第6章:山脈の試練
アレスマの山間集落を後にした俺たちは、いよいよラマンギナバック山脈の核心部へと向かった。
遠くに見えていた山並みは、近づくにつれてその巨大な威容を現し、まるで天に届くかのように、俺たちの前に立ちはだかるようにそびえ立っていた。
その姿は雄大で、同時に畏怖の念を抱かせるほどの威圧感があった。
麓に到達した時には、その圧倒的な存在感に思わず息を呑んだ。
どこか神聖で、しかし同時に危険な気配を纏った場所だ。
標高は高く、麓の集落と比べると気温はぐっと下がっていた。
空気は薄く、肺に冷たく染み渡る。
呼吸をするたびに、体が冷えていくような感覚がある。
山肌は鋭利な岩肌が露出し、木々はまばらになる。
代わりに、見たこともない高山植物が、岩の間やわずかな土壌に根を張っているのが見えた。
常に白い濃霧が山を這っており、視界は悪く、まるで山が自らの姿を隠そうとしているかのようだ。
エルフの村長が言っていた通り、ここはまさしく「道なき道」、そして試練に満ちた場所だった。
俺たちの一行は、俺、日紫喜部長、山部与明さんとその妻・千映さん、竜族の戦士ラスタ、案内人のトリム、そして新たに仲間に加わった紅炎の刃のメンバー、クルル団長、カーディフ、オーサ。総勢九名。
それぞれの種族や経歴は全く異なるが、『ファンタージア』という一つの目的(あるいは日紫喜部長と山部さんにとっては地球への帰還という目的を叶える可能性のある場所)のために、この険しい道を共に歩むことになった。
旅は想像以上に過酷だった。
山道は整備されておらず、急勾配や、滑りやすい岩場が連続する。
一歩間違えれば、遥か下まで滑落してしまうだろう。
時には、人の身長を超えるような、硬い葉を持つ高山植物の藪をかき分け、時には、凍えるような雪解け水が勢いよく流れる沢を渡らなければならない。
気候も不安定で、晴れていたかと思えば突然濃い霧に包まれたり、肌を刺すような冷たい雨や雪が降り始めたりする。
ラスタは、鍛え上げられた肉体と、竜族としての高い身体能力、そして山岳地帯での経験を活かし、常に隊列の先頭を行く。
彼は重い荷物を背負いながらも、険しい岩場を軽々と登っていく。
その力強い足取りと、時折振り返って仲間たちの様子を気遣う仕草は、皆に安心感を与えた。
危険な場所では、ラスタが先行して安全を確認し、他のメンバーが安全に通過できるようにサポートしてくれた。
彼の寡黙さの中に、確かな頼もしさがあった。竜族の肌は冷気にも強いらしく、彼は寒さを感じていないようだった。
トリムは、この地域の地形や植生、そして危険な野生動物について驚くほど詳しい知識を持っていた。
彼はまるでこの山の生き物であるかのように、迷うことなく道を選び、危険な場所を避ける。
どこに危険な落とし穴があるか、どこに毒のある植物が生えているか、どこで安全に休憩できるか。
彼の持つ情報がなければ、この旅はすぐに頓挫していただろう。
彼はまた、山で食料となる木の実や山菜を見つけるのも得意だった。
エルフ村長から教わった地図と、トリムの経験が、俺たちの進むべき道を照らしてくれた。
俺は、周囲の植物を観察しながら進んだ。
高山植物の中には、珍しい薬効を持つものが自生している可能性があった。
それは薬草研究者としての本能のようなものだった。
俺は知恵と機転を利かせ、危険な場所では滑り止めになる植物の根を掘り出したり、疲労回復に効く薬草を見つけ出して仲間に配ったりした。
俺が渡した薬草を口にした日紫喜部長が、「おお…少し楽になった気がする…」と呟いた時、俺は静かな喜びを感じた。
俺の知識は、物理的な力だけでなく、この過酷な旅における、精神的な支えにもなった。
トリムとの植物談義も続いた。
新しい植物を見つけるたびに、互いの知識を交換し、その効能や特徴について語り合った。
それは、過酷な旅の中で、俺にとって心の安らぎとなる時間だった。
日紫喜部長と山部与明さんは、慣れない山道に苦労していた。
特に部長は、日頃の運動不足が祟って、すぐに息切れしたり、足取りが重くなったりした。
