05---王宮の書庫の昼下がり
「フィリスが?」
「そうなんですよ。あの子、何かあったのかしら」
さて、一方アデルは若い侍女の言った言葉に驚いていた。
正午、食堂での事である。今は昼食の時間だった。
彼は来週の休暇の予定について話をしようと言うことで、昨夜のうちにフィリスと待ち合わせていたのだ。
その時間に間に合うよう昼休みを取って、アデルは指定の場所で食事をしながら待っていたのだが、しかしフィリスは一向にやって来ない。
忙しいのか、それとも昨日のようにまた何かあったのかと心配になったアデルは、食事を終えるとフィリスの同僚を探した。
するとすぐに、二、三度顔を合わせたことのある侍女を見つけたので、彼女にフィリスの所在を尋ねたのだ。
「それがあの子、朝の内に女官に連れられてどこかへいってしまったんです」
そして、返ってきたのがこの返事。
周囲の他の侍女たちも「そう言えば」と、一斉に話に加わってきて、アデルは少し戸惑った。
「何でも、さる高貴な方のご要望? とかで」
「本当、大丈夫かしらね。侍女頭様も行き先について詳しくは知らないっていうし」
「何かまずい事になってないといいけれど」
「でも、その『高貴な方』がわざわざ招くくらいだし、悪いようになってるとは限らないんじゃない?ほら、『高貴な殿方』って事もあるし」
「え、何それ。それってあの子が目を留められて、女官を使って呼ばれて……って事?」
「それは知らないけれど。と言うかその予想行き過ぎじゃない? ……っと、ごめんなさいね、恋人さんの前で」
ぱっと話題に飛びついてきた侍女たちに気圧されていると、いつの間にかそういう流れになっていた。
アデルは慌ててそれを否定する。
「いや、そうじゃなくて俺は義理の兄で……。まあ、心配なのはどちらにしろ変わらないけれど」
けれどやはり衣裳部屋の侍女たちの推測を不穏に思ったのか、彼は不安げにもう一度尋ねた。今度は新しい話題に食いついた侍女たちのおしゃべりが始まる事も視野に入れて。
「その女官の方の所属って分かりますか?」
「ああ、多分後宮勤めか伯爵以上の貴人付きね」
「そうそう、黒地に紫黒の紋様入りだったもの、女官服」
「あら、珊瑚と銀鎖の装飾持ちじゃなかった?」
「じゃあその女官、姫君のお付きね。よかったわねー、お義兄さん」
「姫君付き? 最低でも伯爵令嬢以上の? 何でそんな方の女官が……本当あの子どうしちゃったのよ」
その後は想像や予測の言葉が侍女たちの間を飛び交った。
アデルはそれをしばらく聞いていたが、やがて折を見て礼を言うと彼女達から離れていった。
喧騒から逃げるように食堂の席の合間を縫い歩き、やがて廊下に出てからは職場である書庫を目指す。
「本当、まずい事になってないといいけれど……」
誰かとすれ違っても聞こえないほどに小さな声で呟くと、軽く息を吐く。
何しろ昨日の今日である。
偶然かもしれないが、召喚されたかもしれない少女に遭遇し、同時にまじないの施されたケープを無くした、その次の日の事なのだ。
もしやケープが魔術師か誰かの手元に行ったのだろうか。それとも例の召喚少女が何か良からぬ者で、その発見した時のことを詳しく話す為とか、そう言う事だろうか。
いや、しかしフィリスを連れて行ったのは姫君付きの女官であると聞いた。姫君と魔術師と召喚。関係が無いわけでもないが、あまり関係無い気がした。
しばらく悩んだ結果、アデルはやがて考える事をやめた。情報が少なすぎる。
何かしらまずい事になっていたとしても、今のアデルにはどうしようもない。官吏と言っても、所詮実権の無い下っ端である。書庫を一つ任されているとは言え、それも司書官の慢性的人手不足が原因だ。
