた沈黙。自分の靴底が石床に触れている感触まで、妙に鮮明だった。
教員と学生たちの視線が、一斉にアルドに集まる。尊敬と恐怖が混ざった眼。いや、呆れと好奇、侮蔑も混じっているか。どれも、今のアルドにとってはどうでもよかった。
だが、その中にひとつだけ、異質な視線があった。視界の片隅の、銀髪緑眼の少女からの視線。学院首席で、百年にひとりの天才という呼び声もある優秀な生徒だ。
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、こちらを見ていた。
「アルド先生が禁呪を使うなど有り得ません!︎何かの間違いではないでしょうか!?」
その少女が叫ぶようにして言った。
講堂の視線が一斉にそちらへ向いた。本来、一介の学生がこの場で発言をしたとしたら、罰せられていただろう。だが、彼女に限ってはその限りではない。それだけ彼女は優秀で、この学院にとって大切な人材だったからだ。
学院長は彼女をちらりと見るだけで、顔色ひとつ変えずに指先を動かした。
「皆にも証拠を見せてやれ」
背後の魔導端末が低く唸り、空間に薄い膜のような映像が立ち上がった。
学院が誇る映写術士が調律した、魔導映像。映し出されたのは、研究棟の実験室と破損した魔力抑制器、走る罅、そして──膨張し、爆ぜる光と吹き荒れる魔力の渦だった。
目撃時の衝撃が、見ている者の胸腔に疑似的な圧となって響く。誰かが息を呑んだ音が、やけに大きく聞こえた。
「これがアルド=グランの研究室で起きた事故です! 私は助手として立ち会っていました! 彼はまだ完成していない危険な理論を独断で試し……私は止めたんです。でも彼は聞かず……結果、暴走を!」
映像が止まると、前列の男がそう声高に言った。
薄い笑みを張り付けた口元。額に汗が滲み、だがそれを指で拭う仕草はどこか芝居がかっていた。
それは、ノリキンという男だった。
研究棟で幾度も顔を合わせた同僚と言えば聞こえがいいだろうか。緊急時ほど声が少し上ずる癖は、昔から変わらない。
「そんな……嘘、ですよね?」
学院一の才女が、悲痛そうな視線をこちらに寄越した。助けを求めるような、信じたい何かに縋るような瞳をしていた。
(……悪いな)
少女から、すっと視線を逸らした。
アルドの専攻は、禁呪の安全化に関する基礎研究だ。本来誰も手を出そうとしない領域なので、禁呪に関する事故が起きれば、当然疑いの目はこちらに向く。
もちろん、アルドはこのような実験など行っていない。犯人は声高に講釈を垂れている、ノリキン博士だ。
彼はアルドの研究資料を盗み、粗悪な詠唱文を自作した。要するに、禁呪を自らのものにしてアルドの研究成果を横取りしようとしたのだ。
しかし、詠唱の核にあるべき意味構造が欠落したまま音と文章だけを重ねても、魔力回路が崩れるだけだ。回路が崩れれば、当然暴発する。そんな基礎的なミスを、こともあろうか、研究者のノリキンはやらかした。その上、その罪をこちらに擦り付けてきたのだ。
(無実を証明するのは簡単だ。俺はそもそも詠唱など必要としないのだから、詠唱に失敗するはずがない、と言えば済む話だからな)
だが、それを正直に言えない事情もあった。
それを言ってしまえば、別の問題が起きてしまう。
「この件の責任は重い。勝手に禁呪を扱い、暴走させるなどということは、あってはならない。そなたの才を失うのは学院としても痛手ではあるのだが……我がアルケイン魔法学院の威信を守るためだ。わかってくれ」
学院長が口を開いた。公正と威信、そのふたつの言葉を均等に抱くその声色に、逃げ道は見いだせない。
彼の目に映っているのは、人ではなく制度だった。規範から外れた者を、ここで切り捨てる。この大層な全校集会も、その手続きに過ぎなかった。
ノリキンは俯き、その陰で口角をわずかに上げていた。僅かに傾いた光が、笑みの痕跡を喉の筋に影として刻んだ。
アルドは短く息を吐いた。乾いた空気が舌を撫で、味のない息となって喉を抜ける。
「……ええ、そうですね。威信は大切です。もちろん、守るべきでしょう」
アルドのその穏やかな口調に、学院長が眉を顰めた。
反抗でも服従でもない返答。感情の所在が読み取れないものに対して、人は不安になる。
「何か言い残すことは?」
学院長が訊いた。
「特には」
アルドは答えた。
静寂。魔石の灯りがわずかに瞬き、その微細な変化だけが時間の経過を教える。
(まあ、もうそろそろ研究室でできることにも限界が来ていたしな。潮時だったのかもしれない)
アルドが講堂の出口へ一歩踏み出すと、長椅子の列が波紋のようにざわめいた。誰かが小声で何かを言い、誰かがそれを咎める。
銀髪の少女が唇を強く結んで立ち上がりかけたが、隣の教師に肩を押さえられ、その場に留められていた。涙が光の粒になって、睫毛の先に震えている。
唯一心残りといえば、この才女を一人前の魔導師に育ててやれなかったことだろうか。
彼女はいつも講義室の最後列でノートを取っていて、アルドの講義を熱心に聞いていた。講義後はいつも質問しに来ていて、天才でありながら、誰よりも貪欲に学んでいたように思う。彼女に自分の知識を授けられなかったことだけが、残念だった。
ただ、彼女は優秀だ。自分がいなくとも、立派な魔導師となって歴史に名を遺すだろう。
壇を下り、通路を進む。自分を囲んでいた視線が背中に移動し、やがて音に溶けていった。
扉の手前で、ひとつの影が立ちはだかった。ノリキンだ。肩越しに聞こえる喉の鳴りが、濁った期待を含んでいる。
「悪い研究なんかするからですぜ、センセ?」
囁き。耳殻にかかる息が、不潔な体温を持っていた。
アルドは立ち止まり、横顔だけで男を見る。光がこめかみに白く沿った。
「……お前は根本的に禁呪をわかっていない。あんな幼稚な詠唱では、また暴発させるぞ」
「な、何だとぉ!?」
ノリキンの顔が、びくりと跳ねた。
「ふっ。せいぜい、次の身代わりを探しておけ。尤も、俺以外に適任がいるとも思えんがな」
アルドは鼻で笑うと、扉へ向き直る。ノリキンの喉が何かを続けようと鳴ったが、声にならなかった。
扉を押す。蝶番の軋みが低く鳴り、廊下の冷えた空気が頬を洗った。廊下の壁に等間隔で嵌められた魔石の灯が、アルドの影を切れ目なく連ねる。
これが、五年にわたる研究者生活の最後だった。




