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第2章:失われた帰還(後編)

辿り着いたのは、まさかの孤島だった。

異世界メレディの広大な大陸から遠く離れた、辺境の地にあるミシラニィ島。

その島は、外界との交流がほとんどなく、手付かずの荒れた岩場と、鬱蒼とした、未知の植物が生い茂る深い森に囲まれていた。


俺たちが流れ着いたのは、島の南側に位置する小さな港町「イリグリ港」。

港といっても、老朽化した桟橋が数本と、その周囲に木造の簡素な建物が集まっているだけの、小さな集落に過ぎなかった。

潮の香りが強く、海鳥の声が響く。空気は清浄で、森の匂いと潮の匂いが混じり合っている。

「……つまり、我々は本格的に置いてけぼり、というわけか」

日紫喜部長は、泥まみれになりながら、その場にへたり込んだまま動かない。


彼の顔からは、トランジット・ポートでの威勢の良さが完全に消え失せ、ただ茫然自失としているだけだった。

地球への帰還手段がないという事実は、彼の精神に想像以上のダメージを与えたようだ。

「なんでこうなったんだ! 本社との連絡は取れないのか!? いつになったら帰れるんだ! こんなところでどうやって生活するんだ!」

部長は混乱し、怒り、そして恐怖に震えている。

彼は、この異世界という場所を、あくまで一時的な「出張先」としてしか捉えられていなかったのだろう。


それが突然、帰ることもできない「現実」として突きつけられ、対応できずにいるのだ。

彼の叫びは、誰かを責める声であると同時に、自分自身の無力さに対する悲鳴のように聞こえた。

横で山部与明さんは、そんな部長をなだめようともせず、静かに眉をひそめながらも、この絶望的な状況をどうにか打開しようと、冷静に周囲の様子を観察し、島の住民に話を聞こうと努めていた。

