邂逅
川に沿って下流へ移動すること一時間。
川岸に上がる不審な足跡を発見した。
濡れていて判別が難しいが、ハージュの中で見た裸足の足跡も混ざっているように見える。
「エルリク、多分あの中」
インが指さした場所は少しの傾斜を上った先だ。
このあたりは川を中心に両端が盛り上がった地形――つまり谷のようになっている。
左右の崖には多くの木や背の高い植物が繁茂していて、非常に見通しが悪い。
しかし、ここからでは見えない谷の頂上付近から、ごまかしようのない血の匂いが流れてくる。
「分かった」
エルリクは躊躇なく、斜面に分け入っていく。
「……はぁ」
気を付けてと忠告しここで帰る手も考えたが、さすがにパーティーメンバーを置いて帰るのは薄情者だ。
いくら武功をあげたとて、仲間を見捨てたという噂が立てば、英雄の名にケチがつくだろう。
インは溜息を一つついて、ジーナフォリオに近づいてからどこか危なっかしくも思える男に着いて行くことにした。
急斜面を登ると、そこは思ったよりも開けていた。
唐突に外気が冷たくなり、エルリクの持つ探知機がけたたましく鳴り響く。
どうやたこの一帯は魔物の巣になっていたようだ。
しかし肝心の魔物はいない――みんな倒れ伏し動かない。
あるものは引き裂かれ、あるものは潰され、あるものは肉塊になっていた。
そんな死骸が何十体と折り重なっている。
その中心にそれはいた。
インが今までに見たことがない姿をしていたが、一目でそれが怪異だと分かった。
背の高さは見上げるほど――5mほどだろうか。
6本の足で巨体を支える、獣とも竜とも言えない異形の姿。
よくよく見るとその足の一本一本が、複数の足……いや複数の人間で出来ていた。
足だけではない、身体全体がそうだった。
人間の干からびた死体が何百と寄り集まって構成されているのだ。
まるで墓場の遺体を全て掘り出して年度のようにぎゅっと押し固めて、魔物のような形を作ったような、ひどく歪で醜悪なおぞましい化け物。
明らかに魔物とは一線を画した、悪夢のような存在にインの背中に嫌な汗が流れる。
いつの間にか耳障りな探知機の警告音は止んでいた。
その代わりにジーナフォリオが人間の肋骨でできた牙で、魔物を噛むごりごりとした音が絶え間なく響いていた。
飲み込むでもなく、咀嚼し原形をなくした肉と骨を吐き出す。
そして、こちらに血まみれの頭部を向け――
「―――――――!!」
形容しがたい咆哮を上げた。
男の声、女の声、老人の声、子供の声……いろいろな声が重なっていたが、それらは一様に断末魔の悲鳴だ。
「う……!」
心臓を捕まれたような感覚。
今すぐにでも走ってここから逃げ出したいと本能が叫んでいる。
一刻も早く彼を連れて逃げろと、叫んでいる。
こんなものと戦うつもりなのだろうか、本当に勝算はあるのだろうか。
信じられない気分で、エルリクを見上げると、さすがの彼も顔を青くしていた。
手も震え、インと全く同じ状況だったが、表情だけは違う。
「やっとこれで、僕が見たものが本当だと証明できた」
あの黒い瞳の闇をさらに暗くして、笑っていた。
それは喜びと言うには生ぬるい、陶酔の笑みだ。
「エルリク……?」
「何年だ……? もう10年になるか? これだけの間、姿を現さず、見た者は全て殺してきたんだな。僕ももうそろそろ、自分の記憶を信じられなくなっていたところだった」
エルリクはインの呼びかけには答えず、怪異に向けて語り掛ける。
饒舌に、熱っぽく、偏執的に。
「良かった。名だたる冒険者たちにお前が倒されなくて。こうして再び会えて本当に良かった。今日が僕の最良の日だ」
まるで恋人に語り掛けるような口調に、インは気味の悪さを感じた。
しかしそれが愛情なんかではないことぐらい、エルリクの目を見れば分かる。
それは憎しみの上澄みだ。
どろどろと沈殿した憎悪から浮き上がってくる激情だ。
エルリクを連れて逃げることをインは諦めた。
こんな感情を燃やしている人間を止めることなどできない。
咆哮を上げ終えた怪異は、狼や犬がそうするように身体を震わせた。
巨体がふっと煙のように消え、身体に付着していた血や肉片や泥が、地面にばちゃばちゃと落ちる。
「消えた……!?」
目を凝らしても姿が見えない。
死体と血と汚れを残し消えてしまった。
信じられない現象を目の当たりにして、インは冷たい汗を流した。
「イン、協力ありがとう」
「えっ……」
エルリクは怪異のいた方向をじっと見据えたまま、腰に差した武器を抜きながらそう言った。
