08---魔王の兄姉が談ずるは
宵も深まり始めた頃、王城の中枢からは離れた北の一画。
官舎として割り当てられている幾つかの建物の内の一つに、フィリスは訪れていた。
南の衣裳部屋の侍女頭、つまりは先日まで上司であった侍女への移動の報告を終え、必要書類後日提出する事を約束してから、彼女は家族に会いにきたのだ。
普段、ベッドの脇に置かれた小さな机と揃いの木製の椅子は、部屋の主である萌黄色の瞳の青年――アデルだけが利用している。
けれど今、其処に座り込んでいるのは、アデルではなくフィリスだった。
「それで、いきなり所属移動とか……。普通、実際の移動までには最低でも二週間は研修期間があるはずでしょ?」
「何でそんな無茶が通ったのさ。皇太子の客って、召喚された人間じゃなかったの?」
靴を脱いで、椅子の上で膝を抱えて座るフィリスが、声に疲れを滲ませながら呟く。
アデルはそれに相槌を打ちながら、部屋の四方の壁の其々に、指で小さな陣形を描き終えた。
「や、話を聞くに、召喚されているのは間違いないみたい」
「じゃあ何で。召喚されたって事は、召喚主がどれだけ高位の人間でも、彼女自身は所詮部外者なんじゃないの?」
言いながら、彼は部屋の中心で弧を描くように、空間に線を引くように左腕を薙いだ。瞬間、室内を軽く風が巡りだしたのは、薙ぐと同時に先程描いた部屋の四方の陣形へ向け、少なからず魔力を流したから。
風が椅子の上でうずくまっている、フィリスの髪を僅かに浮き上がらせる。
アデルは次いで、右手で掴んでいた、筒状に丸めれている布を片手で広げた。薄い青に染め上げられた其れには、白い色で幾つかの図形とまじないの綴りが幾何学的に描かれている。ふわりと空気を孕んで風に舞い上がった布地は薄く、少し幅のある帯のような、細長い形状だった。
「ルーデインの信託により、此処に円環は発生する。生じた流れは円環より境界へ瑩域へ揺籃へと至り、紡ぎ糸は地平線を織り成すだろう」
アデルが先程から発動準備をしていた、儀式魔法を仕上げた。
発動の呪文を音にして発すれば、ぱしんと言う幽かな澄んだ音が、二人の耳朶を打った。同時に室内を巡っていた風は収まる。
「結界、ありがとう」
儀式魔法によって、結界を発動するよう彼に頼んだのはフィリスだった。これから提示しようと思っている話題は、できるだけ人に聞かれたくなかったのだ。
アデルとフィリスは二人とも、本職の魔術師ように魔法を自在に行使できるわけではないが、この手の術式だったらそれなりに扱える。勿論得手不得手はあり、こう言った系統はフィリスよりアデルの方が得意としている。だから彼女は防諜の為の結界を、彼の手に任せた。これで安心して話せる。
円を描くように中空に舞い上がっていた布は床に落ち、アデルはそれを右手で握ったままだった端の方から手繰り寄せて、元のように巻物状に丸めた。相変わらず布地には白い幾何学模様が描かれたままだったが、それらは今は僅かに淡い光を発している。
「どういたしまして。それにしても結界まで張るって事は――やっぱり、話題はクロエに関係してる?」
フィリスと向かい合うようにしてベッドの端に座ったアデルは、先程書庫で会った時の事を思い出しながら、「今日連れてきた彼女の出身は、『ニホン』って言ってたよね?」と続けた。
「うん。でも、先に話したいのはフランについて」
けれどフィリスはそれを憂鬱そうに流し、「あのね」と言葉を繋げる。
「イサワユイカ――彼女、当代の《封じの巫女》として召喚されたんですって」
「は?」
「だから、彼女の待遇は王女級。私みたいな下っ端の侍女を、『貴人付き』に即日異動なんて言う無茶が通ったのも多分その所為」
フィリスは最初のアデルの疑問に、答えに似た言葉を返す。
結界を張ってもらったのは、勿論後ほど母クロエに纏わる話をしたかったのもあるが、《封じの巫女》について告げる為と言うこともあった。
たとえ相手が身内であっても、口止めされていた「ユイカは《封じの巫女》」と言う事実を話すのは命令に背く事であるからだ。
勿論王宮の侍女として、このように命令に背くなどと言う事はあってはならない。そう分かってはいるし、フィリスとて普通ならば絶対に情報を洩らしたりはしない。
「《封じの巫女》って、アレ? 『繋鎖の森の《ルーデイン》』の、西の竜の封じ手?」
「そう、それ。その当代。巫女が何なのかとか、そう言う事はまだ分かっていないみたいだけど。でも彼女、状況からして確実に、魔性殺しの《封じの巫女》よ」
けれども、だ。フィリスはアデルにその事を言った。彼女は、侍女である事よりも姉である事を優先した。
「彼女とあの子が遭遇、なんて無いと思うけれど。でも、《封じの巫女》って、一目で魔族を識別するって、母さんも言ってた」
「フランの話って、そう言う事か」
少しだけ、アデルは言葉を詰まらせた。