彼の妻、千映さんは、夫に寄り添い、その手をそっと握っている。

二人の間には、言葉にせずとも通じ合う、深い信頼関係が見て取れた。


彼らは、部長のように取り乱すのではなく、現実を受け止め、どうすれば生き延びられるかを考えているようだった。

俺は、混乱しながらもどこか冷静だった。

ミシラニィ島に漂着した時の衝撃と絶望は大きかったが、部長のようにパニックになることはなかった。

それは、俺がサラリーマンとして、どこか自分の人生を傍観しているような感覚を持っていたからかもしれない。

あるいは、異世界という場所に対して、薬草研究者としての純粋な好奇心が、恐怖心を上回っていたからかもしれない。


ここでパニックになっても状況は好転しない。

まずは、この島のことを知る必要がある。そ

して、ここで生きていく方法を見つけなければ。

帰れない、という事実は、あまりにも重いが、それを嘆いていても始まらない。

島の住民たちは、異界から突然現れた、奇妙な格好をした三人を、最初は不審な目で見つめていたが、敵意を示す者はいないようだった。


彼らは私たちを集落にある唯一のバー「ハドリィ」に案内してくれた。

そこは、島の住民たちの憩いの場であり、情報が集まる場所でもあった。

石造りの、古いが堅牢な建物で、中には木製のテーブルと椅子が並び、暖炉の火が燃えている。薄暗い店内には、様々な種族の客がいた。

人間、獣人、ドワーフ、そして、珍しいことにエルフの姿も見えた。


ハドリィのバーテンダーは、ウサギ獣人の若い女性だった。

大きな耳と、ふわふわした丸い尻尾が可愛らしい。

彼女の名前はニト。快活で人懐っこい性格で、ミシラニィ島のことを色々と教えてくれた。

彼女の話によると、この島は古くから外界との交流が少なく、住民は漁業や、森での採集、そして僅かな農業で細々と暮らしているという。

島には大きな街はなく、イリグリ港の集落が最も大きいらしい。


集落には、ニトのバーの他に、魔法具店を営むドリアクという人物や、集落から少し離れた鍛冶場で武具を扱うドワーフの鍛治師、シーボスという人物もいた。

ドリアクは物静かだが博識な人物で、この世界の歴史や文化、そして魔法について詳しい知識を持っていた。

彼の店には、不思議な光を放つ石や、奇妙な形の道具などが並んでいる。

シーボスは、頑固そうに見えて情に厚い男だった。

彼の鍛冶場からは、常に金属を叩く音が響いてくる。

彼ら島の住民たちは、俺たち異邦人を最初は警戒していたが、根は正直で親切な人々だった。


ミシラニィ島には、地球と連絡を取るための通信手段は全くなかった。

管理局から貸与された翻訳機は、異世界の言語を理解するには役立ったが、通信機能は持っていない。

魔法陣についても尋ねてみたが、この島には転移魔法陣のようなものは存在しないか、あるいは存在しても不安定で使えないらしい。


物理的に島から出るには、船しかないが、本土への定期便などなく、たまに行商人の船が立ち寄る程度だという。

その行商人も、いつ来るか分からない。

風向きや海の状況に左右されるため、数ヶ月来ないこともあるらしい。

帰還する手立ては、文字通り皆無だった。


「帰れない……本当に帰れないのか……」

日紫喜部長は、ハドリィのバーの片隅で、島の酒を飲みながら項垂れていた。

彼の顔からは、会社の部長という肩書も、出世欲も、全てが剥ぎ取られてしまったかのようだった。

彼は、この島での生活を「地獄」と呼び、ひたすら不平不満を繰り返した。


山部与明さんも、地球に残してきた家族のことを案じているのか、時折遠い目をして海を眺めていた。

妻の千映さんは、そんな夫にそっと寄り添い、優しく励ましていた。

彼らは、絶望しながらも、この状況を受け入れようと努めていた。

山部さんは、もしこの島で長く暮らすことになった場合に備え、島の住民から食料の確保方法や、簡単な道具の使い方などを学ぼうとしていた。

彼は、現実主義者だった。


俺は、この島での生活に順応しようと努めた。

ニトやドリアク、シーボスといった現地の人々との交流を重ねるうちに、少しずつだが、この島の文化や習慣を理解し始めた。

彼らの生活はシンプルだが、自然と共に生きる知恵に満ちていた。


俺は、自分の薬草知識がこの島で役に立つのではないかと考えた。

ミシラニィ島には、地球にはない珍しい植物がたくさん自生していた。

森に入り、それらを採取し、日本の薬草知識と比較研究することは、薬膳開発部の社員として当然の行動だった。

同時に、この島の薬草が、俺たちのサバイバルに役立つ可能性もある。


島の住民の中には、簡単な病気や怪我で困っている者もいた。

彼らは医療施設のようなものを持っておらず、自分たちの知識で手当てをしていたが、限界があった。

俺は、採取した薬草を使って簡単な薬湯を作ったり、傷口に消毒効果のある植物を塗ったりしてみた。日本の漢方薬や民間療法に関する知識が、異世界でも驚くほど通用したのだ。


最初、島の住民たちは俺の行動を訝しげに見ていた。

「異界からの妙な人間が、何をしようとしているんだ?」

という視線を感じた。

しかし、俺が作った薬湯で風邪が早く治ったり、傷の治りが早くなったりするのを見て、彼らは驚きと共に、俺の知識の確かさを認めた。


特に、ニトの祖母が長引く咳に苦しんでいた時、島の薬師が作った薬も効かず、家族は諦めかけていた。

俺は、島の薬草と地球の漢方の知識を組み合わせ、咳を鎮める効果と体を温める効果を持つ薬草を調合し、薬湯を作ってニトに渡した。

ニトが半信半疑で祖母に飲ませたところ、数日で咳が劇的に和らいだのだ。

この出来事は、集落中で評判となり、俺は島の住民たちから「遠い土地から来た賢者」「癒やしの手を持つ男」と呼ばれるようになった。


感謝され、必要とされているという実感は、失われた帰還への絶望感を和らげてくれる、温かい光となった。

それは、地球にいた頃の、誰かの歯車として働く感覚とは全く違うものだった。自分の知識が、直接、目の前の人々の助けになっている。

彼らの笑顔と感謝の言葉が、俺がこの異世界で生きる意味を与えてくれた。

ミシラニィ島での生活は、不便ではあったが、温かい人々の心に触れることができ、それはどこか心地よかった。


一方、日紫喜部長は、相変わらず島の生活に馴染めなかった。

ハドリィのバーの片隅で酒を飲みながら、

「こんな場所で朽ち果てるのはごめんだ」

「私はヘルス・フロンティアの部長だぞ」

「すぐに本社に連絡して迎えに来させる!」

と繰り返し、現実を認めようとしなかった。

彼は、島の住民や、この島に古くから暮らす竜族たちに対しても傲慢な態度を取り、摩擦を生むばかりだった。


竜族は、島を守る存在として住民から尊敬されているが、部長は彼らを「原始的なトカゲ」と見下すような発言をしたこともあり、族長のドルフガングをはじめとする竜族たちの不興を買っていた。