彼の顔は常に疲労困憊といった様子で、弱音を吐くことも多かった。
だが、ミシラニィ島での経験を経て、彼は以前のような傲慢さを露骨に出すことはなくなった。
山部さんが常に彼の側につき、励まし、時には重い荷物の一部を持ってあげたり、肩を貸したりしながら進んでいた。
山部さんは寡黙ながらも、常に周囲を警戒し、仲間の安全に気を配っていた。
彼は、この過酷な旅の中でも、サラリーマンとしての冷静さと、人間としての優しさを失わなかった。
妻の千映さんは、夫の負担を減らそうと、自分の荷物を軽くしたり、部長に優しく話しかけたりしていた。彼らの間には、深い愛情と信頼があった。
紅炎の刃のメンバーは、流石傭兵団というべきか、この険しい山道にも慣れているようだった。
クルル団長は力強い足取りで隊列を維持し、カーディフは鋭い鷹の目で周囲を警戒し、オーサは魔法で足場を安定させたり、弱い魔物を牽制したりしてくれた。
彼らのプロフェッショナルな動きは、見ていて感心するものだった。
登山初日。
道は岩場と雪解け水に阻まれ、滑落の危険が付きまとった。
何度か足を踏み外しそうになった山部さんや部長を、ラスタやトリムが間一髪で支える場面もあった。
俺は、滑りやすい岩に張り付いている苔に、滑り止めになる植物の根をすり潰したものを塗ったり、安全な足場を確保するための方法を提案したりした。
皆で協力しなければ、この山は決して超えられない。そのことを改めて実感した。
二日目。
山腹に大きな洞窟を見つけ、その奥深くに宿をとることにした。
洞窟の中は外の寒さから遮られ、風も入ってこないため、一時的な休息場所としては最適だった。
焚き火を起こし、簡単な食事を終え、それぞれの寝袋に潜り込んだ時だった。
静寂を破るように、突如、大地を揺るがすような、轟音が響き渡った。
洞窟の入り口の方から、地鳴りのような唸り声が近づいてくる。
「グオオオオオオッ!」
咆哮と共に、洞窟の入り口が大きな音を立てて崩れ落ちた。
大量の岩石や土砂が流れ込み、出口を塞いでしまう。
同時に、冷たい風と、何かの巨大な体臭のようなものが流れ込んできた。
暗闇の中から、巨大な影が現れた。
それは、まさしくこの山脈の主と呼ぶにふさわしい、恐るべき魔物だった。
六本の脚を持ち、全身が硬い岩で覆われた、巨大な岩竜だ。
その目は、溶岩のように赤く燃えている。洞窟の中に、その巨体が収まりきらないほどだ。
「な、なんだこれは!?」
日紫喜部長の震え声。
山部さんの「岩竜…! しかも大きい!」という呟き。
「引け! 戦闘態勢!」
クルルの鋭い号令が響き渡る。
傭兵団のメンバーは即座に布陣を敷いた。
ラスタも素早く構えを取り、オーサは魔法の詠唱を開始した。
トリムは、日紫喜部長と山部さん、そして千映さんを庇うように、彼らを洞窟の奥の、より安全な場所へ誘導した。
岩竜は巨大な顎を開け、溶岩のような高熱のブレスを吐き出した。
洞窟全体が、その熱で揺れるかのようだ。
間一髪でそれを避ける。
ブレスが通り過ぎた場所の岩壁は、赤く焼け爛れている。戦闘が始まった。
ラスタは自慢の炎のブレスで応戦し、岩竜の硬い装甲にダメージを与えようとするが、岩竜の皮膚は驚くほど頑丈だ。
オーサの詠唱が完了した魔法が炸裂し、岩竜の体に直撃するが、わずかに怯ませる程度だ。
カーディフは、鋭い鷹の目で岩竜の弱点を探し、正確無比な矢を放つ。岩竜の関節や、目の周りといった装甲の薄い部分を狙う。
紅炎の刃の獣人たちは、それぞれの得意な武器やスキルを駆使して岩竜に立ち向かった。
クルルは巨大な両手剣を振るい、岩竜の硬い皮膚に刃を立てようとする。彼らは連携を取りながら、岩竜の猛攻を凌いでいく。
俺もまた、傍観しているわけにはいかなかった。
激しい戦闘によって、傭兵団やラスタに負傷者が出始めたのだ。
岩竜の攻撃は強力で、まともに喰らえば致命傷になりかねない。
彼らは、俺たちのために戦ってくれている。
俺ができることは、彼らをサポートすることだ。
俺は急いで持っていた薬草を取り出し、即席の治療薬を調合し、負傷者の応急手当に奔走した。
