第2話 絶望の触手
ホープマンが人知れずの都市伝説だったらここまで悩むこともなかった。
疫病騒ぎ以降、数十年間、人を救いすぎた私は正義の味方であることを放棄し、周辺諸国に住む誰もが近寄らない迷い込む森で一人、畑を耕していた。
別に誰かに引き止められたわけでもない。何から隠れているのだろうか。
そんな考えはすぐに捨て、無心で穀物を育てている。農家の死はそれこそ多く見てきた。彼らの経験が糧になっているおかげでこうして一人でも生きていけるわけだが、加工は知識があっても面倒だ。
「ほーら。大麦だぞー」
栽培した大麦を森の中に放る。しばらくして文字通りの鴨がやってきた。
「クアー! クアー!」
「お前を貰う」
鴨は人間の存在に気づいて、逃げようとしたが逃すことはさせない。
「昔、私の友人に足が速い男が居たんだ」
普通の人間ならば逃してしまうであろう距離に居た鴨の首根っこを掴み、絞めて屠殺する。
「鴨鍋だ。すまないな」
一応、謝っておいた。昔、妹を診ていた医者が言っていた感謝の気持ちは大事だと。でもなぜだろう。鴨が羨ましく感じてしまった。私の死には誰が何かを言ってくれるのだろうか。
その夜、鴨鍋に感謝しながら食べ尽くした。
そして、私をは熱病になった。
「ぐああああ!?」
お手制の小屋の中、ベッドから落ちてしまった。あの鴨、病原菌か何かを持っていたのだ。火を通しても消えない病原菌も珍しいが、事実、あの鴨鍋を食べた翌日だ。
「し、死なないけど死ぬ!?」
きっと普通の人間ならば即死であろう熱と痛みを永遠に感じながら体内では壊れた臓器を永久再生を繰り返しているのだろう。鼻血まで出てきたところを見るに脳までいっているようだ。
「こ、この痛みはいつ収まるんだ!?」
治癒魔法を掛けるが意味が無い。痛覚遮断も出来ない。そんな事ができる人間を見たことがないからだ。だからと言ってどんな優秀な医者にもこれは治せないだろう。無理矢理、体を自己再生させる患者を治すことは出来ない。実際なら死んでいるであろう状況だからだ。
「ま、まさか永遠にこのまま……!?」
絶望に打ちひしがれる。このまま絶叫しながら生死を繰り返すだけの存在になってしまうのか。
「ふ、ふふははは!?」
自分でもイカれたのかと思った。笑いながら何も無いのは分かっているはずなのに外へ転がり出る。太陽に眼を焼かれながら、手を空へ伸ばす。
「か、神様……これでも私を連れて行ってはくれないのか!?」
信じたこともない存在に縋ってしまうほどの苦しみ。こんな痛みは久しぶりだ。
斬られても、殴られても、叩かれても、潰されても。痛みはない。
けれどこの痛みは―――新鮮な痛みだ。
「神様を信じているの?」
幻聴だ。ついに幻聴が聞こえ始めた。女の子の声だ。しかも、聞いたことがない。
医者の声でも妹の声でもない。出会ってきた女の子の声と一致しない。
「は、ははっ」
「死ぬの?」
「神は神でも死神か?」
神様は居た。死神が。私にうってつけじゃないか。
「だが」
充分、生きた。この20代の若い体のまま五十年以上、長生きしすぎた。
「死神さん、私を殺してくれ……!」
幻聴に懇願する。心が軽くなった気がした。ああ、私は死にたかったのだと。
死神は笑う。
「死神とはなんだ? 私は*****だ」
「……っ!?」
自然と聞こえるようで聞こえない。そんな不気味な音に痛みと熱を忘れ、立ち上がり、声から距離を取る。
「貴様、なんだ!」
小屋の入口に立てかけてあった斧を握り、不気味な存在に向ける。赤い目をした女の子。しかし、視界がブレる。
「う、くうう……」
片膝を付いてしまった。目の前に居るのは死神以上の災厄なのは分かる。これが熱のせいなのか、ヤツの仕業なのかも定かではない。
「一人で楽しそうだね」
「誰だ。お前は」
「だから、*****だ」
やはり聞こえない。聞こえているようで聞こえない。意味を理解出来ない。こんなのは初めてだ。
「その熱、苦しい? 取り除いてあげようか?」
「その手には乗らん。あの鴨が貴様の差し金なのは検討済みだ」
「いや、違うけど」
「この真実を見通す眼で確かめさせてもらう!」
昔、占い師の老婆が死んだ時に貰った能力だ。これは全てを見通す力を持っている。占い師の老婆は未来視が少しできた程度だったらしいが、私は違う。
不老不死だった魔人の眼を組み合わせれば正体さえ見抜けるのだ。
「は?」
両眼が吹き飛んだ。誰の? 視界が消えた。ああ、私の眼が吹き飛んだのか。だが正直、眼がどうなろうが構わない。再生するからだ。だが、恐れるべきは奴の正体を認識さえ出来ない。ということだ。
奴はこの世のものではない。そういうことだ。
「お兄さん、一人で何しているのさ。そんな中途半端なものを使うからだよ」
「くうう」
眼を通常に戻す。奴の正体は見えないが、今の状態なら直視できる。観察しろ。
赤い目をした黒髪の少女。黒髪ということは東の存在か。いや、これは擬態だ。断定できない。服装は赤いロングコート。これも手掛かりにはならない。
「そんなに見たいなら見せてあげようか? このコートの下をさ」
少女はそう言うと、コートのジッパーを下げる。瞬間、脳がブチブチと音を立てた。
「うわあああああああああああ!?」
少女のコートから湧き出したのは中央にある大きな眼、周りにおびただしい数の緑の大きな太い触手、そして、眼の上に浮かぶ球体。球体は薄い膜で出来ているのか、中には少女が緑の触手に絡まれた状態で笑っていた。
はっきり言って異様だ。
「化け物か」
昔、自分が言われた言葉。烏滸がましい。本当の化け物は、絶望はこれだ。
【お兄さん、熱、治った?】
耳に直接、入り込むような声に背筋が凍る。
希望が見えない。