さて、アデルの職場は言わずもがな王城内の書庫で、これは王城の北西よりの十数部屋を占めていた。
史書や資料は勿論の事、学術関連から魔法関連まで幅広い種類の本が納められている。しかしこれも外部にある王立図書館の蔵書に比べれば少ない方だ。図書館は建物を丸々三棟分、蔵書の保管に当てている。
アデルの担当である第八書庫はどちらかと言うと西寄りで、主な出入り口も人通りの少ない廊下の片隅にあった。
所蔵しているのは儀式魔法や様式魔法、魔法形式及び魔法史に関する文献だ。つまりは殆ど閲覧者の居ない分類の本ばかりである。
主な利用者は王室お抱えの歴史学者や、王立研究所やら王立学院やらに勤務する職員で、彼らは隣の史書の多い書庫に所蔵しきれなくなって、第八書庫に移ってきている書籍がお目当てだった。
殆ど伝承本と言っても差し支えの無いほどに古い、グランヴェーダ暦の発生以前の古文書級の書物である。今年はグランヴェーダ暦795年であるから、およそ八百年も前の物と言う事になる。しかし中には王立図書館にも所蔵していない稀少本がまぎれているのだ。
本来の利用者であろう宮廷魔術師達は、日に三人ほども来ればいい方で、一度など一週間以上魔術師の姿を見かけなかった時もあった。それほどに現在、儀式魔法や様式魔法と言った、まじないに近い古い魔法の系統を研究し行使する魔術師は少ないのだ。
アデルは持ち場に帰り着くと、書庫内をある程度見渡せる位置にある、司書官の机の椅子に座った。
窓の側、日差しの当たるそこは暖かい。今日のようなうららかな陽気の日は、司書官の制服である、肩から腰までを覆うマントを羽織っているのがもどかしかった。昨日のような肌寒い日にはありがたい代物なのだが。
たかがマント、されどマント。ケープのような形状のそれは、常時机に座っているわけではない――書架で本を整頓している時もある――司書官を、利用者が見分けるための目印でもあった。
本の貸し出しには、身分証明と許可証に加え、其々(それぞれ)の書庫の管理者の許可が必要なのだ。
それは研究者であっても学者であっても、極端に言えば国王であっても同じ。だからこそ司書官が誰か分からず本を借りる事ができない、と言った事態が起こらないように、司書官はその独特の装飾の付いたマントを職務中は常に纏う事が義務付けられている。
「そこな司書殿」
書籍目録の補完しようかと、アデルが用紙に手を伸ばした時だった。
珍しく宮廷魔術師ではない魔術師が、書棚の間から出てきて声をかけてきた。
禁書指定の本を集めた書庫でなければ、許可証と身元さえしっかりしていれば、外部の人間も書庫を利用できる。彼もその一人なのだろう、馴れぬ様子で数冊の本を抱えていた。
「何でしょう」
「この本を借りたいのだが……」
「わかりました。書名と必要書類を拝見してもいいですか?」
「ああ」
魔術師は机の上に四冊の本を置くと、胸ポケットから許可証を取り出した。
先の宮廷魔術師長であり、一年ほど前に亡くなったデシャン翁執筆の『戦術魔法変遷概論』『魔法学術と史的な術式形成の併用』、学者シャルパンティエ編纂の『伝承史における形而上のルーデイン』、そして稀少本である『封印術式と結界術式の研究報告書』と言う、百年ほど前の著名な宮廷魔術師ル・コントの著作だった。
どれも手に入りにくいと言うだけで、禁書指定ではない。アデルは魔術師から許可証と身分証明書も預かって確認すると、すぐに貸し出し手続きを始めた。
「どうぞ。貸し出し期間は二週間、持ち出し可能範囲は王都の城壁内部のみになっています。範囲以外に持ち出しますと警報を始めとした幾つかの妨害魔法が作動しますので、ご注意を」
「わかった。ありがとう」