止血効果のある薬草を傷口に塗り込み、痛み止めの薬湯を飲ませる。
疲労困憊の仲間には、滋養強壮に効く薬草を勧めた。
「クルル殿、その腕の傷にこれを! 出血が止まります!」
「カーディフさん、これを飲んで! 少しでも痛みが和らぐはず!」
「ラスタさん、回復薬です! 無理しないで!」
俺の冷静な指示と手当ては、戦闘の継続に貢献した。
傭兵たちは、俺の治療のおかげで、傷を気にせず戦うことができた。
山部夫妻と、部長は共に安全な場所に隠れながら、俺の指示に従い、薬草を運んだり、簡単な手伝いをしたりしてくれた。
日紫喜部長は、この非現実的な状況に完全に圧倒されていたが、俺や仲間たちが必死に戦っている姿を見て、何かを感じ取っているようだった。
彼の顔からは、パニックの色が消え、真剣な、そして少しの畏敬の念のようなものが浮かんでいた。
彼は、もはや会社の部長ではなく、ただ一人の人間として、この極限状況を体験していた。
激闘の末、彼らは力を合わせ、ついに巨大な岩竜を退けることに成功した。岩竜の巨体が、洞窟の中に横たわっている。
その巨体からは、まだかすかに熱気が立ち上っていた。
洞窟の入り口は塞がれたままだが、内部に安全な場所を確保できた。安堵のため息と、激しい疲労が彼らを包み込んだ。
皆、全身泥まみれで、傷つき、消耗していた。だが、誰一人、命を落とした者はいなかった。
深夜。
洞窟の中で焚き火を起こし、簡単な食事を終えた俺たちは、外の様子を見るために、塞がれた入り口のわずかな隙間から外を覗いた。
満天の星が輝いていた。山奥のためか、空気が澄んでおり、地上では見ることのできないほど、無数の星々が、まるで宝石のように夜空に散りばめられている。
岩竜との激しい戦闘の後、静寂が戻った山の中で見る星は、言葉にできないほど美しかった。
それは、この世界の神秘と、俺たちの生を祝福しているかのようだった。
「お前、本当にただの研究者か?」
カーディフが、隣で星空を見ていた俺に、冗談めかして言った。
岩竜との戦闘で、俺が冷静に負傷者の手当てをしていた姿を見ていたからだろう。
彼は、鋭い鷹の目で、俺の意外な一面を見ていたのだ。
「自分でも分からない。でも……こんな風に、誰かの力になれてるなら、それでいいと思ってる」
俺は素直に答えた。
地球にいた頃は、自分の研究が直接誰かの役に立っているという実感は薄かった。
製品となって市場に出ても、それは遠い存在だった。
でも、この異世界に来て、自分の知識が、目の前の人々の命を救い、痛みを和らげていることを肌で感じている。
それは、何よりも代えがたい経験だった。
傭兵として常に命の危険に晒されている彼らにとって、俺の知識は、彼らの命を守る盾の一つになったのだ。
そして、彼らが俺を「仲間」として認めてくれたことが、何よりも嬉しかった。
「賢者殿は、この山でも役に立つ。
我々の力だけでなく、賢者殿の知恵があってこそ、この旅は成り立つだろう」
クルル団長が、焚き火の向こうから言った。
彼の言葉に、他のメンバーも頷く。
日紫喜部長は、静かに俺を見ていた。
彼の目には、以前のような軽蔑の色はなく、代わりに、何かを考えるような光が宿っていた。
山部さんご夫婦は、安堵したような表情で俺に微笑みかけた。
三日目。
岩竜との戦いで消耗した体を休ませながらも、俺たちはラマンギナの山頂を目指した。
洞窟の入り口は塞がれたままだが、トリムが別の抜け道を見つけてくれた。
道はさらに険しくなり、空気は一層薄くなった。
呼吸をするたびに、肺が軋むような感覚がある。
気温もさらに下がり、肌を刺すような冷たさだ。
しかし、皆の心には、『ファンタージア』を見つけ出すという強い思いがあった。
そして、ついに霊峰ラマンギナの山頂付近、エルフの村長から聞いた神域と呼ばれる場所に到着した。
険しい岩場を登りきると、突如として視界が開け、そこに広がっていた光景は、息を呑むほどに美しく、そして神秘的だった。
足元に広がるのは、一面に咲き誇る、淡い光を放つ花々。