山部さんは、そんな部長をなだめつつ、食料の確保や、もしもの時のために自衛の準備をしていた。

彼は、冷静さを保ち、現実的な行動をしていた。


ミシラニィ島での生活は、不便ではあったが、時間はゆっくりと流れていた。

地球での慌ただしい日常とは全く違う、自然のリズムに沿った生活。

それは、どこか忘れかけていた大切なものを思い出させてくれるようでもあった。

都会の喧騒から離れ、豊かな自然の中で、俺は少しずつ自分自身を取り戻していくような感覚があった。


しかし、この島にいつまでも留まっているわけにはいかない。

俺は、会社からの命令…ではなく、薬草研究者としての純粋な好奇心から、『ファンタージア』という幻の花を探しに来たのだ。

その目的を、忘れてはいけない。

ある日、集落の広場で、俺は再び目を疑った。

そこに立っていたのは、かつて日本の公園で、そして異世界トランジット・ポートで一瞬だけ姿を見た、白い髭の老人だった。


風采は上がらないが、その眼差しは透き通っていて、どこか達観した雰囲気がある。

「お爺さん! やっぱりここにいたんですか!」

駆け寄ると、老人は柔和な笑みを浮かべた。

その笑顔は、まるで全てを見通しているかのようだ。

「ふぉふぉふぉ、やはり来たか、若い者よ。この島での生活はどうじゃった? 少しは楽しめたかのう?」

老人は、まるで俺がここに来ることを知っていて、見守っていたかのようだった。

そして、以前と同じように、不思議な言葉を口にした。

「探しているのは、『ファンタージア』であろう……あの花は、この島にはない。遠く離れた本土、ドラグランの大地にあるラマンギナバック山脈にな」


『ファンタージア』の情報。

それは、閉ざされた孤島での生活に、一筋の希望の光をもたらした。

ラマンギナバック山脈。

具体的な場所の名前を聞いたのは初めてだった。

そこに行けば、目的の花が見つかるかもしれない。

そして、あの老人の言葉。

「そこにはきっとあなたが望むものがある」

『ファンタージア』がある山には、俺が望むものがあるというのか?

俺が、この異世界で見つけたいと漠然と感じていた「何か」があるというのか?

その答えを知るためには、島を出るしかなかった。


俺は老人に詳しく話を聞こうとしたが、老人はそれ以上何も語らず、

「道は己で見つけるものじゃ」

とだけ言い残し、再び、いつの間にか姿を消してしまった。

まるで幻だったかのように。

しかし、老人が残した情報は、俺の心に確かな決意を宿らせた。

『ファンタージア』を探しに行く。この島を出て、本土へ渡る。


ミシラニィ島での生活は、不便ではあったが、温かい人々の心に触れることができた。

ニトの笑顔、ドリアクの知的な会話、シーボスの頑丈な仕事ぶり、ドルフガングの威厳。

彼らとの出会いは、俺にとってかけがえのないものとなっていた。

だが、自分本来の目的、そしてあの老人の言葉を思い出した俺は、この島に留まっているわけにはいかないと決意した。

本土へ渡る手立てを見つけなければ。


島の住民たちに、本土へ渡る方法について相談したところ、この島に古くから暮らす竜族の長、ドルフガングが協力を申し出てくれた。

竜族は古くからこの島を見守る守人であり、外の世界とも交流があるという。彼らは、俺が島の住民に貢献してくれたことに感謝し、本土へ渡るための船を用意してくれることになったのだ。

日紫喜部長は、竜族の協力を得られたことに安堵し、彼らに媚びへつらうような態度を見せたが、ドルフガングは静かにそれを受け流していた。

山部さんご夫婦も、本土へ渡れるという知らせに安堵していた。


島を出る朝、イリグリ港の住民たちが集まって、俺たちを見送ってくれた。ニトは目に涙を溜めて、俺の手を握った。

ドリアクは、餞別として小さな魔法具をくれた。

シーボスは、俺が本土で安全に旅ができるようにと、簡易的な防具をくれた。

ドルフガングは、船の安全な航海を祈ってくれた。

「気をつけて、侑神さん。また戻ってきてくださいね! 必ずだよ!」

ニトの声が、別れを惜しむかのように風に乗って届く。

その声援に、胸が熱くなる。短い期間だったが、彼らとの出会いは、俺にとってかけがえのないものとなっていた。

必ず、この島に良い知らせを持って戻ってこよう、と心に誓った。


特別に用意されたのは、古いが頑丈そうな小型商人船だった。

それに乗り込むのは、俺、日紫喜部長、山部さんご夫婦、そして竜族から志願してくれた若き戦士ラスタ。ラスタはドルフガングの甥にあたるらしい。

彼は、外の世界に興味があり、俺たちの旅に同行したいと強く希望したのだという。

まだ若い竜族だが、その眼差しには強い意志と、外の世界への好奇心が宿っていた。

竜族が同行してくれるのは、この先の旅において非常に心強い。


日紫喜部長は、島にいても状況は変わらないと悟ったのか、本土に行けば地球への帰還の糸口が見つかるかもしれないというかすかな希望を抱き、渋々といった様子で船に乗り込んだ。

彼にとって、ミシラニィ島での生活は屈辱でしかなかったのだろう。

山部与明さんは、地球に残してきた家族に会いたいという一心で、本土行きを決めたようだった。

妻の千映さんは、夫と共にいられるなら、どんな場所へでも行く覚悟を決めているようだった。


こうして植良侑神は、異世界の孤島ミシラニィ島を離れ、「幻の花・『ファンタージア』」を求め、本土への長い旅立ちを決意したのだった。

それは、地球への帰還を目指す旅であると同時に、ミシラニィ島で芽生えた、新しい自分自身を探す旅でもあった。

社畜として日々に埋もれていた男が、異世界という非日常の中で、自身の内なる声に導かれるまま、新たな一歩を踏み出した瞬間だった。

ミシラニィ島で得た温かい人々の絆を胸に、俺は未知なる本土へと向かった。

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