06---書と文字、及び魔術師
「伝承関連はこちらの棚に。史学になると第六書庫の方が充実していますが……お探しの書は《封じの巫女》関連の本でしたか?」
「そうです!」
「その手の資料はあまり置いていませんが、こちらの三冊ならば詳しく取り扱っていたかと」
書棚の間で立ち止まったアデルは、天井まで高く聳える棚の一つから、題名も著者も異なる三冊を取り出した。
無論本の全てに目を通してあるわけではないが、書物の概要くらいならば、前任者が残していった資料がある。
アデルは一年余りの時間をかけて、それに目を通していた。幸いこの書棚の本についての資料には、一月ほど前に目を通したばかりだ。迷わずに選び出すことが出来た。
三冊の本をユイカに渡せば、彼女はそれを受け取って、興味深げに表紙を見つめる。
そして、彼女は「ありがとうございます!」と顔を上げると、小走りで書棚の間を駆け抜けた。侍女二人が待っている、資料閲覧用の机の方へ行く。
まさか本当に、王子の賓客自らが書庫を訪れるとは。アデルはどうやら警備を離宮に置いてきたらしい、ユイカの後姿を目で追った。黒に近い茶色の髪が背で揺れる。
ユイカが金髪の侍女――先程フィリスがカリーヌと言っていたか、彼女に促されて椅子に腰を下ろすのを見届けると、彼は視線をフィリスに移す。
偶然にも、彼女の藍色のそれと瞳が合った。
本当にアレがそうなの? と、そんな思いで眉根を寄せて軽くユイカの方を示すと、フィリスは困ったように微笑して頷いた。きちんと伝わっていたのかそうでないかは定かではないが、物心つく前から一緒に暮らしてきた家族だ。伝わっていると思いたい。
アデルはユイカの所望の本を取ったために、書棚に空いた箇所が出来ていた。軽く本の並びを整えてその隙間を目立たなくすると、アデルは司書官の机のへと向かおうとした。
「何これーっ!」
けれど響いたユイカの声に、苦虫を噛み潰したように一瞬表情を歪め、すぐさま進路を変更する。
「ユイカ様?どうかなさいましたか?」
カリーヌが心配そうに、ユイカの顔を覗き込んだ。
アデルもまた、ユイカが三冊の本の頁を次々と、少しばかり乱暴に捲り続けるのを見て、表情には険しさが増す。
「書庫ではお静かにお願いします」
机を挟んで、椅子に座るユイカの向かいを通り過ぎざま、少しだけ立ち止まってアデルは言った。
「それと、本は丁寧に扱ってもらえますか? 稀少本も多いので」
ただしユイカではなくカリーヌに向けて、だ。
無位の司書官が貴人に直接口をきくなど、相手から声をかけられない限りは普通は許されない。
カリーヌもまた貴人ではあったが、彼女は今はユイカの侍女。私人としてはともかく、公人としての今の彼女の立場は貴人付きとは言え『侍女』である。
『官吏』であるアデルは、身分の格は『侍女』よりも上だ。カリーヌにならば自分から話しかけることができた。
勿論フィリス相手でも同様だったが、彼女はユイカから一歩下がって壁際に控えている為、この場合あまり意味が無かった。
「あ、ご、ごめんなさいっ」
焦ったように返事をしたのはユイカだった。
「でも、文字が読めなくて、焦っちゃって」
しかし声量はあまり下がっておらず、彼女の言葉は周囲に響いている。
文字が読めない。その言葉に、アデルはユイカの手元の書物にちらりと視線を遣った。
「ああ、少々古い綴りを使っていますね。そちらの書ならば大半が現代語で記されていたと思いますが」
古い、と言っても何を意味する綴りなのか分からないほどではなく、前後の文脈から推測する事でどうにかなる領分だった。
それを承知で他の一冊を指し示すも、ユイカから返ってきた答えは同じ。
「あ……。それも、何て書いてあるかわからなくて」
声は少し弱弱しかった。
どうやら文字が読めないらしい。文字が読めずに、どうやって本を読むつもりだったのか。そう疑問には思ったが、アデルはそれを表に出さずに「そうですか」と流した。伝聞ではあるが、前例を知っていたからだ。
それはフィリスも同様で、カリーヌが大げさなくらいに目を瞠ったのとは対照的に、彼女は少し驚いたように眉を動かしただけだった。
「話している言葉は分かるのに……」
不思議そうに、ユイカは呟いた。そして不安げにぱらぱらと、今度は幾分か丁寧に本の頁を捲ってゆく。
