ジーナフォリオ戦
「なんだよその言い草っ、エルリクだって全然攻撃通じてないし――」
突然怪異の匂いが目前に迫りインは目を見開いた。
目と鼻の先で、ジーナフォリオの巨大な口が像を結び、迫ってくる。
「エルリク!!」
咄嗟に彼の腰を掴んで、インは横に跳んだ。
十メートルの跳躍がぎりぎり間に合って、ジーナフォリオの噛みつき攻撃から逃れる。
ぶわっ、と臭気交じりの風が後ろから吹きつけた。
「やば……!」
「いい反応速度だな。雑魚相手とはえらい違いだ」
「命かかってるから!」
呑気に感心しているエルリクを地面に下ろして、インは呼吸を整える。
「だが逃げてばかりではいられないぞ。実体化は攻撃時のみだとするなら、あれに真っ向から挑んで、カウンター攻撃をしかけないとならない」
指を刺す先でジーナフォリオはいきり立って、獣とも人間ともつかない鳴き声で唸っている。
インの獣の本能がアレが威嚇であり、すぐに立ち去らなければ手痛い攻撃が飛んでくると警鐘を鳴らした。
「む、無理じゃない?」
「無理だな。だが……僕はやる。こちらから攻撃する手段があると分かった。時間がいくらかかろうとも、理論上は殺せる」
特に作戦も考えもなく、遅延魔法と物理カウンターで対抗するつもりのようだ。
エルリクらしくない正攻法にインは不安になるが、それだけ小手先では通用しない相手なのだろう。
二人が見つめる先で空気が淀み、ジーナフォリオが全身を現した。
「ギャアアアアアアァ……!!」
「っ……!」
生臭い臭気を放ちながら、悍ましい声で叫ぶ怪異。
見るだけでも平常心を奪う存在に、嫌な汗が止まらない。
叫び身を捩る怪異の背中から、何か青白いものがにゅう、の伸びる。
「な、なにあれ……!?」
それも一本や二本ではなく、何十本も生え、伸びてくる。
それは腕を繋ぎ合わせて作ったような、グロテスクな触手だった。
先端についている手が、何かを求めるように蠢いている。
「きもっ!!」
「ドルクス」
エルリクは一斉に向かってくる触手に再び呪文をかけた。
途端に触手の動きが緩慢になる。
便利な魔法だが、あまり効果時間は長くないようだ。
「ありがとう、エルリク」
「気をつけろ。あれに背中を触れられたら死ぬぞ」
「えっ……」
「生き残ったやつが言ってただろう。昨晩背中を触られたやつが、破裂して死んだって。即死ではないが、半日後くらいに死ぬ」
少女の証言と彼女の表情、そして異様な死体が脳裏に蘇り、ぞっと血の気が引いた。
「そんな魔法、聞いたことないよ……!」
「そうだな。そもそも魔法なのか。呪いと言った方がいいかもしれない」
「あんな死に方絶対やだ……! 即死の方がまだマシ」
インは首を振って自分がそうなっている嫌なイメージを頭から振り落とした。
そして剣を抜いて、目の前で宙ぶらりんになっている腕触手を切りつける。
固い木を切っているような抵抗を感じるが、そのまま力に任せて切断する。
ぼとりと地面に落ちる腕。長さが短くなると人間の腕そのものであり、それはそれで嫌な気持ち悪さを感じた。
ジーナフォリオは悲鳴も上げずに再びふっと霧散した。切り落とした腕も幻のように消える。
「全然ダメージを与えられてる気がしないんだけど」
「そうだな。物体化はするようだが、肉体と言えるかも怪しい。斬った所でさほど痛手ではないのかもしれない」
「そんな……」
「不意打ちには気をつけろ」
いつになく投げやりなアドバイスをされた。
死にたくはないので素直に従うには従うが。
耳の毛で大気の動きを感じ取る。
前方にゆっくりとした気配の動き。
ジーナフォリオは姿を消している時は早く動けないのだろうか。
手に汗をかいてグリップが滑る。
インはズボンで汗を拭って、しっかりと握り直した。
エルリクも短剣の刃の状態をチェックする。
「問題ないな……充分、全力を出せる」
インに聞かせる気はないのか、輪にかけて小さな声でぼそぼそと呟く。
――パキ、パキパキパキ……
枯れ枝が折れるような音を出しながら、ジーナフォリオが現れる。