鞘に納められていたためインは剣だと思っていたが、現れたそれは大振りの杖だった。
磨かれ、黒曜石のように輝いている。
「お前の命の保証はできない。生き残りたいなら逃げろ」
あまりにもはっきりとした言葉に、インは焦燥感を覚えた。
無謀でも蛮勇でもない、ましてや状況が分からないほど正気を失っているわけでもない。
エルリクはきわめて冷静に、あれと戦うことを喜んでいるのだ。
「本当に戦うつもりなんだね」
「ああ。僕の人生はそのためにある」
エルリクは振り向きもせず、杖を手に駆けだした。
怪異の匂いは色濃く残っている。
それはつまり見えなくなった、その場にまだいる、ということだ。
「ドルクス」
エルリクは杖を掲げて、杖を起動するための呪文を唱えた。
エルリクを含め、多くの人間種は魔法を使えない。
そのため人間の冒険者は物理攻撃に寄った戦士職を選択するものがほとんどだ。
とはいえソロでやっていく上で、中級クエスト以上では魔法が使えないと切り抜けるのが難しい場面が出てくる。
そんな人間の冒険者のために作られているのが、杖を初めとした魔道具である。
正しい呪文で起動させることにより、魔道具に付与された魔法を扱うことができる。
スクロールのような使い切りものもあれば、杖のように何度でも使用できるものもある。
もちろん高額だが、すべてエルリクがこの日のために用意したものである。
出し惜しみは一切なしだ。
呪文を認識し、黒い杖が稲妻のような光を放つ。
それによって、怪異の影が地面に浮かび上がった。
――命中した。
エルリクは口角を上げ、怪異に走り寄る。
ジーナフォリオの前足がエルリクをなぎ倒そうと振り上げられる。その部分だけが実体化しているのか、鋭い骨を爪にした足が中空から現れている。
「危ない……!!」
インが叫んだ。
あの斬撃を一発でも食らえば、人体など簡単に破壊されてしまう。
「ドルクス」
続けて魔法を放つエルリク。
エルリクの目の前まで迫った爪が空中でピタリと止まり、その余波がエルリクの髪を揺らした。
「止まった……?」
……いや、正しくは限りなく遅くなっているのだ。
インははっと武器屋で見た杖を思い出した。
たしか武器屋で一番高額な商品だった、夢見の杖。
脆く扱いが難しいが、付与された魔法の性能が万能である。
ドルクスは、かけた相手の動きを遅くする。
人間より素早い魔物を相手にする冒険者たちにとってはまさに垂涎の的である。
見た目は大きく異なるが、効果はまさに夢見の杖だ。
「これならいける……!」
インは勝ち筋を見出す。
いかに敵が不可視の化け物だとしても、あの巨体で動きも遅くなれば相手の攻撃を避けることも、こちらの攻撃を当てることも容易になるだろう。
エルリクは振り下ろされた怪異の前足をかいくぐり、杖を腰に差すと今度は懐から短剣を取り出す。
鞘を取り去った短剣は、冷えた輝きを放った。
紺碧の刀身は希少な碧銀という希少な鉱石で出来ている。
鋭く硬く重いため、加工にはとんでもない技術を要求される金属だがその切れ味は唯一無二でカメに似た魔物アーケノンの甲羅すら貫通する。
市場には出回ることのない特注品だ。
エルリクはその短剣で自分のすぐ横を掠めた足を切りつける。
一瞬、刃が肉に入り込むズッ、と重い手ごたえを感じたがそれもすぐに消え怪異の姿はまた透明になり、消えた。
「なるほどな。攻撃のために実体化した瞬間しか狙えないわけか」
完全に視界から消えたジーナフォリオを警戒し、エルリクは一旦数メートル下がった。
あの巨体に対して充分な間合いとは言えないが、魔法と合わせればなんとか避け切れる距離のはずだ。
「エルリク、大丈夫!?」
インは剣を抜いてエルリクの元へ駆け寄った。
「ん、まだいたのか?」
エルリクは戦闘に神経を研ぎ澄ませていたのだろう、インのことを意識の外に追いやっていたらしい。
「ずっといたわ!!」
「逃げなくていいのか?」
淡々とエルリクに言われ、インは逡巡した。
やはり逃げた方がいいのかもしれない。
助太刀したところでエルリクの助けになるかも分からない。
だが、なんとなくここで逃げたくないというインの中の負けず嫌いが彼女に剣を抜かせていた。
「にっ……逃げない! パーティーは強敵と戦うために組むもの! 今がその時でしょ!!」
自分に言い聞かせるように言って、見えない敵を睨む。
そんなインを見てエルリクは一つ呆れたように溜息を吐き出した。
「……僕の邪魔はするなよ」




