(5)ふたたび、700年前の世界へ
雲母坂にはハナちゃんの自転車が停めてあったからもう彼女は登り始めてるようだ。6月とはいえ、夏日に2往復目の登りはちょっとこたえたけど1時間ちょいで千種さんの石碑に到着した。午後3時。
「ハナちゃん、早いな」
「あら、健太郎こそ2回目なのに早いじゃない。それよりここね、バックドロップしちゃった時に座ってたのは」
そういってハナちゃんは根元から折れたパイプを指差した。
「あぁ、そこそこ。びっくりしたよ、いきなりバキっだからね」
それから普通に飛び降りたり、意を決してバックドロップも試してみたけど、それらしき現象は一度も起きなかった。オレは残念な気持ち半分、わざわざ付き合ってくれたハナちゃんに申し訳ない気持ち半分で石碑の前に座り込んで一服した。夕方も4時を過ぎて、下山していく人たちが木立の隙間から見える。
「ハナちゃん、わざわざ付き合ってくれて申し訳なかったけど、オレ達もそろそろ下りようか」
「そうね。待ってても起きるってもんでもないでしょうし、これ以上遅くなると暗くなってきちゃうものね」
オレたちはザックを背負って、名残惜しそうに石碑を見上げながらとぼとぼと下山を始めた。日が陰って気温が下がってきたせいか、途中、水飲対陣と呼ばれるところあたりから少し霧が立ち込めてきた。
「冷えてきたからガスが出てきたよ。ちょっと急ごうか」そういってオレたちは休憩もとらず先を急いだ。北アルプスの稜線で、あっという間に霧が湧いて視界がなくなった経験は何度もあるけど、今日の霧はそれに匹敵するくらい早くて濃かった。まるで煙幕でも張っているかのようにもくもくと湧いてくる。比叡山の水飲対陣から登山口までは、V字谷の底を歩くようなルートになっており、そのV字を霧が這うようにして登ってくる。
「いやこれ、すごいな、1m先も見えないよ。比叡山でこんなの初めてだ。ハナちゃん、ゆっくり行くから足元気を付けてな」そう言ってペースを落としながらもオレたちは下山を続けた。これで日がとっぷり暮れちゃったらさらに歩くのが大変になる。
それにしてもどうやったらあの世界にまた行けるんだろう、彼らに会えるんだろうってなことを考えながら、それでも黙々と歩き続けていたら、ハナちゃんが沈黙を破ってこう言った。
「ねぇ、いい加減第二ブロックに着いても良くない?」
雲母坂から登り始めるとすぐに、何に使ったのかコンクリートの階段のような場所があり、そこからさらに少し歩くと、もう一度コンクリートの階段らしきものが出てくる。オレたちは最初のコンクリートを第一ブロック、二つ目を第二ブロックと呼んで、登山時の目安にしていた。
「言われてみれば水飲対陣からもう30分以上歩いてるよな、あんな大きなブロック、いくら霧が濃くても見逃すはずないし」
暗くなって足元が見えなくなる前にオレたちはヘッデンを装着した。ヘッデンをつけたところで前方は光が反射して見えないけど、足元のガレだったり段差につまづかないよう準備しておくに越したことはない。そして足元に注意を払うようになって、オレはあることに気づいた。
「ハナちゃん、これ、道がおかしい。いつもの道じゃない気がする」
「うん、私もなんだかそんな気がしてた、、、もしかして700年前の道?」
「わからない。わからないけど、彼らと一緒に登った・・・」道と似ている気がする、と言いかけた時、正面から声がした。
「何奴か! 下手に動けば命はないぞ!」
反射的にオレたちは歩みを止めた。V字ルートの右の稜線上に誰かがいるのがわかる。それも複数人。おそらく弓を引きオレたちを狙っているのだろう。けれどオレは驚くほど落ち着いていた。声の主を知っていたからだ。
「源太! 打つなよ、刀も抜くな! オレだ、健太郎だ、八瀬健太郎だ!」
「八瀬・・・殿!? その声はまさしく! 無事で、ご無事でしたか!」源太たちは弓を納め俺たちのもとに駆け寄ってくれた。
「急にいなくなられて心配しましたぞ。一年様と正孝様と随分と探したのですが見つからず、どうしたものかと皆で考えあぐねおりました」
「すまなかった。後で詳しく話そう。それより一年殿と正孝殿は無事か」
「はい、我々で斥候に出たあの丘に前線第一陣の布陣も終わり、先程麓の幕営場に戻ってこられました。早速、無事を知らせにまいりましょう! ところで、、、」
そう言って源太は後ろのハナちゃんに目をやった。
「あぁ、この女性のことも後で話す。それとも戦さ場に女は迷惑か?」
「いえ。戦さ場とは言え、雲母坂の幕営地は修学院村の中にあります故、女子供も普通におります。さ、参りましょう」