獣人
「くそっ……」
彼がどんな状態なのか、遠くて目視ができない。
死んだ魔物とこれまでに流した血の匂いが強くて、今のエルリクがどれほどのダメージを受けているのかも良く分からない。
ただ、あれだけの憎悪と闘志を燃やしていたエルリクが起き上がってこないところを見ると、意識がないのは確実だ。
「……どうする」
インは真っ白になってしまいそうな脳を動かすため、あえて声に出して思考する。
「エルリクを助けて逃げる……でも向かう途中で攻撃される……どうにか回避してエルリクを抱えて逃げる……絶対スピードで負ける……夢見の杖も折れちゃったし……」
考えれば考えるほど絶望的な状況だ。
「ひひっ……ひくっ、あぁ、あはぁ……ひぃっ、ひひっ、ひはっ、はぁ……」
怪異は老若男女の入り混じった不気味な声ですすり泣くような鳴き声を上げる。
いやこれは笑っているのか? 良く分からない。
ジーナフォリオは体の向きを変え、インを見下ろす。
あの気持ちの悪い腕の触手が何本も伸びる。
さっきよりも明らかに数が多い。
どうやら切り落とす攻撃も意味がなかったようだ。
「ひぃっ、あぁ、ぎぃ……ひっ、ぎゃ……ひひっ」
これまでに感じたことのない恐怖と絶望を一気に流し込まれ、インは戦意を失っていた。
どうやら敵意のある対象には直接攻撃をし、そうでない相手には呪いで殺すようだ。
手はずっとインに向かってきていた。
「あれをやるか……やるしかないよなぁ……」
インはぶつぶつと呟く。
声に出せば、それしかないことがはっきりとしてくる。
それはインが隠していた奥の手だ。
「脱いでる時間もないなぁ……」
インは自身の身体を見下ろす。
故郷から着てきた旅人の服。初めての報酬で手に入れた鎖帷子。
気に入っていただけに残念だ。
せめて剣だけはと取り外して地面に置いた。
運が良ければ拾いに来れるだろう。
そして、蹲るようにして、両手を地面につけた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
呼吸を早める。
血液を循環させて、鼓動を早く、もっと早く……!
どくんどくん、と心臓が血液を送り出す。普段より早く、普段より大量に。
「はぁっ、はぁっ、あぁ……うぅううぅぅ……!!」
身体に電流を流したように痛み、熱くなる。
瞳に金色の光が輝くと、刹那、全身に光が映って駆け巡る。
身体中の組織がめりめりと音を立てて膨張した。
皮膚からは滑らかでかたい毛がびっしりと生え、骨格も何もかもが変異していく。
中から破壊された鎖帷子がひしゃげ足元に転がる。
しかしそれも高くなった視界から消える。
「ぐぅうううううるるるるるぅうぅ……!!」
インはもう一度唸り声を上げた。
それはもう少女の声ではなく肉食獣のそれである。
獣人は遥か昔、魔法の巧みな獣だったと言う。
ある時、人間は魔物と戦争をした。
獣人の祖先は魔物と人類の両陣営に分かれて戦った。
結果は人類の勝利。
人類と共に生き残った獣人の祖先は、共存のために人間に化ける時間が徐々に増えていった。
そして何世代もかけていつしか完全な獣の姿を失った。
真偽は不明なものの、そんな伝説が残っている。
現代の獣人は獣の耳がついた人の姿で生まれ、そのまま一生を終える。
だが、極々わずかに例外が存在していた。
それこそが先祖返り――帰先個体である。
帰先個体は遺伝しない特別変異であり、普段は他の獣人と差異はない。
違いは、先祖のような完全な獣の姿に一定時間変身できるという点だ。
特殊な訓練や才能も必要である。
インには才能があった。
ジーナフォリオとほぼ同体格になったインは毛を逆立て威嚇した。
「ガゥゥオオッ!!」
通常の魔物ならこれだけで戦意喪失する程の脅威である。
「ひっ……ィイ……ァあ」
怪異を構成する亡者は小さく悲鳴を上げているが、群体であるジーナフォリオそのものは微動だにしない。
亡者の意思はほとんど反映されていないようだ。
威圧が効かないのならやることは一つだった。
インは頭を下げ、意識を失ったままのエルリクを口に咥えた。
牙で傷つけないように気をつけながら、落ちないように咬合する。
「フーッ……」
そして踵を返し、全速力で走り出した。
「ギャアアアアアア!!」
耳障りな叫び声が後ろから聞こえ、追ってくる気配がした。
インは振り返らずに風のように疾走する。
獣化しても回復仕切らなかった傷がずきずきと痛むが無視した。
蹴った後ろ足に何かが絡みつき、引っ張られる。
「ウ゛ウゥ!!」
腕触手に補足されたことを悟ったインは力づくでその拘束を引きちぎる。
ブツブツブツ、と何十本の腕が地面を転がった。
「フーッ……フーッ……!!」
息が上がる。
呪いの腕で触れられた、死ぬかもしれない。
苦痛と不安で頭がおかしくなりそうだが足は止めない。
上ってきた谷と逆方向へと逃走する。
出来るだけ距離を稼ぎたい。
できればどこかの村まで。気絶するのはその後だ。
自分も限界だが、エルリクはもっと危険な状態だ。
そこで魔物扱いされたとしても、生き延びさえすればどうにかなる。
インは意識を繋ぎとめようと必死に思考する。
「……ッ!?」
木々を抜け、なぎ倒し進んだ先は切り立った崖だった。
後ろにはまだジーナフォリオが重い体を引きずって追いかけてきているのが見えた。
引き返す余裕も迂回する時間もない。
インは覚悟を決め崖下へ向かって、跳んだ。
内臓がひっくり返るような浮遊感を感じ、それと同時にインの意識は途切れた。
「うーん、今日もゼロかぁ……」
空のウサギ罠を覗き込む、黄緑の目が不機嫌そうに細められた。
仕方なく罠を元の場所に戻し、落ち葉を被せる。
どういうことか絶好の猟期であるはずなのに、獲物が全くかからない。
「肉食べたい肉ゥ~」
籠いっぱいの果物を見て、誰にともなく文句を言った。
不満の声は森に響いたが、誰も返事をしなかった。
一人で採集に来ているのだから当然である。
「はぁあ……帰りますか」
盛大に溜息をついて帰路へ向かう。
その時、つま先にこつん、と何かが当たった。
「なんだ? 石……じゃない。金属のプレート……?」
拾い上げる。
見たところ劣化もしておらず、新しいもののようだ。
怪訝に思って、あたりを見回す。
そして黄緑色の目が再び細められた。
「ありゃ? ……あらあらあらあら……」
今度は不機嫌ではなく好奇心によって。