ユイカのため息交じりの言葉は先程の一言も有ってか、しんと静まり返った室内に、思いのほか大きく響いた。
静かに資料を読み解きたい者にとって、一定以上の人の声や物音は、雑音以外の何物でもない。
実際そう思った利用者も多かったのだろう、あちらこちらから聞こえていた、紙の擦れる音が数秒間だけ止む。
書庫に広がった静寂と同時に、近くの机で宮廷魔術師が一人、苛立ったようなため息と共に大きく椅子を引いた。
「ここは書庫なんだが。少しは静かに出来ないのか?」
栗色の髪に、茶色の瞳の青年。ゆったりと纏っているのは薄い青の装束。
彼は定期的にこの第八書庫に訪れる、数少ない魔術師だった。まだ年若く、確か今年で十九――アデルたちよりは一歳だけ年上だったと記憶している。
椅子から立ち上がって、つかつかとユイカの方に歩み寄ると、青年は机に広げられた書物を一瞥して鼻で笑った。
「このくらいの綴りや単語、常識の範囲じゃねえか。お前、どれだけ阿呆なんだ?」
馬鹿にしたように魔術師が吐き捨てると、ユイカは羞恥でか怒りでか、かあっと頬を紅く染めた。
「な、私だって字くらい読めるよ! 英語だって得意なんだから!」
ユイカがばんっと机を叩き、立ち上がって反論する。
「エイゴ? そんな学問聞いたこと無いっての。大体、お前今自分で読めないって言ったばっかだろ」
「はぁ!? あなたこそ英語も知らないって、馬鹿じゃな……あっ」
けれど二言目で、何かに気付いたように口をつぐんだ。
ユイカの繋げた言葉の流れからして、エイゴを知っている、とは、ユイカの価値観では識字と同じように常識的な事なのだろう。
けれど、ルーデインには『エイゴ』などと言うものは無い。つまりはそういう事なのだろう。ユイカはそれに気付いたのだ。
しかし、そんなわけの分からない物を知らないと言う事で馬鹿にされた魔術師の青年は、明らかに機嫌を損ねていた。怒っている。
「馬鹿はお前だろ? この国の文字も読めない、常識も守れない」
「常識って、私はそれくらい守れてるよ!」
「――書庫で騒がないって、常識だろ!」
「では、お静かに願えますか?」
殆ど怒鳴り合いにまで発展した二人の会話を、静かな声で制したのは第八書庫の司書官だった。
カリーヌは威勢よく言い返すユイカにおろおろとしていたし、フィリスは立ち位置を動かずに、どうしたものかと思案していた。二人とも侍女であるのだ。下手に会話に割り込めない。
「他の利用者の方の迷惑にもなりますから」
だからこそ、アデルは渋々と言ったように口を開いたのだ。
眉根をしかめた研究員や、口角を下げた学者達から、ユイカと魔術師の青年へと苛立ちの眼差しが集まっている。
「……悪かった」
「ご、ごめんなさい」
苦虫を噛み潰したように、当事者二人は謝罪した。今度は小声で、だ。
他の利用者達は静寂が回復される兆しに、其々の作業に戻ってゆく。
けれど少女と魔術師の二人は、お互いに気持ちは荒立ったままのようだった。二人が二人、同時に謝罪を口にした相手を睨んだり、不機嫌そうに見下ろしたりと忙しい。
「ランベール」
最終的に、その無益な行為を先に終わらせたのは、栗色の髪の宮廷魔術師だった。
瞬間的に、勝った! と言うように明るい表情を浮かべたユイカを、呆れたように瞥見すると、彼はアデルの方を向いた。
「この本の貸し出し、師匠名義でよろしく」
持っていた一冊の、重厚な装丁の本を手渡す。
「わかりました。では、エルディー魔術師長からの委任状と貸し出し許可証の提示を」
「ほら」
アデルもまたその不毛な争いの終了が望ましいと思っていたのだろうか、すぐに本を受け取り、書類の確認を始める。
一度司書官の机に戻って事務手続きを終えると、彼はすぐに証書と本を若い魔術師に返した。
ユイカはむっとしたようにそれを見守る。特に動かなかったという点は、二人の侍女も同様だった。
「確かに確認しました。貸し出しについての説明は必要有りませんね?」
「当然。ありがとな、ランベール」
「いえ。長殿にもよろしくお伝えください」
「ああ」
そう言うと、青年は薄青のコートの裾を翻して、主な出入り口として使われている扉の方へ去っていった。
かつかつと言う靴音が僅かに響く。
ユイカは不機嫌そうにそれを見送ると、「何あいつ」と、苛々と呟いた。