フラン。フランシス。ランベール家の末子は、クロエ・ランベールを母として生まれた。
そして父親は、人間ではない。
「半分とは言え、魔族だとわかったら、って言うわけ?」
「そうよ。少なくとも、彼女は『魔性を封じる事』に肯定的だったわ」
堅い声音でのアデルの問いかけに、フィリスは不安を押し殺すように瞑目する。
真に堅固な結界で封じられる事は、魔族にとっては死を意味する事と聞いている。
魔族。人間に等しい知性、そして人間を凌駕する寿命と魔力を有する魔性の族と呼ばれる彼らは、人にとっては憎悪と恐怖の対象としか認識されていない。
害悪でしかない魔物と呼ばれる凶暴な生き物を、統括しているのが魔族、そしてその王たる魔王であると言うのが、彼らにとっての常識だからだ。
しばらくの間、沈黙が二人の間に降りていた。
魔族と人間の混血児であるフランシスは、純粋な魔性でないとは言え、それでも魔力は魔族のそれに近いのだと、母から聞いている。
普段彼は王宮には近づかないが、同じ王都には居るのだ。もしかしたら何かが切欠で遭遇し、封じられ……と言う事も、可能性としては無いわけではない。
普通に暮らしている限りでは、魔性であっても人間であっても、その魔力が如何様なものか、どれほどのものかを感知する事はできない。誰よりも魔力を優れて行使できる魔王であっても、だ。
よほど強固な繋がりや、かなりの魔力を放出しない限りは、魔力の質と言うものはそうそう他人に感知されたりはしない。だからフランシスだって、《封じの巫女》ユイカに近づいたりせずに普通に暮らしていれば、魔族と識別されないはずである。
けれど、《封じの巫女》の『魔族を識別する能力』が、正確にはどれほどのものかは分からないのだ。不穏である事には変わりなかった。
「だから、フランの話が先なのよ。母さんは死んでいて、フランは生きているもの。私、あの子が殺されるなんて、絶対に嫌」
「当然だろ。俺だって嫌だよ」
すっと瞼を上げて、フィリスは正面に座る青年に言った。アデルも即答する。
「けど、実際問題何が出来る。王都を離れる気は無いんだろう?」
「まあ。フラン、楽しそうに学校に行ってるじゃない」
頼れそうな者も一応は一人、クロエの名付け親が居るには居る、けれど彼は遠く離れた僻地で暮らしているのだ。
人間としての生活と良質な教育をフランシスに与えたい。そう亡き母クロエが願っていた事もあるし、フランシスにとって学院での生活は、心底楽しいものであると常々聞かされている。王都を離れる事は、矛盾はするものの出来るだけ最後の手段に残しておきたい。
「王都でフランの味方になれるのなんて、俺達くらいしか居ないじゃないか」
「アルシーダは、いつも何もしないものね。でも、出来ればあの子には、最後まで学校、通わせてあげたいわ」
けれど、『弟が殺されるのは嫌だ』『フランシスをユイカに封じさせなんてしない』と言う決意はあっても、そこから先の手段が問題だった。
「整理しよう」
アデルが顔を上げた。
「まず、フランが混血とは言え魔族であることに変わりない。魔王の第一子である事も同じ」
「それと、母さんの血縁の息子である事も、よ。最悪、アルシーダに頼れなくても、逃げ込める場所はある」
フィリスが付け加える。
アルシーダ。その苦い思い出ばかりの名前は、クロエの夫の物だった。そしてフランシスの父親の物。同時に当代の魔族の王の物。
フランシスの父親は、アルシーダは魔王だ。彼はフランシスを含めた、ランベール家の兄弟とはあまり関わりを持とうとしないが、それでも魔王はフランシスの父親だった。
アデルやフィリスにとっても、彼は養母の夫と言うことでいわば義父にあたるのだが、二人は彼を「アルシーダ」と呼び捨てか、その位階の呼称でしか呼ばない。彼を父と呼ばわるのは、たった一人フランシスだけだ。それも滅多にある事ではないが。
二人は義父が好ましく思っているわけではないが、嫌っていると言うわけでもない。子供達が物心つく前から、彼はよく養母クロエを訪ねて来ていた。それに何より十数年前、彼とは全く縁もゆかりも無い赤子――フィリスを、北方の何処かより拾ってきて、クロエに育てるよう託していったのもアルシーダだ。
けれどそれほどに縁深いにもかかわらず、けれど義父と養い子たちの間の溝は深い。そして、正真正銘の血縁である分、父と息子の間にはもっと深い溝がある。
「ああ、考えようによってはそれもあるのか」
すっかり忘れていたと言うように、青年は呟く。
「そっちはあくまで保険だけれど」
フィリスはアデルが納得したのを見届けると、軽く頷いた。
「それで、《巫女》とフランが遭遇する確立は低そうだけど、正確にはわからない。ここまではいいよね?」
「ええ」
「じゃあ、結論。それを踏まえた上での《巫女》相手の対策とかは? 何か浮かぶ?」
そう、それが問題なのだ。