六つ足の獣のよな竜のような、どことなくずんぐりとした体躯が変形していく。
足は四本に。それぞれが少し伸び、体高が高くなる。
そして、尻尾が鞭のように伸びて、尻尾の表層には無数の腕触手が生え揃って行く。
不気味な音は、体が変形していくときに亡者が無理にへし曲げられている音だったようだ。
「ギャァアアア!!」
ジーナフォリオは叫び声を上げ、細く、長くなった尻尾を振るった。
鞭のようにしなり、凄まじいスピードで地面に大きな溝を作った。
「ひっ……やばくない、これ」
インは思わず悲鳴を上げて、身を縮めた。
インの動体視力でさえ、追うのがやっとだ。
攻撃中は姿を現すのが不幸中の幸いだが、見えていても避けられない可能性が高い。
それに間一髪で避け切ったとして、尻尾に生えた白い毛のような呪いの腕がさらに追い打ちをかける。
絶望的な状況に汗がとまらないインは、静かなエルリクを見上げた。
「……ふふ、ははははは……!!」
がちがちと奥歯を鳴らしながら、エルリクは目を見開いて笑い出した。
恐怖と歓喜がぐちゃぐちゃに混ぜ合わさったような歪な表情。
「ああ、ああ……理不尽だ……酷いな、最高だ……」
「え、エルリク……?」
ぶつぶつと支離滅裂なことを呟くパートナーにインは胸がざわつく。
もしかして恐怖のあまり狂ってしまったのだろうか?
ジーナフォリオがその場で後ろ足を踏み込んだ。
来る――!
インは頭上に剣を掲げて両手で支えた。
回避は間に合わない。受け流す自身もないが、ガードしないより幾分かマシなはずだ。
「ドルクス、ぐっ……!」
エルリクの遅延魔法がすんでのところで発動し、尻尾の動きが止まる。
それでも間近まで迫っていた攻撃によって起こった衝撃波が二人を襲った。
熱を持った衝撃波を受け止める指先や腕の皮膚がじりっ、と焼けた。
「あああッ!」
インは痛みに耐えながら、なんとか防ぎ切る。
エルリクは衝撃波をくらい、後方に吹き飛ばされていた。
「エルリク……!」
「はぁ、はぁ……はぁ、ははは……そうだ」
火傷と裂傷を全身に負ったエルリクが、血まみれの様相で杖をついてゆらりと立ち上がる。
心配するインに目もくれず、殺意が形を成したかのような怪異を見上げる。
まるで神や勇者に祈る敬虔な信者の瞳で、怪異を見つめていた。
尊ぶような、すがるような、揺れる黒い輝き。
「そうだ、怪異ジーナフォリオ……、無力な僕を証明してくれ」
血の流れる手でナイフを握りしめ、杖を手によろよろと怪異に向かって歩き出した。
とても戦いを続けられるダメージではない。
「エルリク、無茶だ……!」
インは止めようと手を伸ばすが、腕が痛みで痙攣し彼の手を掴むことは出来なかった。
なんだこの違和感は――と、遠くなるエルリクの背を見ながら、インは厭な感覚に支配されていた。
もしかしてエルリクは最初から、ジーナフォリオを倒す気なんてなかったのか?
火に飛び込む虫のように、エルリクは怪異に一歩また一歩と近づく。
ジーナフォリオが前足を振るう。
「くそっ……!」
インは悪態をついて剣を手放すと、痛む身体に鞭を打って走りエルリクの手を掴み後ろに思い切り引き寄せた。
「っ……!!」
目の前を巨大な爪が切り裂き、地面に突き刺さる。
その衝撃でまた二人はばらばらに吹き飛ばされた。
あと数センチ前にいたら頭蓋が割られていただろう。
「はっ! 前からきてる……!!」
「ドルク……ッ!」
前足攻撃を避け切った思った瞬間の、尾のなぎ払い。
巨体を捻ることで鞭のような速さで跳んでくる攻撃。
すかさず魔法を使おうとするが、呪文を言い切るより先に、尾が到達した。
「ぐぅっ……!!」
掲げた杖がいとも簡単に折れ、到底受け止められなかった攻撃が、その衝撃をほぼ緩和することなく、エルリクを襲った。
真正面から胴体に攻撃を受け、内臓がひっくり返りそうな衝撃と共にエルリクは数十メートル先の地面に叩きつけられた。
「エルリク!!」
まるでオモチャのように軽々と飛ばされていく彼に手を伸ばすが、届くはずもない。
エルリクは地面に転がったまま、動かなくなった。