魔術師は礼を言うと、許可証と身分証明書、そして自分の借りた本を受け取って、のんびりと書庫から出て行った。退室の際、名残惜しげに振り返って書棚を一瞥する。
けれどそれ以外特に変わった行動も見せずに、魔術師は書庫から去っていった。
何だか、餌を目の前におあずけをくらった子犬のような後姿だった。よほどこの書庫の本に未練があったのだろうか。
それほどまでに本に――それもこの書庫の本に執着する人間など珍しかった。
何となく可笑しくなってくすりと微笑むと、アデルは今度こそ目録補完の作業に取り掛かった。
数人の学者が今日も幾つかある書庫の机で文献をあさったり、書架の間を行き来している。
時折人が入れ替わり、アデルも何度か貸し出しや返却の処理をした。
けれど、二時頃であろうか。目録補完の仕事にもひと段落ついた時、この第八書庫へ訪れる、その理由がいまいち推測できない人物が、アデルの元を訪れた。
「フィリス?」
書架の間にひっそりとある、裏手の扉。
そこから姿を現したのは、先程昼食時の待ち合わせに現れなかった、ランベール家の長女だった。
アデルは彼女が室内に入ってくるのを見ると、驚いて咄嗟に立ち上がり、早足で駆け寄った。
フィリスもまた扉を閉めてアデルの方へ歩を進めてくる。
「……どうしたの。何が有ったわけ」
そして常の焦茶色の侍女服ではなく、濃い灰色の侍女服を纏っているのを目に留めると、アデルは不穏ささえ感じられるほどに声を険しくして声をかけた。
「何って……ああ、まあ、それはもう色々有ったわよ」
対してフィリスはため息混じりにこぼす。
「時間が無いから要点だけ言うわね」
そして軽くアデルのマントの端を握ると、声の大きさを落とした。
「まず、私、衣裳部屋控えから貴人付きに異動になったの。詳しくは後で時間見つけて説明しに行くわ」
アデルは軽く衝撃を受けたように瞳を見開いた。
無意識にこぶしを握る。フィリスは次の言葉を繋げた。
「次に、昨日話した例の召喚されたかもしれない女の子。彼女の出身――『ニホン』ですって」
「どう言う事。……そんな国、此処には存在しないはずだ」
「そうよ。存在しないの。つまりそう言う事よ、厄介な事に」
アデルの言葉を遮って、フィリスは続ける。
アデルは尚も言葉を募らせたかったが、ゆっくりとこぶしを解いて発言する事を保留した。
フィリスは本当に困ったと言うように、軽く瞑目した。
「それで、彼女――ユイカ・イサワって言うのだけれど、宮廷魔術師によって召喚されたんですって。今はユイカ様って呼ばれているの。ベルナール殿下の賓客だから」
更に声量を落として、囁くように言う。
「なのに、今侍女を一人連れてこっちに向かってきてる。第八書庫を利用したいんですって」
「王子の客が? 自ら?」
「そう。私はその先触れ。許可証も身分証明書も、今日の昼に一緒に食事をした王子から貰ったみたいよ」
「此処の何が読みたいわけ?第一、どうして侍女に取りに行かせないの?警備引き連れて書庫に来るつもり?」
「自分で探したいそうよ。読みたがっているのは《封じの巫女》伝承関連の本。警備は――自分に警護の者が付いているとは思っていないの」
そこまで矢継ぎ早に会話を続けた時、先程フィリスが閉めた扉が音を立てて開いた。
「彼女よ。ごめんね、きちんと答えられなくて」
「いや、仕方ないだろう。……その代わり、後でしっかり伝えてよね」
「勿論。ありがとう」
そこまで言うと、フィリスはアデルから離れてユイカの方へ振り返った。
アデルは視線をフィリスとユイカ、そして彼女の側の金髪の侍女の方へ向けた。
文字数の割りに展開が遅いですね。早く進めて書きたいところを書き始めたいのですが、つい細かい所を描写していると文字数がかさんでしまいます。