フランシスの父親は魔王で、言わずもがなフランシスは次代の魔王になりえる、たったひとりの後継者だ。血統的に。
けれど魔族たちに、『《封じの巫女》が召喚されたので、フランシスが封じられないよう守ってくれ』と、こちらから頼む事はできなかった。
魔族とは基本的に奔放であるし、その統括者である魔王はこちらに関わってこようとしない。それに何より、成人するまでは、『人間として暮らしたい』と、フランシス自身も願っている。
魔族は魔族で、こちらに関わっては来ないものの、後継者が自分達の社会に在って欲しいとは思っているらしい。一度魔族に頼れば、そのままフランシスが魔族方に囲い込まれる事は、想像に難くない。
けれどいざ人の社会でフランシスが混血の魔族であると知られてしまえば、過去にちらほらと存在した他の混血児達のように、迫害されてしまうだろう。そもそも、《封じの巫女》が召喚されている以上は、そんな事になったら封印されてしまう。それはフランシスの死と同意義だ。
「単純に言えば、王都から離れるのが良策。《巫女》から出来るだけ離れるために。今はそれ以外に、私達にできそうな事は浮かばないわ」
「でも叶うなら、王都からは離れたくは無いからな……。それに、巫女召喚の直後に、一家揃って突然仕事も学校も辞めて引越しとか、ちょっとまずいかもしれないし」
アデルは考えながら言った。
自分はともかく、フィリスは当の《封じの巫女》付きに移動になったばかりなのだ。
流石に魔族が身内に、なんて言う事実を勘ぐられる事は無いだろう。が、あまりにも突然では、何か穿った見方をされて、別件の疑いをかけられるかもしれない。今まで辞職やら退学やらの気配など全く見せていなかったし、そんなつもりも無かっただけに。
「じゃあ、やっぱり私達にできる事って言ったら、地味で地道なあんまり効果なさそうな事くらいじゃない。《巫女》がフランと接触しないようにするとか。フランの事を出来るだけ誰かに話さないようにするとか」
フィリスの言に、アデルが苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。
「うわあ。何か、俺達の無力さが浮き彫りだね」
「仕方ないでしょう。実際できる事なんて少ないんだから」
庇護者としては情けないが、しかし事実である。フィリスは切って捨てた。
弟が魔王の王子であったり、母が魔王の正妃であったりしても、所詮アデルとフィリスは特異な環境で育っただけの、ただの人間だ。
儀式魔法やまじない等の妙な技能が多少扱えると言っても、それに関してだって特別才能があるわけではない。強いて言えば儀式魔法やまじないの使い手は至極少ないから、そこはある種の『特別』と言えるかも知れないとか、その程度だ。
しかも使い手が少ないのは、儀式系統魔法などがあまり便利ではないから、の一言に尽きる。
どちらも事前の準備やら形式がかった呪文が必要なのだ。効果も山をえぐるとか魔物を屠るとか言う大層なモノではないし、何より今の世の中では、そんな魔法はそれほど役に立たないし重要視もされていない。
先程からアデルが張っている結界にしても、他の系統の魔法にはもっとたやすく扱える術が多い。
儀式魔法やまじないの利点といえば、応用が利いたり効果が地味に強固だったり長続きすると言うくらいしかなかった。
フランシスを《封じの巫女》ユイカから守るために扱えそうな術も無いわけではないが、所詮はその程度である。たいした助力にはならなさそうだった。
「学院卒業してから、戦闘とかは縁が無いからな……方針としてはとにかく隠して、危なくなったら逃げる事くらいしかできないか」
「王宮の奥で暮らす《巫女》様と、王立学院に居るフランが遭遇なんて、滅多に有る事じゃないだろうけれど。でも楽観視は出来ないものね」
「本当だよ。じゃあ、基本的にはその方向で」
次々言葉を連ねていけば、それなりの手段にたどり着いていた。
それにしても、フランシスが心配である。
封印されてしまうかもしれないと言う事もそうだったが、何より何時殺されるか分からないと言う心労を、小さな弟にかけてしまうことが口惜しかった。しかし、安全のために伝えないわけにはいかない。
母親は既に亡く、父親からは放っておかれている、幼い次代の魔王様。
実の両親に代わってその保護者を務める自分達兄姉は、どれほどに弟を守れると言うのだろう。
――他人から見れば、何とおかしな構図。
世に平和をもたらすとされる《封じの巫女》から次代の魔王陛下を守るべく、彼女に組するであろう人の王国に、同じ無力な人の子である司書官と侍女が刃向かうなど。それも、最終手段と目されているのは逃げの一手、ただそれだけとは。
もしかしたら、次話の展開の関係で一度手直ししたりするかもしれませんが……一応更新です。誤字脱字、文章でおかしいところがあればご指摘くださるとありがたいです。