「そりゃ、こっちも悪いかもしれないけど、あんな言い方しなくたっていいじゃない」
むう、と頬を膨らませて、彼女は青年の去っていった方を軽く睨んだ。
カリーヌはユイカの斜め後ろから、彼女が広げたままだった三冊の書物を整頓しにかかる。
「確かにそうですね。口が悪いのも考え物ですわ」
「本当だよー。ねえ、アデルさん。あの人、一体何なんですか?」
ユイカは話題をアデルに振った。
三冊の本をユイカに提示したよりも前の事だ。
「私、ユイカ・イサワって言います。えっと、どちら様ですか?」
「この書庫の担当官です」
「んー……お名前は?」
「アデル・ランベールです。司書とでも呼んでください」
と、そう言ったやり取りをして以来、彼女はアデルを名前で呼んでいる。
格が上のユイカから話しかけられたアデルは、しぶしぶながら答えた。本来ならば、職務に必要な最低限の物以外、書庫での会話は遠慮したいのだが。
「エドワール・リシュリュー殿です。宮廷魔術師の。よく師であるアンセルム・エルディー宮廷魔術師長の代理として、この書庫を利用されています」
質問を繰り返されないように、アデルは最低限の情報を早口で告げた。
「え、でも、私とそんなに変わらないくらいの年齢だったのに」
「十五を過ぎれば大抵の者は何かしら仕事を任せられますが。宮廷魔術師もそれは変わりません」
「じゃあ、尚更だよ。きちんとしたシャカイジンが、あんなに言葉遣いなってないってどういうこと?」
けれど、ユイカの疑問や意見は中々尽きる事がなかった。
本格的にこの場でおしゃべりでも始めようと言うのだろうか。この場に居る者は皆、利用者も含めて職務中だというのに。
とうとう困ったような表情を浮かべたアデルにカリーヌが気付いたのか、少女へ向けて「ユイカ様」と声をかける。
「書物が読めないのならば、先んじては文字を練習する所から始めませんか? 王子殿下にお願いすれば、教師を紹介してくれるでしょう」
それに、私達も教える事ができますし。
カリーヌがそう付け加えてユイカに告げると、彼女は少し不満そうではあったが、「んー、そうだね」と納得したように頷いた。
「では、白羽宮に戻りましょう。あちらにはペンも紙も有りますから」
「そうなの?」
司書官に申請すれば、この書庫でもペンとインクは貸し出しているのだが。
しかしカリーヌも警備のしっかりとした離宮に、一刻も早くユイカを連れて戻りたいのだろう。アデルにもユイカを引き止める理由は一つもなかったし、その事を言い出しなしなかった。
「でも、あいつ、何であんなに失礼な事……」
けれどユイカは、まだぽつぽつと会話を繋げようとする。
「リシュリュー殿の事でしたら」
この場でまた静寂に漣を立てて欲しくなかったアデルは、咄嗟にフィリスを生贄に差し出すことにした。
「フィリスも彼の事は知っていますよ。私もフィリスも、彼の後輩に当たりますから。……フィリスも憶えてるよね? あの人の事」
後方に控えていたフィリスが、自分に話題を振られたことに驚いて瞬きをした。
アデルとフィリスの卒業した、王都のフィオネイア学院。エドワールもまた、そこの卒業生なのだ。在学中には多少だったが交流もあった。
「ええ、まあ。――ユイカ様、此処は基本的に私語厳禁です。私でよろしければ、離宮の方でリシュリュー先輩について多少お話できますが?」
カリーヌとアデルの意図を汲み、フィリスは前へ進み出てユイカに言った。
三人の視線がユイカに集まる。
「そうなの? じゃあ、今日は戻ろうかな」
少し考え込んで、ユイカは頷いた。
しぶしぶながら、といった風ではあったが。
ほっとしたと言うように、誰かが安堵のため息をついた。
アデルかフィリスかカリーヌか、それともたびたび読書を邪魔されていたほかの利用者の物か。それは定かではなかったが。
ちょっと忙しかったのと沈んでたので、更新が遅くなりました。
やっと男性キャラを出せました……よかったです。次の話では、少しだけでしょうがもう二人ほど出せるかと。
また、おかげさまで先日、PVアクセスが5000を、ユニークアクセスが1000を超えました。この小説を読んでくださっている皆様、評価を下さった方々、本当にどうもありがとうございます。とても嬉しいです。
だらだらと続いていくであろうこの小説を、これからも読んでくだされば幸いです。