(1)アシカガカ
京都に引っ越してきてから、オレは山に登るようになった。
私立の大学に、しかもアパートから通う娘と息子がいて、さらに自宅のローンまで抱えて、関東から単身赴任してきたオレには趣味に潤沢な資金を使う余裕などあるわけがない。だから、山歩きなら大した元手も必要なく、かつ健康にもいいのでは、と思い立って登り始めたのだ。
最初は、ペットボトルが入る程度の街歩き用ワンショルダーザックを肩に引っ掛けて大文字山などの身近な山に行くだけだった。けど、ちょっと長く山の中を歩くようになると昼飯のカップ麺にお湯を沸かすクッカー、日が暮れてきたときのためのヘッドライト(ヘッデン、と言うらしい)なども必要になったのと、何よりもワンショルダーザックだと体に固定されず、背中で右に行ったり左に動いたりするのが煩わしく、ついに専用のザックを買った。オスプレイのストラトス、容量24リットル。
日帰りにはちょうどいいサイズだ。何より左の腰のところが、まるで刀のようにストックを差せる仕組みなのがいい。いちいちザックを下ろさずにストックの出し入れができる。
オレはストックにバスケットを着けていない。オスプレイのザックからの抜き差しに邪魔だし、今のところ、よく踏みしめられたところしか歩かないので、地面への突き刺さり過ぎを防ぐ目的のバスケットの必要性を感じないからだ。それよりも抜き差し易さ優先だ。
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千種忠顕卿の碑は比叡山ケーブルカー山頂駅の手前、15分くらいのところにある。
6月の土曜日。天気もいいし、今日も自転車で登山口まで来て、比叡山を目指す。
雲母坂から延々と登ってくると、かつて最澄も腰を下ろして休んだといわれる岩がルート上にあって、そこからすぐの左手に碑の在処を示す標が立っている。それに従って登っていくと、しっかりとした石垣の土台を持った小高い丘の上に出る。
小高い丘といっても眺望はなく、腰かけて一休みするのにちょうどいいくらいの高さに据え付けられた鉄製のパイプにぐるりと囲まれているだけの場所だ。その真ん中に立派な石碑が立っている。それが千種忠顕卿の碑だ。比叡山に登るときにはいつもここで一服する。
すぐ隣には森林組合の人たちが一休みするのだろうか、小さな小屋もある。小屋といっても四面のうち谷に面した側にだけトタンが貼ってあるが、残り三面は屋根を支える柱のみという粗末な作りだ。
時間を見たら9:45。一服できるな、といつものようにパイプ部分に腰を下ろした瞬間、腐食していたのか、バキンッといきなりパイプの根元が折れ、バランスを崩したオレは、まるでバックドロップを喰らったような形で後ろの斜面に落ちた。一瞬目の前が真っ暗になった。が、すぐに正気は戻ってきた。
「・・・痛ってぇ。マジかよ・・・」 背中や腰は痛かったが、ザックを背負ったままだったのが幸いしたのか、ケガもなく大事には至らなかったようだ。
首をさすりながら1歩、2歩登り返すと、すぐにさっきまでと景色が違うことに気が付いた。
丘の石垣がない。
「あれ、もしかして、かなり滑落した?」 落ちた拍子にそのまま石垣が見えないくらい下まで滑落してしまったのかと思ったのだ。しかし小山の頂上らしきところはすぐそこに見える。身体の痛みも忘れ急いで登り返してみると、そこは確かにいつもの頂上だ。が、さっきまで座っていたパイプがないし、第一石碑がない。足元に置いたはずの飲みかけのペットボトルもなければ、森林組合の小屋もない。
「え、どういうことだ。。。」 声はちゃんと聞こえるし、身体もまだ痛いから夢じゃない。二歩、三歩とうろうろしながら辺りを見回せば、植林されたと思しき杉はなく、自然に育ったであろう広葉樹に覆われている。けれどケーブルカー駅方面に続く起伏や木々の間に見える登山道などの山容は間違いなくいつもの比叡山だ。
「GPSは!?」 現在地を確認しようとiPhoneを取り出し、山アプリを起動すると、No GPS signal was detectedときた。よく見れば電波もない。
「え、ここいつも電波あるのに?」 時間は10時ちょうど。時計は大丈夫なようだ。
これはどういうことだろう。事情が飲み込めず、しばし呆気に取られていたが、身体の痛みも引いたことだし、とりあえず下山することにした。下界に近づけば電波も戻ってくるだろうし、登ってくる誰かとすれ違えるかもしれない。すれ違ったらどうするか、大した考えがあったわけではない。ただ「ここはどこ、私は誰」状態の解決には誰かが必要なのでは、と思っただけだ。
登山道も、ついさっきオレが登ってきたものとは明らかに違っていた。いや多分ルートはあっているのだ。ただ周りの木々や地面の踏みしめられた感が全く違う。違和感を覚えながらも下山を続けていると、おもむろに人の気配がした。下山道からではない。右手の林の中からだ。
鹿だろうかと、音のした方向に目を向けたオレはぎょっとした。そこにいたのは人。しかも3人。でもそれはオレが待ち望んでいた山歩きの人たちではなく、時代劇ドラマとかで見る、足軽のような装備に身を包んだ武士だった。
「アシカガカ。」
先頭の若者が発した言葉は、オレは最初何語かすらわからなかった。
その若者は一歩踏み出し、オレの出で立ちを上から下まで見た後で「アシカガノモノカ」と続けた。ここでようやくオレは、それが「足利の者か」であることを理解した。
初投稿です。短編ですが、読んでいただけたら嬉しいです。感想などもらえたらもっと嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。