その種類は多様で、地球では見たこともない色や形の花が、幻想的な光の中で揺れている。
赤、青、黄、緑…様々な色の花が、それぞれ微かな光を放ち、あたりを照らし出している。
まるで、星屑が地上に降り注いだかのような、あるいは夢の中に迷い込んだかのような光景だった。
空気は清らかで、どこか甘い香りが漂っている。
そして、その花畑の中央に、一輪だけ、ひときわ強く、淡い金と紫の光を宿した花が咲いていた。
その花弁は、まるで透き通るようなガラス細工のように繊細で、中心からは淡い光の粒子が立ち上っている。
神秘的で、荘厳で、そして、どこか温かいオーラを放っている。
「……『ファンタージア』だ」
俺の声が、静寂に包まれた神域に響いた。
紛れもない、探し求めていた幻の花。
その圧倒的な美しさと、放つ神聖なオーラに、誰もが言葉を失った。
長かった旅の目的が、今、目の前にある。
ミシラニィ島から始まり、ハジュメティシティ、エルフの村、獣人の国境地帯、そしてラマンギナバック山脈の過酷な道のり。
全ての苦労が、この瞬間のためにあったのだ。
俺は、エルフの村長から教えられた通りに、敬意を払いつつ、慎重に『ファンタージア』に手を伸ばした。
長かった旅の終着点。
目的を達成した安堵感と、この神秘的な花に触れることへの畏敬の念が入り混じっていた。
これで、会社の任務は果たせる。
『ファンタージア』という、地球には存在しない幻の花。
これを持って帰れば、日紫喜部長も満足するだろう。
そして、地球への帰還の道が開かれるかもしれない。
だが、花に触れようとした、その瞬間——
突如、足元の地面が激しく歪み、巨大な転移魔法陣が、地中から浮かび上がるように発動した。
それは、トランジット・ポートで見たような洗練されたものではなく、どこか不気味で、古く歪んだ紋様だった。
強い青白い光と、低く、不気味な唸り声が響き渡る。
「な、なんだ!」
「伏せろ!」
クルルの叫びと共に、光の中から、黒装束に身を包んだ数人の魔術師と、凶悪な雰囲気を纏った謎の獣人たちの集団が現れた。
彼らは、フードで顔を隠しているが、その目だけが冷たく、鋭く光っている。
その表情からは、明確な敵意と、そして『ファンタージア』に対する、異常なまでの貪欲さが剥き出しだった。
「見つけたぞ、『ファンタージア』! 我々のものだ!」
リーダーらしき魔術師の一人が、高らかに、そして勝利を確信したかのように叫んだ。
彼らはこの神域の存在と、『ファンタージア』の力を知っており、それを奪うために、このタイミングを狙って現れたらしい。
彼らは、神域を守る古き結界に狙いを定め、闇の魔法を容赦なく放ち始めた。
黒い光の奔流が結界に衝突し、結界は、その攻撃を受けて、かすかに揺らぎ始める。ヒビが入り、光が点滅する。
このままでは、結界が破られ、『ファンタージア』の力が奪われてしまう。
「神域を汚す者め! 我々が護る!」
ラスタが咆哮し、クルル率いる紅炎の刃も、即座に臨戦態勢に入った。
彼らは、『ファンタージア』やこの神域を守る義務があるわけではない。
だが、彼らはこの山の均衡を守る者であり、そして何よりも、俺たちの仲間なのだ。
山部与明さんと日紫喜部長は、突如として現れた新たな敵に、顔を真っ青にして後方に下がった。
トリムも、護衛として彼らの傍らにつく。
最後の戦いが始まる。
『ファンタージア』、そしてこの神聖な場所を守るために。
そして、この旅で得た、かけがえのない仲間たちを護るために。
俺は、自分がこの異世界で得たもの、そして護るべきもののために、自分のすべてを賭ける覚悟を決めた——。
それは、単なるサラリーマンとしての義務感では断じてない。
この世界で出会った人々、共に旅をした仲間たち。
彼らの信頼と友情。
そして、異世界で芽生えた、新しい自分自身。
それらすべてを護るための戦いだった。
『ファンタージア』は、もはや単なる会社のサンプルではない。
それは、俺がこの異世界で生きる意味を見つけた、その証なのだ。
そして、この神聖な場所を、悪しき力に渡してはならない。